ジヴェルニィ


パリから西北約80キロメーターの地にジヴェルニィがあります。
画家のモネが川から水を引き睡蓮や柳のある庭を造りました。

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 オルセイ美術館には「青い睡蓮」と名づけられた作品があるが、本物にしろ複製画にしろモネの睡蓮の絵を見て嫌いだという人がいるだろうか。その優雅さには、たぐい稀なるものがある。世界の人の心を捉えて絶讃され続けているその睡蓮の絵の舞台がジヴェルニィ。だからこそパリから80キロあっても、モネの庭だけを見るために人々はバスを仕立てて出かけて行くのだと思う。さいわいに一人でも「パリヴィジョン」「シチラマ」という観光バスの 「ジヴェルニィ(モネの家)」行を利用することができる。
 ローズ色の大きな家、二つのアトリエ、広い庭の花壇と温室、そして睡蓮の池からなるこの大邸宅を訪れる人は、モネの豪華な生活を想像して圧倒されるかも知れない。しかし彼が1883年にこのジヴェルニィに移ってきた頃は、広い借地に果樹園と納屋式の借家があっただけで、大家族をかかえたモネは相変わらず貧しかった。生活も豊かになり現在の素晴しい邸宅の観を呈するようになったのは、1890年にここを買いとり大改造を始めた後のことである。1893年には道路を隔てた土地をさらに購入し、セーヌ川支流のエプト川から水を引いて大きな池を造った。その時、モネがウール県知事に許可願いの手紙を書いている。「眼の保養と楽しみのために造るのではありません。絵を描く題材の意図からです」。この庭は行政上の困難を乗り越えて造られた。太鼓橋は1893年に架けられ、橋上の藤棚は1910年につけられた。
 睡蓮の絵を描さ始めたのは1899年頃からだが、眼の疾患と病気との闘いが始まった1908年以後からモネはこの題材に専念するようになった。1911年、二度日の妻アリスが他界し失意にあったモネに、クレマンソーは睡蓮の大壁画の制作を提案した。その意をくんだモネは1914年、幅12メートル、長さ22メートルの大アトリエを建て制作に没頭した。視力の衰えに絶望しながらも絵筆を持ち続けたモネは、1926年86歳の生涯をジヴェルニィで閉じた。
 チュイルリー公園内のオランジュリー美術館一階の二部屋の円い壁におさまるモネの大壁画こそ、その帰結である。
(出典「パリ オルセ美術館と印象派の旅」丹尾安典 南川三治郎 佐々木三雄・綾子 熊瀬川紀共著 新潮社 とんぼの本)

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[Last Updated 7/31/2013]