メグレ警視
人間の謎解き明かす

「私の愛読書」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

9 私が愛した名探偵
 メグレ警視を名探偵と呼ぶことには、ちょっと違和感が、あるかもしれない。まず彼はパリ警視庁の司法警察局の警視であって、要するに警察官である。ミステリーの一分野に警察ものがあって、名刑事も名探偵の一種とみなすようだが、名探偵という言葉には私立探偵のほうが似合うような気がする。
 しかも、メグレ警視はあっと驚くような推理をする人間ではない。そもそも彼が扱う事件に、奇想天外なトリックや、摩詞不思議な謎なんてまったくないのだ。ある金持ちが夫人を殺しただとか、裏街に住むお針子が殺されただとかの、そこいらにいくらでもありそうな事件をメグレは担当するだけである。
 メグレは、論理的な推理をしない。その時そのドアはなぜ開いていたのか、とか、その日に限って夫人が帽子をかぶっていたのはなぜか、などを推理して、意外な事実をあばいていくのが名探偵だと思っていると、メグレにはきょとんとしてしまう。
 メグレはただ、事件現場を見て、関係者を訪ねて話をきき、部下に容疑者を見張らせ、いろんな酒を飲んで無口に考えているだけである。
 そしてメグレが他の名探偵といちばん違うところは、最後には犯人をおとすのだが、その時、そこに理由がないことである。これこれの理由でお前が犯人だ、ということをメグレは言わない。
 メグレ警視ものは七十冊以上あるが、そのほとんどの作品の最後の章は、メグレが容疑者と対決するシーンだ。警察で対決する場合、長くなりそうだと思うと彼は近所の店からサンドイッチとビールをとって、腹ごしらえをしながら話をつめていく。
 事件の日にあったことをひとつひとつ確認していく。その時の心の動きも。そして、メグレは言う。
 「で、あなたが殺したんですね」
 すると容疑者が言う。
 「そうするしかなかった」
 メグレが、何をもってその容疑者を犯人だと考えたのかの説明がないのである。それというのは、推理小説としてはすごく異色なことである。
 でも、読者が、どうしてそうなるの、というポカンとした気分になることはない。むしろ、なるほど、そうだったのか、と深く納得するのである。事件が解明された時に読者は、人生のドラマや、人間の真実に導かれているからだ。
 メグレ警視は、誰が殺したか、ではなく、なぜその男が殺人を犯したか、を解明するのだ。そこが他の名探偵とはまったく違う。
 つまり、メグレ警視が解き明かしている謎は人間の謎なのである。どうしてそんな犯罪がおきたのかを、彼は心のドラマの側から考えでいく。
 というわけで、やっぱりメグレ警視は名探偵なのだ。人間の謎を解く名探偵だが。
 ちなみに、彼はいつもうまそうな庶民の料理を食べていて、そっちの方面にも読む楽しみがあります。

目次に戻る

清水 義範(しみず・よしのり: 作家)
 1947年生まれ。88年に『国語入試問題必勝法』で第9回吉川英治文学新人賞。著書に『蕎麦ときしめん』『永遠のジャック&ベテイ』など。最新刊にブラックユーモア小説『死神』。

履歴書
 新保 博久

 ジョルジュ・シムノン(ベルギー・1903〜89)は指折りの多作家で、ジュール・メグレ警視の活躍を31年の『怪盗レトン』(創元・角川・旺文社文庫とも品切れ)から休筆に入った72年の『メグレ最後の事件』(河出書房新社、品切れ)まで長編六十九冊、短編集六冊、計百二編(異説もある)で描いたほか、数百冊の普通小説を書いた。河出書房新杜版メグレシリーズ全五十巻はじめ邦訳は大半が入手困難だがシリーズ代表作として初期二長編の合本『男の首・黄色い犬』(創元推理文庫)、短編集『メグレ警視』(集英社文庫)がある。映画では、『メグレ罠を張る』(ハヤカワ・ミステリ文庫)に基づくジャン・ギヤバン主演の「殺人鬼に罠をかけろ(パリ連続殺人事件)」 (58年)が有名だが、ビデオは発売されていない。 (ミステリー評論家)
(出典 朝日新聞 1998.4.20 夕刊)

10 海外事情「シムノンは20世紀年代記」   飛幡祐規(たかはた ゆうき: フリーライター)
 今年はベルギー出身の作家ジョルジュ・シムノン(1903〜89)の生誕100周年にあたる。
 シムノンといえば、メグレ警視を主人公にした探偵小説が頭に浮かぶが、80編に及ぶメグレ・シリーズ以外にも数多くの長編と短編がある。生誕100周年記念に再版された全集『Tout Simenon』(Omnibus)全25巻には、200編以上が収められている。5月には、作家にとって最高の栄誉とされるガリマール社の「ラ・プレイアード版」にシムノン2巻が加わる予定。研究者による本や写真集も新たに出版された。
 メグレ・シリーズの刊行出版が始まると、シムノンはたちまち大衆的な人気作家になる。同時に,パリの「純文学」文壇でも高い評価を得た。シムノンを「最も偉大な真の小説家」と称賛したアンドレ・ジッドとの間には、往復書簡が残されている。
 シムノンの魅力は、シンプルな文体と素材感のある単語が醸し出す独特の「雰囲気」だといわれる。探偵小説の形をとっていても、読者は謎の究明より、登場人物の繰り広げる人間劇に魅了される。映画化やテレビドラマ化された作品も多い。ちなみに、シムノンとイタリアの映画監督フェリーニはお互いの作品に強く惹(ひ)かれ、交友を結んだ。
 主題はいつも人間の挫折や失敗だが、20年代から70年代にかけての社会と人間模様をつづったシムノンの作品は、20世紀の年代記としても興味深い。
(出典 日経新聞 2003.1.19)

目次に戻る

11 メグレの誕生
  「私は、メグレという人物を創造するのに自分自身をモデルにした、メグレは一種のコピーにすぎない、と書かれてあるのを読んだ。私はこれをはっきりと否定する。私が最初のメグレを書いた時は、その後続々とメグレ物を書くことになるとは思ってもいなかった。ごく初期においては、メグレは挿話的人物にすぎないし、その後も、彼は副人物だったのである。」(『わが足跡』)

 しかし‥‥‥
 1966年、ジョルジュ・シムノンは司法警察警視ジュール・メグレをどのようにして生み出したかを語っている。

 「24歳の時、フランスの隅々までも知りたい気持になった。そして、都市や村落は、街道や駅に面したところでは、最も平凡なあるいは最も醜い部分しか示しておらず、その心の底、人に知られない生活などは河や運河にあることを私は発見した。これこそ、最も古いフランスの都市や村落の真の顔なのである。」(『われ老いし時』)

 ジネットと命名された長さ5メートルのエンジン付の小船は、キャンバス張りのキャビンと、タイプライター、衣類、炊事用具を乗せたボートを曳航し、シムノンはこの船でフランス中の運河、水門、川を廻った。その間、毎日、水のほとりのテントの下で、彼は大衆小説を2章、3章と書いていった。そして、もっと大きな船を作らせようと考えた。
 1928−1929年の冬はすぎて、オストロゴートと命名された船がフェカンの造船所で春を前にしてでき上った。ドーヴァー海峡で使われる漁船にならった一本マストの船で、長さ10メートル、幅4メートル、30馬力のエンジンをそなえ、がっしりとした作りで、へさきは厚い柏材を使つた。この船は、セーヌ河のシテ島の先端部にあるヴェール・ギャランに碇泊した。そして命名はノートル・ダム寺院の司祭が行なった。

 数ヵ月の後、オストロゴートはオラソダのデルフジールの港に入った。運河をとおり、ムーズ河に出るという経路をたどった。シムノンは堤防にかこまれた薔薇色の町をここに見出した。困ったことには、船底から水漏れのあるのがわかった。すぐに修理しなければならない。そこで船はドックに入れられ、職工の手にまかされた。
 シムノソは書きたくてたまらなかった。執筆中の小説を完結させたかった。しかし、ホテルに入る気持はなかった。

目次に戻る

「偶然にも、運河のほとりに、誰の所有でもないと思われる古船の半分沈みかかったょうなのを見つけた。リガから運ばれて来た材木の浮いている、古い運河に特有の赤茶けた水にそれはひたっており、船上でも、30センチから40センチの水中を歩かねばならなかった。」
「この古船に、タイプライターを置くための大箱、腰かけるための、これより少し小さな箱、足を置くための二つの小さな箱を置いた。これが、メグレの真のゆり籠になったのである。」
 26歳になって、著述家としての見習いは終ったと判断したシムノンは、それでも、今日までに書かれて来たものよりも、ずっと本格的とはいわないまでも、もっとむずかしいものに近づくことをためらっていた。そこで‥‥‥
「或る晴れた日の朝、ル・パヴィヨンという名のカフェだったと思うが、数滴の苦味剤によって色のついたオランダ・ジンを一杯、二杯、三杯と私は飲んだ。それから一時問ばかり後、寝ぼけたような気持の中で、私はしかるべき男の大きな、無感動な身体全体が見え始めてきた。
 その日の午後、私はそれに幾つかのアクセサリーをつけ加えた。パイプ、山高帽、ビロードの襟のついた厚いオーバーなどがそれである。そして、この見棄てられた古船には湿った寒気が支配していたので、私はこの男の事務室に、鋳鉄製の古いストーブを与えることにした。翌日の昼には、『ラトビアのピエトル』の第一章が書かれた。」
 メグレは、船底に水漏れがあったために、デルフジールで生れたのである。まったく文学的な誕生であり、後年、この町にメグレの銅像が立つのである。
 メグレが創造された時、オランダ・ジンを飲んで、寝ぼけたような状態の中で「おじいちゃん」とその巨体、祖父クレチアンの帽子、7年前に死んだが、いつもジョルジュの心の中にある父デジレの体格、その服装の習慣、そのパイプ、あの有名な古い鋳鉄製のストーブ、こういった家族の思い出がシムノンの記憶によみがえり、その創造的な天才によって巧みに配置されたのではないだろうか。たしかにこの時、彼のいうように、これがシリーズ物の主人公になるなどとは彼は知らなかったであろう。しかし、創造の過程は、彼自身の最も奥深いところで行なわれたといえる。彼の無意識の中で、押しかくされている過去から、現在再構成される多くのイメージを取り出し、それが時間をかけて磨かれていくのである。
 メグレという名前を、シムノンはどのようにして考え出したのだろうか。「いつの間にかそんな名がついたのです」と彼は答える。そうかも知れない。しかしメグレという一族がリエージュに住んでおり、その一族の一人が文学史で有名であったことを述べておこう。
 ここで、メグレ警視の最初の捜査がはじまる。そこにはスラブ人、オデッサで生れたユダヤ娘が登場し、小説の終るのはフランスのフェカンである。この港を去ってシムノンはオランダに来たのだった。こうした各種の単純な要素は、環境がいかにシムノンに影響を与えたかを示している。
(出典 シムノンとメゾレ警視[COMMISSAIRE MAIGRET, QUI ETES-VOUS?] ジル・アンリ著 桶谷繁雄訳 (株) 河出書房新社)

目次に戻る

13. 浦真弓さんからのメール
 次の項にもあるようにジョルジュ・シムノンは1903年に生まれたので、今年(2003)は生誕百年の記念すべき年に当たります。そのせいかオランダ在住の浦真弓さんからメールを頂き、お陰で記事が増えました。
 このメールの全文は次の通りです。

鈴木靖三様、はじめまして。
鈴木様のホームページを拝見し、メールを書かせていただいています。
私は、オランダ人の夫のGerardと、オランダ北部の小さな町、Delfzijl に住んでいます、浦 真弓と申します。 
メグレ警視にに関心のある方なら、御存知だと思うのですが、ジョルジュ・シメノンは、ここ Delfzijl でメグレ警視の構想を得、書き始めました。
Delfzijl は又、『オランダの犯罪』という本の舞台にもなっています。

ここ Delfzijl では、運河の傍に建立された「メグレの像」を見ることができるだけではなく、「何かが起こった場所」も、未だにいくつか見ることができます。

もし、メグレ警視と Delfzijl の関係に興味を持たれましたら、連絡してください。 ここでの情報をもう少し詳しくお伝えすることができるのではないかと思っています。

鈴木様の御健康と、ますますの御活躍を祈り上げます。

浦 真弓 E-mail : hoja95@keyaccess.nl

 右の写真は最近送っていただいたメグレの銅像です。

目次に戻る

 このメールを初めとして何回かメールをやりとりした結果、まず「ジョルジュ・シメノンは、ここ Delfzijl でメグレ警視の構想を得、書き始めました。」を確認したのが「 11. メグレの誕生」です。続いて『オランダの犯罪』も入手して浦さんに送りました。
 さらに浦さんからは次のメールを頂きました。

今日、Delfzijl 市(正式には市ではない地方公共団体です)の文化部を訪れ、文化部長の方とお話させていただきました。私の関心が、日本の「メグレ」の読者にあること、「メグレ」と事実上の「メグレ」生誕の地Delfzijl との関係にあること、そして日本の読者には Delfzijl のことはほとんど知られていないということを、説明しました。
鈴木様はフランス語をよく理解されると思いましたので、フランス語のインフォメーションもあるか尋ね、いただいて来ました。

 オランダの玄関口はアムステルダムです。Delfzijlはフローニンゲン州にあり、アムステルダムからフローニンゲン(フローニンゲン州の首都)までは列車で約2時間20分です。Delfzijlには更にバス又は船で約30分かかります。

 Delfzijlを紹介しようと思ったのですが、日本の旅行案内にはフローニンゲンのことは出ていても、Delfzijlのことは何も載っていません。そこで浦さんにお願いして以下の情報を戴きました。

[Delfzijlはどんな町?]

 Delfzijl は、エームス川の河口に位置し、ロッテルダム、アムステルダムに次ぐ、オランダ第3の、そして北部オランダでは最大の港町です。

 近郊で塩とガスが発見されたことで、1960年代から大規模工業が発展し、ケミパークと呼ばれる区域には、AKZOの他、日本の帝人やデラミネ(AKZOと日本のトーソーのジョイントベンチャー企業)の工場も入っています。

 オランダ史の中で最も偉大な提督、デ・ラウターは、1665年にイギリスとの交戦を避け、パイロットなしで船団を率いてDelfzijl に入港し、しばらく滞在しました。
 プロテスタントの過酷な抑圧者、スペイン総督アルバ公の支配に反対してオランダ独立運動を開始したオラニエ公ウィレムは、祖国の父として、オランダ最初の王ウィレム1世となりますが、アルバ公もウィレムの息子のマウリッツも共に、Delfzijlを北部オランダの中心地とする偉大な計画を抱いていました。マウリッツはDelfzijlに要塞を建造し、この技師の名前は、現在市役所が位置する場所の広場の名前として残っています。
 ナポレオン率いるフランス軍による占領から解放されたのも、最後かそれに近い時でしたし(1814年)、第二次大戦でドイツ軍の占領から解放されたのも、最後でした。これらは、Delfzijlが如何に戦略上重要な地であったかを物語っています。

目次に戻る

 Delfzijlの市街地を外れると、すぐにのどかな農牧場が広がっており、牛、馬、羊が静かに草を食んでいるのを見ることができます。
 ここは、かつては、ワデン海の一部の湿地帯で、人々は満潮時の水から自分達を守るために、小さな丘を作り、その上に住むようになりました。その丘はヴィアダと呼ばれ、ローマ人の目には、満潮時の彼等はまるで船上の船乗りのように見えた、という記述が残っています。ここには、例えば、アウトヴィアダ、ホルヴィアダ等、"ヴィアダ"がついている地名が数多くあります。
 ヴィアダの中心に教会、その周りに人々の家という集落を、農村風景のあちこちに見ることができます。11〜12世紀頃からの旧い教会は、主としてボランティアの人達によって維持されています。

 又、ボルフ(旧邸宅)もよく保存され、美しい庭と共に、建物の内部も公開されています。いくつかのボルフはレストランが併設され、ウェディングパーティの会場としても利用されています。

 堤防が作られてから、湿地帯であった時の深い溝の部分が自然の水路として残り、この地方独特のモア(複数形はモーレン)と呼ばれる水路の美しい景観を形作っています。
 もちろん、人工的な運河によって自然の川や水路は縦横に結ばれており、小さなボートやカヌーで、この美しい農村地帯を気の向くままに移動することができます。

 又、少し北に行ったところには、野鳥観察に多くの人が集まる場所があります。エームス川の河畔にも、自然をそのままに保存したエリアがあり、野鳥観察小屋に飲食物を持ちこんで、1日中野鳥を観察したり、写真のシャッターチャンスを待ったりすることもできます。

 堤防とヴィアダのゆるやかな傾斜を除けば、見渡す限りの平面で、特別な自転車のための小道が農牧場を縫って用意されており、サイクリングや散策が楽しめます。
 素敵な場所を見つけたら、静けさの中で、スケッチや撮影等を、思う存分試みることができます。

 夏には、エームス川を船で、対岸のドイツの町や、ボルクム島等の島々に行くこともできます。

目次に戻る

 旧い大学の町(フローニンゲン大学は1614年の創立)フローニンゲン市にも、電車やバスで約45分で到着します。建物自体がモダンアートである、フローニンゲル博物館の他、様々な歴史的建造物を見ることができます。

 カルビン派の信仰心の厚いヴェステルエムデンの村(自転車で約1時間)には、レンブラントを師と仰ぎ、静物や教会を描き続けている、Henk Helmantel が住んでいます。住居/アトリエの隣に美術館を作り、適時小さな美術展が公開され、来訪者にはその庭でコーヒー/紅茶が家族の人達等によって供されます。彼の作品は、海外でも何度か展覧会が開かれ、郷土のフローニンゲンのみならず世界中に愛好者を有しています。

 北にはワデン海があり、ワトローペン(海を歩いてワデン海の島々へ渡るオランダ独特のスポーツ)をガイドの案内で楽しめます(中心地はピーターブーレン)。ピーターブーレンにはアザラシのケアセンターもあり、愛らしいアザラシの赤ちゃんや子供達をのんびりと眺めることもできます。

 Delfzijlは又、作家ジョルジュ・シムノンが休暇で訪問中に船が故障し、修理の間滞在する事になり、メグレ警部の構想が生まれた土地でもあり、シリーズ中の「オランダの犯罪」の舞台ともなりました。
 Delfzijl駅前のホテル・ドゥ・バスティオンは、メグレが駅に着いて最初に入ったカフェでの建物で、その外観は当時のままに保存されており、宿泊にも最適のホテルです。
 ここDelfzijlではおよそ5年に1度、帆船フェスティバルが開かれているのですが、今年(2003年)7月に第4回目の"DelfSail"が開催されました。日本からこの"DelfSail 2003"に参加した横浜のシャンティ合唱団「帆船日本丸男声合唱団」も、このホテルに1週間滞在しました。
 このホテルから、「オランダの犯罪」に出てくる場所やシムノンゆかりの地を歩いてまわるメグレ・ウォーキングツアーが楽しめます。

 町の中心には風車アダム、近くにもう一つの風車エオリアス(山口県周南市の永源山公園にある「風車ゆめ」はこのレプリカです)があり、一定の日時には風車の中を見学することができます。

 南西約10kmにあるスヒルダメア湖では、夏にはキャンプやサーフィン等の水上スポーツも楽しめます。

 フローニンゲン州の南には、ファン・ゴッホが愛し、滞在し、その手紙の中で「表現できないくらい美しい」と書いたドレンテ州があり、約1時間で行くことができます。
 フローニンゲン州の西のフリースランド州にも約1時間で行け、湖で水上スポーツが楽しめます。

 フローニンゲン市郊外のエールデには、フローニンゲン空港があり、ここからヨーロッパの様々な都市へ格安の航空券で行くこともできます(イギリスのEasy Jet 等が利用できます)。

 Delfzijlは、静けさの中で自然の美しさを味わうことができるのと同時に、近代的な便利さも利用できる町です。ここを拠点に、それぞれの好みに合わせた、様々な旅行プランをたてることができます。

目次に戻る

「私の愛読書」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

[Last Updated 11/30/2005]