本の紹介 日本辺境論

  目 次

1. 本との出会い
2. 本の概要
3. 本の目次
4. はじめに
5. 内容の要約
6. おわりに
7. 著者紹介
8. 読後感


内田 樹著
新潮新書
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1. 本との出会い
 V Age Clubの「新書を読む会」で、今年(2010年)の春に、この本を採り上げました。たまたま、この本が昨年度の新書大賞に選ばれたので、NMCの「読書会」で、この本を今月(2010年6月)報告しました。

2. 本の概要
 日本人とは辺境人である−−「日本人とは何ものか」という大きな問いに、著者は正面から答える。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人なのだ、と。日露戦争から太平洋戦争までは、辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。丸山 眞男、澤庵、武士道から水戸黄門、養老孟司、マンガまで、多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。読み出したら止らない、日本論の金字塔、ここに誕生。

3. 本の目次

はじめに

氈@日本人は辺境人である 15
「大きな物語」が消えてしまった 日本人はきょろきょろする オバマ演説を日本人ができない理由 他国との比較でしか自国を語れない
「お前の気持ちがわかる」空気で戦争 ロジックはいつも「被害者意識」 「辺境人」のメンタリティ 明治人にとって「日本は中華」だった
日本人が日本人でなくなるとき とことん辺境で行こう

 辺境人の「学び」は効率がいい 101
「アメリカの司馬遼太郎」 君が代と日の丸の根拠 虎の威を借る狐の意見 起源からの遅れ 『武士道』を読む
無防備に開放する日本人  便所掃除がなぜ修業なのか 学びの極意 『水戸黄門』のドラマツルギー

。 「機(き)」の思想 158
どこか遠くにあるはずの叡智 極楽でも地獄でもよい  「機」と「辺境人の時間」 武道的な「天下無敵」の意味 敵を作らない「私」とは
肌理(きめ)細かく身体を使う 「ありもの」の「使い回し」 「学ぶ力」の劣化 わからないけれど、わかる 「世界の中心にいない」という前提

「 辺境人は日本語と共に 211
「ぼく」がなぜこの本を書けなかったのか 「もしもし」が伝わること 不自然なほどに態度の大きな人間 日本語の特殊性はどこにあるか
日本語がマンガ脳を育んだ 「真名(まな)」と「仮名」の使い分け 日本人の召命(しょうめい)

終わりに 248
註 253

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4. はじめに
 みなさん、こんにちは。内田樹です。今回は「日本辺境論」です。アメリカ論、中国論と来て、今回は日本論。日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できるというのが本書で私が説くところであります。
 もちろん、日本の周縁性や辺境性や後進性によって日本文化の特殊性を語られた方はこれまでにたくさんおられました。ですから、最初にお断りしておきますけれど、本書のコンテンツにはあまり(というかほとんど)新味がありません(「辺境人の性格論」は丸山眞男からの、「辺境人の時間論」は澤庵禅師(たくあんぜんじ)からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売りです。この場を借りて、先賢に謝意を表しておきます)。
 でも、新味があろうとなかろうと、繰り返し確認しておくことが必要な命題というのはあります。私たちはどういう固有の文化をもち、どのような思考や行動上の「民族誌的奇習」をもち、それが私たちの眼に映じる世界像にどのようなバイアスをかけているか。それを確認する仕事に「もう、これで十分」ということはありません。朝起きたら顔を洗って歯を磨くようなものです。一昨日(おととい)洗ったからもういいよというわけにはゆきません。
 放っておくとすぐに混濁してくる世界像を毎日補正する。手間もかかるし、報われることも少ない仕事ですけれど(「雪かき」とか「どぶさらい」みたいなものですから)、きちんとやっておかないと、壁のすきまからどろどろとしたものが浸入してきて、だんだん住む場所が汚れてくる。私はそれが厭(いや)なんです。住むところは原則きちんとしておきたい。別に部屋が狭くても、不便でも、安普請(やすぶしん)でもいい。すみずみまで掃除が行き届いていて、ささやかな家具がていねいに磨き込まれているような空間にしておきたい。
 汚い部屋にいる方が居心地がいい、という人ももちろんいます。適度に自分の出した汚物にまみれている方が「自分らしい」という気持ちもわからないではありません。けれども、それだと家に「お客さん」を迎えられない。家の中を汚しっばなしにする人は、家の中はぴかぴかに磨き上げられ、塵(ちり)一つ落ちていないけれど、他人が来て汚されると厭だから家には誰も呼ばないという神経症的なきれい好きと、排他的である点では双生児のように似ています。
 私が「お掃除をきちんとしておく方がいい」と申し上げているのは、要するに、いつでも「お客さん」を迎え入れることができるようにしておくことがたいせつだと思っているからです。「お客さん」とは「他者」のことです。あとの方で出てきますから、そのときにまたご説明しますけれど、今のところは「まあ『他者』と言ったら、他の人のことだわな」というくらいの理解で十分です。とにかく、本書は「お客さん」を家に迎え入れるために「お掃除」するということを目的とした本です。
 お掃除ですから、それほど組織的に行われるわけではありません。というか、お掃除というのはもともと組織的にやるものではないんです。組織的かつ徹底的にやろうと思うと、思っただけでうんざりして、つい先延ばしにしてしまいますから。お掃除の要諦は「徹底的にやってはいけない」ということです。とりあえず「足元のゴミを拾う」ことで満足する。手のつけられないほど散乱した場所を片付けるという経験をされた方はおわかりでしょうけれど、足元のゴミを拾うところからしかカオスの補正は始まらない。完壁な作業工程表に基づき、システマティックかつ合理的に掃除をするということは原理的に不可能なんです。そのような工程表の作成に投じる余力があるような事態はそもそも「カオス」とは呼びませんから。
 この本もそうです。「お掃除本」ですので、とりあえず「足元のゴミを拾う」ところから始める。一つ拾ったら、目に入った次のゴミを拾う。最初のゴミが空き缶で、次のゴミが段ボール箱で、というときに「拾い方に体系性がない」とか「サイズを揃えてもってこい」とか言われても困ります。そういうことを言うのは掃除をしたことのない人間です。

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「民族誌的奇習の補正」というような作業は本質的にエンドレスです。社会集団が存在する限り、どこにも固有の思考上・行動上の奇習奇癖があり、それをなくしたら、その社会集団は別のものになってしまう(あるいはなくなってしまう)。ですからそれを根治根絶することはできません。第一、その作業をしているのが当の奇習を日々実践している当人たちであるわけですから、何をしてもそこに奇習が再生産されてしまうことは避けがたい。
 これは山頂まで岩を押し上げると、岩が転げ落ち、それをまた山頂まで押し上げるという永劫(えいごう)の罰を受けたギリシャ神話のシシュフォスの労役に似ています。アルベール・カミュは、谷底へ転がり落ちた岩を押し上げるために山頂から再び谷底へ戻ってゆくときのシシュフォスの一瞬の休息のうちに人間の尊厳を見出(みいだ)しました。
「坂を下っている、このわずかな休息のときのシシュフォスが私を惹きつける。(……)重く、しかし確かな足取りで、終わりを知らない苦役(くえき)に向かって山を下る男の姿が見える。息継ぎのように、そして彼の不幸と同じように確実に回帰してくるこの時間は覚醒の時間でもある。山頂を離れ、ゆっくりと神々の巣穴に向けて下ってゆくこの一瞬一瞬において、彼は彼の運命に優越している。彼は彼の岩よりも強い。(……)彼が山を下りながら考えているのは彼自身の状況についてである。彼の苦しみを増すはずのその明察が同時に彼の勝利を成就(じょうじゅ)する。どのような運命もそれを俯瞰(ふかん)するまなざしには打ち勝つことができないからだ。」
 シシュフォスとともに山を下りながら、私たちも私たち自身の状況について考えたいと思います。「辺境性」という私たちの「不幸」(というより、私たちの「宿命」)は、今までもこれからも確実に回帰し、永遠に厄介(やっかい)払いすることはできません。でも、明察を以(もっ)てそれを「俯撤する」ことなら可能です。私たちは辺境性という宿命に打ち勝つことはできませんが、なんとか五分の勝負に持ち込むことはできる。
 なんだか、開巻早々に結論まで書いてしまったような気分ですけれど、そういうわけで、これは「お掃除」仕事であり、かつエンドレスの仕事でありますので、「論の展開に体系性がない」とか「そもそも結論がない」などと言われても困るということをあらかじめお断りしているのです。とりあえず目についたトピックから順番に拾ってゆくという方針ですので、話はあちらへ行きこちらへ戻り、話頭(わとう)は転々とします。でも、本一冊分だけお掃除が進めば、部屋の中はそれだけ片付いて来るのではないかと期待しております。
 最初の論件に入る前に、さらに二三お断りしておかなければいけないことがあります。
 第一に、本書は体系的でないのみならず、「ビッグ・ピクチャー」(「大風呂敷」とも言います)、つまりたいへん大雑把(おおざっぱ)な話です。卑弥呼(ひみこ)の時代から現代まで、仏教からマンガまでを「辺境」というただ一つのスキームで論じょうというのですから、大雑把になることはやむを得ません。ですから、まことに申し訳ありませんが、本書では学術的厳密性ということは一切顧慮(こりょ)しておりません。私も学者ですから、学術的厳密性ということのたいせつさは熟知しております。けれども、世の中にはその種の厳密さが死活的に重要な領域もあり、そうでもない領域もあります。本書が行うのは「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせることですが、この作業はまったく相互に関連のなさそうな文化的事例を列挙し、そこに繰り返し反復してあらわれる「パターン」を析出することを通じて行われます。ですから、相互に関連のない事例をランダムに列挙している人間をつかまえて「相互に関連のない事例をランダムに取り上げている」と文句を言われても困る。そういうことをやろうと思ってやっているわけですから。「辺境性」はフラクタルのようにあらゆる事象に(政治イデオロギーにも、宗教にも、言語にも、親族制度にも)同一のパターンを以て回帰しますから。「おや、こんなところにも、こんなところにも……」という驚きを経験することの方がむしろ意味があるのです。そのためにはどうしても扱う論件が節度なく散漫に広がってゆくことは避けがたいのであります。

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 もう一つ予想されるご批判は「これは……について論じていない。……のような重要な事項に言及していないものにはこの論件について語る資格はない」という形式のものです。学会発表ではよく見かけたものです。この批判はある意味「究極のウェポン」です。というのは、どのような博覧強記の知性を以てしても(私がそうだと言っているのではありません)、扱っている主題に関連するすべての情報を網羅することはできないからです。もし「言及してもよかったはずだが言及されていないこと」を一つでも見つければ、論そのものの信頼性は損なわれるということをルール化すれば、誰もが「要するにこの世界には程度の差はあれバカしかいない」という結論に導かれます。この結論もたしかに一面の真実を衝(つ)いてはいるのですが、それは私たちの知的向上心を損なうだけですので、この種の批判につきましても静かにスルーさせていただくことにします。
 以上が予想される批判についての本書の原則的立場であります。つまり、どのような批判にも耳を貸す気がないと言っているわけですね(態度が悪いなあ)。でも、さきほどから言っているように、この仕事はボランティアで「どぶさらい」をやっているようなものですから、行きずりの人に懐手(ふところで)で「どぶさらいの手つきが悪い」とか言われたくないです。

5. 内容の要約
氈@日本人は辺境人である
梅棹忠夫 「文明の生態史観」P.21
「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。ほんとうの文化は、どこかほかりところでつくられるものであって、自分のところは、なんとなくおとっているという意識である。
 おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。」
川島武宣(法社会学者) 「日本人の法意識」P.27
「日本社会の基本原理・基本精神は、『理性から出発し、互いに独立した平等な個人』のそれではなく、『全体の中に和を以て存在し、……一体を保つ[全体のために個人の独立・自由を没却する]ところの大和』であり、これは『渾然たる一如一体の和』だというのである。……社会関係の不確定性・非固定性の意識にほかならない。」
「お前の気持ちがわかる」 空気で戦争P.44
 日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するものは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の空気である。山本七平の言葉。戦艦大和の沖縄出撃が軍略上無意味であることは、決定を下した当の軍人たちでさえ熟知していた。しかし、それが「議論の対象にならぬ空気の決定」となると、もう誰も反論を口にすることができない。山本七平はこう書いている。「これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。『戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏(べんそ)しようとは思わない』であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。かれが『ああせざるを得なかった』ようにしたのは『空気』であったから」
 この「空気に流される」傾向について、丸山真男は「超国家主義の論理と心理」の中でみごとな分析をした。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するのか。」

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 日独伊三国軍事同盟についての賛否の態度を問われて木戸幸一元内大臣はこう答えました。
「私個人としては、この同盟には反対でありました。」
 東郷茂徳元外相も同じ質問にこう答えています。
「私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事にはなり行きがあります。」
 丸山はこう結論しています。「右のような事例を通じて結論されることは、ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たものと考えられていることである。」
 ロジックはいつも「被害者意識」
 どうやら「国體」なるものが戦争の理念上の主体であったようですが、「国體護持」の内実については誰も実定的には知らなかった。
 日本の国民的アイデンティティの中心は、「状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私たちはつねにその受動者である」とする自己認識の仕方そのものにある。
 日本人の集団的行動を導く、言葉にできない「何物か=空気」
 「辺境人」のメンタリティ
 「辺境」は「中華」の対(つい)概念 「辺境」は華夷(かい)秩序のコスモロジーの中に置いてはじめて意味を持つ概念。P.57
 国際社会のために何ができるか。これは明治維新以来現代に至るまで、日本人がたぶん一度も真剣に自分に向けたことのない問いです。このような問いを自らに向け、国民的合意を形成し、かつ十分に国際共通性を持つ言葉で命題を知的訓練を日本人は自分に課したことがない。なくて当然です。
 明治時代にアメリカに渡り、苦学してイェール大学の教授になった日本人に朝河貫一という人がいます。
 日露戦争に日本が薄氷の勝利を収め得たのは、「ただ武人兵器の精鋭のみにもあらず(……)実に絶対絶命止むを得ずして燃え上がりたる挙国の疑心がそのままに東洋における天下の正義と運命を同じうすという霊妙なる観念が、五千万同胞を心底より感動せることを忘れるべからず。」(朝河貫一「日本の過機」)
 朝河の予言通りに、日本はそのあとのアジア戦略を展開し、「東洋の平和を攪乱し、世界憎悪の府となり、国勢とみに逆運に陥る」ことになったのでした。
 幕末の日本人は海外についてはほとんど情報を持ちませんでした。けれども、きわめて短期間に、ごく断片的な情報だけから、このまま座していたのでは帝国主義列強の侵犯を受け、中国に続いて半植民地化する可能性があるという見通しについての国民的合意が形成された。
 「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」それが辺境の限界です。

 辺境人の「学び」は効率がいい P.101
 国民文学と世界文学 村上春樹の作品は世界文学 それに対して司馬遼太郎の作品は日本の国民文学。
 アメリカ文学は自意識の文学でアメリカというのは一つのアイディア(柴田元幸) 「日本人とはしかじかのものである」ということについての国民的合意がない。
 それに対して「アメリカとは何か」という根本的な問いをアメリカ市民たちがまっすぐ自らに向けて、その問いに自らの責任で答えることを当然だと思っている。

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 問題は「国家としてはどのような歌が望ましいか」という問いを日本人が自分に向けていない。今の国歌は制定された時は最適解であった。
 自説を形成するに至った自己史的経緯を語れるか。
 日本人が国際社会で侮られているとしたら、自分がどうしてこのようなものになり、これからどうしたらよいかを「自分の言葉」で言うことができないから。
 日本人はゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなケームをしなくちゃいけないのか、何のための、何を選別し、何を実現するためのゲームなのか、どうもひとつ意味がわからない、これが近代化以降の日本人の基本的なマインドです。けれど日本列島住民が古代からゆっくりと形成してきた心性・霊性にも根の先端が届いている。辺境人にとって「起源からの遅れ」はその本態です。
「宗教なしで、どうやって道徳教育を授けるか」という質問を受け、新渡戸稲造は、外人向けに『武士道』を書いた。武士道とは空気以外の何物でもない。彼はこの本で、義・勇・仁・礼・誠・名誉などを説明しようとした。武士と商法も説明しにくいことの一つである。
 学びの基本 学ぶ時の態度 日本人はこれから学ぶものの適否について事前チェックしない。
 太公望の武略奥義の伝授が中世の日本人の「学び」のメカニズムの洞察の深さを示す好例。
 学びの信仰告白の基本文型。「学ぶ」とは何よりもその誓言をなすこと。
 鞍馬山の大天狗の教え 人間のあり方と世界の成り立ちについて教えるすべての情報に対してつねにオープンマインドであれ。
 私たち日本人は学ぶことについて世界でもっとも効率の良い装置を開発した国民。

。 「機(き)」の思想 P.158
 宗教性の出発点は「私を絶対的に超越した外部」を構想できる能力と、おのれの無知と未熟を痛感する感受性。自らを霊的辺境であるとする態度から導かれる最良の美質は宗教的寛容。
 日本人はどんな技術でも「道」にしてしまうと言われます。この「道」の繁盛は実は「切迫していない」という日本人の辺境的宗教性と深いつながりがあると私は思っています。
 道という教育プログラムは優れています。東洋人は悟りの経験なるものがあることを、実際自分で経験しなくとも、聞き伝えなどで知っており、これが強みである(鈴木大拙)。
 武道の目的は「敵に勝つこと」ではなく「敵を作らないこと」である。
 敵を作らない「私」とは
 _啄(そったく)之機 呼びかけのあったまさにその瞬間に生成したものとして主体を定義しなおす。
 機の思想。 時間の前後、遅速をとらえなおす。 先駆的に知っていた。
 学びという営みは、これを学ぶことがいずれ生延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まる。
 自分が学ぶべきことを先駆的に知っている。
 
「 辺境人は日本語と共に 211
 日本の辺境をかたちづくっているのは日本語という言語そのものである。
 代名詞の選択によって、書き手と読み手の関係が設定される。私にするか、僕にするか。
 日本語ではメタ・メッセージ(メッセージの読み方について指示を与えるメッセージ)の支配力が非常に強い(前項と関係する)。
 日本の政治家は恫喝の語法を使う。

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 日本語の特殊性はどこにあるか。日本語は表意文字(図像として認識)と表音文字(音声として認識)を併用する言語である。
「マンガ」という表現手段が日本において選択的に進化した。 言語構造の特殊性による 並列処理ができる 日本人は漫画のヘビー・リーダーになれる。
 白川静先生が漢字の解釈を変えた。漢字はその起源において、私たちの心身に直接的な力能をふるうものであった。
「真名(まな)」と「仮名」は名前の付け方がおかしかった。
「日本語の使い方は地政学的辺境性が日本人の思考と行動を規定している」 漢字は言葉
の翻訳ができる。 漢字が残っているのは日本語だけ。
 日本人の召命(しょうめい) 漢字の特質を活かす。岸田秀の理論 日本の近代化を「内的自己」と「外的自己」への人格の分裂。

6. 終わりに
 最後までお読みくださってありがとうございます。
「日本辺境論」、「日本属国論」というのは、2005年くらいから折に触れて論じた主題でした。もともとは自衛隊と9条2項の「矛盾」を論じた『9条どうでしょう』の論考を書いたときに得たアイディアです。
 9条と自衛隊の「矛盾」という「フェイクの問題」をめぐつて、改憲派と護憲派が半世紀にわたってドメスティックな議論してきた。それによって、私たち国民は「日本はアメリカの属国である」という事実を意識に前景化させることを回避し、かつまた政府はアメリカの軍事的同盟国として出兵させられる機会を先送りできた。
 よく出来た政治的装置だったと思います。そのときに、「日本人というのは、なかなかしたたかな国民だな」という印象を持ちました。
 でも、このような込み入った作業を私たちは意識的に行っているわけではありません。なんとなく、そうなってしまう。だとしたら、それは私たちの文化の深層に刻み込まれた「生き延びるための知恵」のようなものの発露ではないのか。そんなアイディアがふとひらめきました。
 本文でも触れた、岸田秀の「外的自己・内的自己」論は近代日本人に取り憑(つ)いた「狂気」を鮮やかに分析したものです。『9条どうでしょう』 の論考を書いたときに、私は岸田理論を踏まえて、「狂気を病むことによって日本人はどういう疾病(しっペい)利得を得たか〜」という問題を立ててみました。そして、この狂気は、戦後日本に、差し引き勘定で相当の利得をもたらしたという結論に達しました。
 なるほど、「病むことによって利益を得る」ということもあるのか。でも、そのような複雑な手続きは、それなりの成功体験の蓄積がなければできないことです。このような「佯狂(ようきょう 狂ったふりをする)」戦略を日本人はいったいいつから、どういう経緯で採用し、どういう経験を通じてそれに熟達するようになったのか。それについて考えてみました。
 たしかに、「面従腹背」というのは私たちの得意芸の一つです。「担ぐ神輿(みこし)は軽い方がいいい」と言い放ったキングメーカーもかつていました。外来の権威にとりあえず平伏して、その非対称的な関係から引き出せる限りの利益を引き出す。これはあるいは日本人が洗練させたユニークな生存戦略なのかも知れない。ネガティヴな言い方をすれば「辺境人にかけられた呪い」ということになるのでしょうけれど、一つの社会集団が長期にわたって採用している生存戦略である以上、「欠点だらけ」ということはあっても「欠点だけ」ということはあるまい。欠点を補うだけの利点が何かあるに違いない。そういう視点からこの小論を書くことになりました。
 私なりの結論は、「学び」と「信」をめぐる章にだいたい書いておきました。ややこしい話ですので、もうここでは繰り返しませんが、私なりに「先に繋がる」論点をいくつか提出できたのではないかと思っています。「機の時間論」はこのあと書く予定のレヴィナス三部作の最終巻「レヴィナスの時間論」への架橋的な命題となりうるような気がします。いずれみなさんは「澤庵とレヴィナス」というようなタイトルの文章を私の本の中に見出すことになると思います。本書ではあと「アブラハム・アブラフィアと白川静」の比較がなされていますが、これも機会があったらもう少し展開してみたい論件でした。

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 というように、「日本文化の特殊性」だと思ってあれこれ書き込んでゆくと、どうもユダヤ教思想に出くわすことが多々ありました。そう思うと、山本七平が案出した『日本人とユダヤ人』という枠組みはなかなか侮(あなど)れないものであることがわかります。第一、よく考えてみたら、この本のタイトルは『私家版・日本文化論』でもよかったわけです。
『私家版・ユダヤ文化論』を書いた後にこの本が書きたくなったということは、少なくとも私の中では何かが繋がっているんでしょう。
 本書は最初にお断りしてありますように「大風呂敷」ですから、大小無数の「穴」が開いております。いろいろな方面から「穴」めがけてのご批判が殺到するかと思いますが、本書をきっかけに「日本人とは何ものか?」という(それを論ずることそのものが国民的アイデンティティのあかしであるような)主題について、多くの知見が語られることを期して筆を擱(お)きたいと思います。
 最後になりましたが、本書の執筆を約束してから長い間、気長にお待ちくださいました新潮社の足立真穂さん、三重博一さん、後藤裕二さんのご海容に感謝申し上げます。
 また、本書の中核的なアイディアである「マンガ脳」については養老孟司先生から眼からウロコ的ご教示を賜(たまわ)りましたことについでお礼申し上げます(受け売りで本書いて済みません)。「機」の武道的意味については多田宏先生(合気会師範、合気道九段)から多くを教えていただきました(先生は「そんな話はしてないけど……」とお思いのところもあるやも知れませんが、弟子というのは師が教えていないことを勝手に学んでしまうものなので、どうかご容赦ください)。そして、高橋源一郎さん、加藤典洋さん、橋本治さんからは本書の主題について実に多くのことをご教示いただきました。伏してお礼申し上げます。そのほか、それぞれのお仕事を通じて私をインスパイアしてくださったすべての方に感謝いたします。いつもどうもありがとう。         2009年晩夏 内田樹

7. 著者紹介
内田樹 うちだ たつる
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著作に『先生はえらい』『下流志向』『私家版・ユダヤ文化論』(小林秀雄賞受賞)他。

8. 読後感
 日本の地図上の位置によって日本が辺境性を持ち、それが日本人の考え方を決めているという主張と、そのために日本人には良い点と悪い点があるという説明は判りやすいと思います。氏が繰り返し述べているように、この考えは、いろいろな方の主張で、独創性はないということも、その通りでしょう。しかし、この本が新書大賞を受けたというのは、書き方が歯切れが良く、採り上げる例などに説得力があるからだと思います。この本に出てくる朝河氏の著書を読んでいなかったので、入手して読み始めました。また、戦争など大事な決定に、責任をとる人が居ないということは、傾聴に値すると思います。

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[Last updated 6/30/2010]