例によっての、旅先での日本語考である。
今回も東京。
「も」とは書いたが、俺は物見遊山の旅行って誘われない限りしない。知り合いがいる場所に遊びに行く、というのがほとんどである。なので、ネットワーク上のみの知り合いを覗き、顔をあわせたことのある人に限れば、俺が出かける可能性がある地域はごく限られる。人口の関係から言って、東京が多い、ということになる。
交通機関から言ってもそうだが。
能登半島で夕方に行われる宴会に秋田から参加しようと思ったら、羽田から小松を経由しなくては間に合わない、ということは
前に書いたし、
山陰なんて場合は、伊丹か関空から JR を使って、なおかつ複数回の乗り換えで、やはり宴会には間に合わない。
交通機関のことはよくわからないが、長距離列車って運営する側から見たら割に合わないのだろうか。例えば、大阪からただちに日本海側に出て山口から瀬戸内に回って大阪に戻ってくるとか、その逆とか。距離の短いのを組み合わせた方が (使う方の都合はともかく) 効率がいいんだとしても、1 時間以上もの乗り換え待ちのおかげで宴会に間に合わない、つまりいくらかの観光客を失うんだとすれば、効率が、とか言ってる場合じゃねぇような気がするんだが。
ちょっと待ち合わせの時間に遅れそうになったので幹事に電話をした。
前にも書いたが、つきあいの長いグループなので、俺にとっては文体が低い。なので秋田弁がでてくる確率は高い。
いや、出てたらしい。その電話の間に、何度か聞き返された。
流石に、語彙や文法には気をつけている。だがアクセントは、その網から漏れやすい。そもそも、アクセントやイントネーションが意味の弁別にそれほど寄与しない、ということがわかってからは、あんまり気にしないようになってきている。
方言とは関係ないのだが、
三省堂書店では英会話のちらしを配っている人がいた。お姉ちゃんが、通りかかる人の全てに声を掛けている。
「あ、お時間よろしかったら」
と、全ての呼びかけの先頭に「あ、」をくっつけている。
これ、耳にしてみるとわかるが、ずっと聞いていると割と不愉快である。なんでだろう。
「あ、」というのが、ふいに気づいたことを意味する。つまり、声をかけられた方は、本来は大して意識されていなかった、ということになる。軽く見られている、という意識、なんてことも考えたが、これはちょっと無理が感じられる。
現在のプロジェクトのリーダーは、話の端々に「えっとー」を入れる。単なる口癖でなく、他に「あれですよね」、果ては「なんだっけな」まで繰り出すところを見ると、本当に自分が話そうとする内容を整理できていないのだと思われる。実際にその通りである。これでは部下はついてこない。
旭屋書店の水道橋店では、
講談社学術文庫のフェアをやっていた。いいなぁ、こういう本屋があって。田舎ではこれ探すの大変なのよ。
この辺は学生街なので、学生と生徒が多数ウロウロしている。
そこで、高校生が漫画 (あまり数はない) を読みふけっている側を、関西弁の大学生 (だと思う) が通り過ぎる場面に出くわした。
で思ったのだが、都会の人々は、そうでない地域の人々に比べると、普段から多くの方言に接しているはずである。であれば、方言に対してそれなりに異なる感覚が生まれてもよさそうなものである。
いやつまり、なんで田舎者は都会で自分の言葉を使えないのか、という話なのだが。
おそらく、第一の原因は、これがイメージというあやふやなものに左右されるからだ、ということだと思われる。
確かに、都会では他の地域の方言を耳にすることは多い。だが、それは赤の他人の言葉遣いがほとんどだと考えられる。高校生の段階で、県境どころか、鉄道会社やことによると電源の周波数まで変るほどの距離を移動するということは、高校卒業後に比べるとかなり少ないものと思われる (根拠なしの体感のみ)。
赤の他人で無いとすると、テレビである。芸人であったりするかもしれない。その場合、芸の巧拙とは別に、まず好意的な受け止められ方をする、という点が異なる。
*1
目下、関西弁は非常によいイメージで捉えられているそうだが、それはこの辺に原因が無いだろうか。
イメージは、耳にしなくとも生まれる。既存のイメージというのがあるからである。本物と接触する前に、そのイメージだけを取り入れてしまうと、仮に本物と幸運な出会いをしたとしても、少なくともしばらくの間は、それは「例外」と見なされる。そのイメージから脱却するのは難しい。
というわけで、東北弁が既に「汚いズーズー弁」というイメージをもたれてしまっている以上、それをひっくり返すのはかなり大変だ、ということになる。*2
これを打破する方法は一つ。東北弁話者がところかまわず東北弁を使えばいいのである。
つまり、俺がやっていることは、方向としては正しい。ちょっと弱いのが問題だが。