Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第276夜

標準語村




 2/22 の秋田魁新報に、増田町にある西成瀬小学校の廃校のニュースが載っていた。
 それによれば、西成瀬小学校では明治の時代から先進的な標準語教育が行われており、「標準語村 (当時は西成瀬村)」と呼ばれていた、とのことである。
 それにひっかかりを感じるのでちょっと書いてみる。

 ひっかかりの最たるものは、標準語は善、という考え方である。
 記事はまず、「正しい発音を通した自己表現力」と書き起こす。標準語は「正しい」のである。
 に「素直」という表現の危うさを取り上げたことがある、この「正しい」は「素直」よりもダイレクトである。まさしく正当性を表現する単語だ。その反対側には「誤り」があり「不正」があり「非主流」がある。
 その標準語教育を開始した遠藤 熊吉という人は、「『方言は悪い言葉で、標準語こそよい言葉』という味方を厳しくいさめ」たのだそうだが、現校長も記事中で「正しい発音」という言葉を使っているし、同じ日の夕刊に載った、その教育法について研究をしている聖霊短大の北条 常久教授も「澄んだ音声」「発音の不鮮明な生徒」という表現を並べている。どうやら、遠藤教諭の精神は伝わっていないようである。

 西成瀬小学校は増田小学校に統合されるが、この独特の標準語教育はこれで終わりである。増田小学校では行われない。
 記事では、その「発音練習会」という標準語教育手法が、全校集会の形式を取っているため、規模の大きな学校ではなじまない、としている (西成瀬小学校は全校で 68 人)。
 他に、標準語と接する機会が昔に比べると大幅に増えていることも上げられているが、全校集会形式でなければならない理由はなんだろう。
 全校集会形式というのはつまり、「ことば先生」という、「ことば検定」に合格した上級生の呼びかけに対して、挙手した上で、全校生徒の前で話す、ということらしいのだが、これがクラス単位でできないということはあるまい。まして、昨今は、学年やクラスの垣根をとっぱらった試みも行われているらしいし、形を変えて存続させることは可能に思える。
 記事では、この「発音練習会」が児童の積極性向上に寄与していると書いてある。少なくとも、それは放棄されるわけだ。早い話、やる気がないんじゃないか、という気がするのだが。
 大体、「ことば検定」という試験に合格した「ことば先生」というもの自体、旧態依然の試験制度の匂いがするのだがどうか。

 北条教授の文章では、これが成果を上げた例として、「北海道の炭鉱ですぐ親方になった人、秋田の変電所をいくつも転勤したが地域の人とすぐ親しくなれた人」などを挙げているが、おそらく、前者と後者とでは事情が違う。
 前者は、北海道という、明治期に新しい共通語を作り上げた地域が舞台になっている。様々な地域からの入植者がいる環境では、標準語は歓迎されたはずである。
 後者はどうだろう。「西成瀬から来ました」と発話したとき、なんで秋田弁じゃないんだ、と悪感情を持たれた、という例はないんだろうか。確かに、県南の西成瀬から県北の大館、能代などに行ったら話は通じまいが、「標準語を話す秋田衆」というのは決して歓迎一方ではなかったのではないか、という気がする。

 そして最も重要なポイントだと思われるのが、西成瀬小学校は児童数の減少により廃校されるのだ、ということである。
 北条教授を再び引けば、
 西成瀬は、山間の耕地の少ない寒村で、二、三男は学校を卒業とすると職を求めて村を後にする。貧しく幼い彼らに都会で暮らす生活の力を与えてやりたい。青年教師遠藤熊吉が、教え子に与えた生活の力が標準語であった。
 つまり、これは、出て行く者のための教育だったのである。村から人が減るということが前提になっている、ということだ。
 勿論、村にとどまった人たちにおいても、秋田弁と標準語のバイリンガルであることはマイナスではなかったと思うのだが、娘たちは東京に行っても女中として喜んで迎えられた、という例などを見る限り、こう言ってはなんだが、この標準語教育と閉校は同じ線上にあると考えざるを得ない。
 そのために標準語教育をしたのだ、などと言うつもりは全くないので誤解して欲しくないのだが、残念ながらその標準語教育は地域の活性化には貢献できなかったらしい、ということは言える。

 そこで話を最初に戻すのだが、それはやはり、「標準語は正しいのだ」という、他者に依存した考え方が、無意識かそれとも自覚してかは知らないが、どこかにあったからではないか。ツールとしてではなく、「これが正しい」という姿勢で教える限り、標準語地域、つまり東京や、そちらのベクトル上にある仙台市、秋田市といった方面への流出は必然的に起こる。
 別に西成瀬に限った話ではないが、「秋田では秋田弁が使われるが、秋田弁を解しない人との交流には標準語を使う」という「これもあるがあれもある」という姿勢に切り替わらない限り、地域衰退の流れに歯止めがかかることはないような気がする。




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