前にも書いたが、盛岡に行ったときに『もりおか弁入門』という本を買ってきた。一年近く前のことだ。もうそんなになるのか。
買ったのは、さわや書店という本屋である。
盛岡の駅前付近は一方通行が多く、行くのに難儀したが、なかなか気合いの入った本屋であった。
入り口からの、地図−旅行関係ムック−地元出版という棚の流れは見事な「罠」である。手書きの POP も気合いが入っている。宝塚関係、特撮関係が妙な充実度を見せているのはなぜだ。
さて、『もりおか弁入門』だが。
なんというか、文章が、パソコン通信の書き込みを思わせる。どこかどう、と聞かれると困るが、そういう印象を持った。
前半は、大雑把な品詞ごとの文章、後半が単語帳である。
単語帳で気になるのは、単に音が変わっただけ、というのが多くはないか、ということである。
まぁ、この辺が、その地域で (あるいはその人が) 何に方言臭を感じるかを知る上で重要な手がかりになるのだが。
ただ、前にも書いたような気がするが、文体が低いことイコール方言臭という人が多い、ということは言っておく.
標準語形で書かれている地の文や、俚言を説明する文に俚言が出てくるのも気になった。
「赤ん坊がまめに育つ」なんてのはその最たるもので、確かに辞書を引けば「忠実」と書き「丈夫」という意味だということはわかるのだが、東北以外の人間がそういう使い方をしているのを見たことがない。
「
グヤメガス」を「ぐやぐやと甲斐性のないことを言って回る」と言われても、よそ者は困ってしまうのである。
以下、単語別。
チャコ
「猫を呼ぶ声」だそうである。鶏の「とーとーとー」みたいなものか。秋田では「猫につけられることの多い名前」である。
ケァッパリ
誤って水に落ちること。秋田に「
かっぱとる」という動詞があるが、音がやけに似ているのが気になる。「河童取る」ってのはひょっとして民間語源か?
サムツラスナ
「寒い顔をするな」ということだと思うのだが、意味は「寒い思いをするだけなのに」なのだそうである。意味は同情か?
「
ナンキ゜ツラスンナ」というのもあるそうだ。こっちは「難儀な思いをするだけなのに」。
ハラクソ・ワル
これはわかる、と思ったのだが、「裏切られたり無理を強いられたりして非常に腹立たしいこと」と意味がやけに細かい。単に不愉快なのは「
ハランベ・ワル」なのだそうな。
ヒジャッコ・タデル
「正座する」。
立てるのか。
ブジョホ
これは「不調法」。
「
ブジョホ・ヅケ」というのがあるらしい。漬物で、食べると中から汁が飛び出し、粗相をしてしまうのだそうな。
何かというと、トマトの漬物。食ってみたいぞ。
似たようなのに、「
ブジョホ・マンジュウ」というのがあるそうな。こっちでは、飛び出すのは黒蜜。これも食ってみたい。
ブンマワシ
コンパス (円を書く文房具の方)。
盛岡の俚言ではない。昔から思っているのだが、「ぶん」というのをくっつけるほど勢いよく回すか?
ボンボ・フデ
毛先の擦り切れた筆。
これ、
仙台では「ごんぼふで」だった。「牛蒡」かと思ったのだが、「ボンボ」というのは「先端が尖らず丸みをおびた物」なのだそうである。「ゴボウ」とは別物なのか?
「あとがき」に、南部藩の方言集に載っている単語の使用率に関するエピソードがある。10 年で 10% づつ減っているのだそうである。ということは 100 年で盛岡弁は消滅することになる。
*2
だが、減った 10% を全て標準語形がカバーしているわけではあるまい*3。方言自体が形を変える、「新方言」「ネオ方言」と呼ばれる現象もあるはずだ。
もし、それも含めて方言の衰退というのであれば、日本語も英語もフランス語も全て衰退していることになる。「変化」と「衰退」は別物である。
また、子供が「大げさに敢えて粗野に方言を言って遊ぶ?」現象もあるそうだが、いわゆるツッパリ系がわざと柄の悪い表現を好んで使う、というのは前から見られることである。確かに、汚い表現ばかりが残ってしまうのは好ましくないことだろうが、それも方言の活力として認めなければならないのではないか。
「まえがき」にもあるが、町興しや村興しというコンテキストで方言の「保護」を語られることがある。だが、一つだけ気になる話があるので書いておく。
とある祭りが、文化財として指定された。
後年、詳しく調べていってみたら、祭りの行列の形態が今とは違っていることがわかった。
それではオリジナルに戻そうか、という話が出たが、文化財として指定されてしまったので変更は許されない、というお達しがあったのだそうな。
お役所が、「これが○○弁である」と決めることもあるまいが、本来、役所と文化は水と油なのじゃないか、という話。