佐伯祐三
 



阪本 勝
(株)日動 出版部

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目 次

1. まえおき
2. (本の)目次
3. まえがき
4. あとがき
5. 著者紹介

1.まえおき
 最近、次の二つのことがありました。
1) 6月(2002年)にフランスのパリに行き、パンテオンの近くを訪れた。
2) 7月(2002年)にヴラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展を見に行った。
 このため昔読んだ「佐伯祐三」を引っぱり出し、再読しました。著者の坂本勝さんは兵庫県知事も務められた方ですが、たまたま佐伯祐三の中学校のクラスメートであり、若死にした佐伯祐三の生涯と芸術を愛情と情熱を傾けて描いています。
 ただ、この本を読んだあとで、「佐伯祐三のパリ」朝日晃、野見山暁治共著(新潮社「とんぼの本」1998.3.25)を読みました。これも写真が多かったり、佐伯祐三が住んでいた場所を示すパリの地図があったりで、合わせて読むことを、お奨めします。

2. 本の目次
 夏草(序章)            27
  暁の失踪            29
  クラマールの森         35

T 遠き思い            45
  友とのいわれ           47
  淀川の堤            54
  仏縁の譜            57
  父祐哲と子祐三        63
  青春の一節           69
  新家庭              73

U 噴炎                81
  芸術の都へ           83
  嵐の前夜             88
  ヴラマンクとの出会い      92
  疾風怒涛            105
  自製のカンバス         111
  高楼の宴            118
  佐伯祐三の手紙        125
  帰国の途へ           133

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U 日本不定着の悲劇         139
  1930年協会              141
  画壇震撼す               147
  モチーフにならない日本の風物  153
  惜しみなく与う            159
  焦慮                  162
  シベリア鉄道−再渡仏の道    167

W 落ちゆく炎           171
  照明弾              173
  モラン              181
  喀血前後            187
  失踪事件            193
  荻須高徳の日記        206
  縊死未遂事件          213
  佐伯はなぜ脱出したか    221
  縊死未遂事件流布の真相  228

X 挽歌                  233
  阪本三郎医学博士         235
  セーヌ県立エブラール精神病院  246
  孤独地獄               252
  絶命                  256
  献詞                  258

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3 まえがき
 昭和43年(1968)の秋、『佐伯祐三展』が大阪と東京で開催された。ともにたいへんな盛会で、佐伯祐三ファンの多いのに今さらながら驚いた。そして佐伯の名声依然として動かぬことを認め、彼を知る旧友たちとともに深く喜んだ。
 しかし半面において、若い世代のなかに佐伯を知らぬ者の案外多いことにも気がついた。佐伯や私の母校、大阪府立北野中学校(今の北野高等学校)の同窓生のなかにさえ、佐伯について何も知らない者が想像以上に多いことは私を悲しませた。彼等のなかには、佐伯祐三の名はきいたことがあるが、そんな先輩がいたのかなあ、といぶかるものもある。そのような声をしばしば耳にしていらい、このまま放置すれば佐伯祐三は「幻の画家」になりはしないかということが、ひどく気になりだした。そこで私は、それならこの際、佐伯祐三の伝記と作品をあわせおさめた一本をつくり、世の認識をいっそう深くして、佐伯祐三のイメージを日本人の心に定着させるにしくはないと考えた。
 佐伯祐三の豪華な画集は今日まで幾種類か出版された。しかしそれはあくまで画集だから、ほとんど作品で埋まっていて、佐伯祐三という人間がどういう一生を送りそして死んだかということについては、何もしるされていない。ただ断片的な回想記や年譜などが巻末にあるばかりで、系統的な正伝と言われるべきものは一冊もないのである。しかも画集はみな高価で限定版が多く、とても一般人の手にはいらない。佐伯について記した古い雑誌もあるにはあるが、これも今では入手すること至難である。そこでどうしても、正伝であるとともに作風をもつたえる大衆むきの一本が必要となってくる。かような考えにもとづいてこのたび公刊されたのが本書である。

 しかし私は、この書の執筆者として最適任者とは考えていない。とはいうものの、やはり私が担当するのが比較的無難で無理がないようにも思われる。その理由は本書をお読み下さればわかって頂けると思う。そういうわけで、勇気をふるいおこし、全力を傾けて執筆にとりかかったが、なかなか容易なことではなかった。というのは、佐伯の旧友の書いた古い記録は諸方から借覧することができたが、その記事のなかに、矛盾や、ナンセンスや、でたらめもあり、それを現存する旧友の諸氏について聞きただしても、これまた諸説まちまちで、正確を期することがなかなか困難であり、途方にくれることたびたびだった。そうした場合、わが推定能力を駆使して、誤説に陥らないよう極力警戒し、もっとも正確と思われる総合判断を下した。
 かくして、現存する諸記録に多くの誤説を発見したし、私自身がかつて書いた記事の誤りにも気がついた。そこで自他もろともに審判台にのせて判決を下した。

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 ひそかに思うのに、佐伯祐三の正伝は、これが最初であり、最後となるであろう。というのは、この書を書くために私が訪ねまわった佐伯の肉身縁者や旧友たちは、いつまでも世にあるわけでないから、ふたたび正伝を書こうにも、真相をただす相手がなくなること必定だからである。だからこの書の責任はきわめて重いことを著者は自覚している。この書の記事に誤りがあれば、今後その訂正は至難と考えなければならないから、空おそろしいような気がする。しかし誤りがないとは決して言えないだろう。それゆえ、誤りをご指摘下さる方があって正当と判断されれば、重版の際にでもすみやかに訂正する考えである。

 この書にはフィクションはまったくなく、すべてドキュメントである。またこの書のねらいは、佐伯祐三という悲劇的人間像を浮彫りにするとともに、その芸術の本質を掘りさげることにある。したがって、パリのペール・ラシェーズ墓地と献詞によって本文をおわり、付帯事項は巻末にゆずった。

 この書の完成を見るまでには、じつに多くの方々のご高教、ご叱正を頂いた。とりわけ原稿のコピーをご閲覧下さった各位にたいしては、感謝のことばもない。その芳名は巻末に記して深厚な謝意を表したい。

 ここで特記しておきたいことがある。私はこの書を「佐伯祐三を主人公とする長編戯曲」と考えたい。すなわちこの書に名の出るすべての人物を戯曲中の登場人物と思いたいのである。この意味からすると、それらの方々に「さん」とか「氏」とかをつけることは不自然というべきである。そこで特殊な場合を除いて、現存の各位をもいわゆる「呼び捨て」にした。最初はすべて「氏」などをつけていたのだが、すべて削除したのである。失礼の感ぬぐいがたいが、伝記には古来こういう慣習もあることだし、ご諒承たまわりたいと思う。

  昭和44年12月27日          芦屋朝日ヶ丘にて 著者

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4. あとがき
 祐三と彌智子の遺骨を抱いた米子未亡人は、昭和3年(1928)10月31日朝、郵船・北野丸で神戸港に着いた。そのとき神戸又新日報(廃刊)の酒井一雄記者がケビンでインタビューした記事が、その日の夕刊に大きく掲載されている。酒井君は関西学院(今の関西学院大学)の卒業生で、故河上丈太郎の教え子である。また私のつまらぬ講義をきかされた悲運の担い手でもある。米子未亡人のケビン談につぎの一節がある。《‥‥最後にレストランを材料にして描いたのが一番気に入ったと申しまして、たいへん喜んでいました。何でも簡単な線を考え出したようでごぎいます‥‥》このレストランが絶筆となったことは本文で説明したとおりである。
 11月5日、祐三と彌智子の本葬が生家光徳寺で営まれた。祐三の法名は巌精院釈祐三といい、彌智子は明星院釈尼祐智という。その後パリのペール・ラシェーズから祐三父子の火葬証明の銅版が送られてきて墓石の側面にはめこまれてあったが、戦時中盗まれて今はない。
 戦火で全焼した光徳寺は戦後再建され、寺域内に「光徳寺善隣舘中津学園」(社会福祉法人)が新設された。精薄児の保護育成を目的とする施設で、収容人員男女合計56名、職員(保母・指導員・事務員)男女合計29人である。父祐正の志をついだ現主佐伯紀元・法名祐元の経営にかかる。
 佐伯祐三の文献はきわめて多い。昭和43年9月24日、講談社から刊行された『佐伯祐三全画集』巻末の「佐伯祐三・文敵資料目録」によると、単行本関係だけでも16種にのぼっている。このうち最も古いものは、厳密にいえば、昭和4年に1930年協会から刊行された『画集佐伯祐三・1930年叢書(一)』(発売元・東京語学協會)であるが、このころは日本の印刷技術もまだ幼稚で、とうてい画集の名に値しない。
 佐伯祐三の単行本画集として最初のものは、昭和12年3月、座右宝刊行会版として出版された『佐伯祐三畫集』とすべきである。これは山本発次郎の収集作品を画集としたもので、五百部限定の豪華版である。カラー図版の出来も見事で、当時のものとしては最高と断定できる。ここで触れておくべきことは、この画集にかぎらず、祐三でなく祐(示す偏)三となっている文献が多いことである。しかし私が調べたところでは、祐三が正しい。
 初期のこの画集もふくめて、単行本関係だけでも十六種にのぼるというが、単行本の解釈如何によっては、これよりもっと多くなる。最新、最大かつ最重のものは前記講談社の『佐伯祐三全画集』(限定五百部)である。採録された作品数は最も多く、その努力は多とするに足るが、惜しむらくは色彩の印刷に難点がある。

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 この画集の巻末に山尾薫明氏が書いておられるとおり、芦屋の山本発次郎邸は戦火を蒙り、山本以下が佐伯の作品の救出に努力したが《約三分の一が完全に助かった》だけであった。ということは三分の二は焼失したということである。その数が百点を越したことは、私宛の山本書簡で知った。いかなる事情があったにせよ、痛恨これに過ぎるものはない。佐伯が文字どおり命とひきかえに創造した多数の作品のうち、百点以上が灰じんに帰したことを世人は知っておいていただきたいのである。
 この小著は、佐伯祐三の生涯と芸術、そしてその人柄について語ることを主眼とするものである。したがって文献・年譜・コレクション等は省略した。希望者は諸画集の巻末にある関係記事について見られたい。引用文中に読みづらいもの、または、明らかに誤記または誤植と思われるものなどがあるが、原文のまま用いた。
 この書の成るまでには、多くの人士のなみなみならぬご好意にあずかった。ここに心からなる感謝をささげる。
 「まえがき」に書いたように、佐伯祐三正伝としてのこの書は、最初のものであり、おそらく最後のものとなるだろう。それゆえ記述の正確を期するため、全原稿をコピーに付し、それぞれの内容に従って、左記の各氏の閲覧を乞うとともに、幾多の貴重な示教をうけた。
 里見勝蔵、木下勝治郎、山口長男、山田新一、梅園春栄、土田喜久栄(以上二人はともに祐三の実姉)梅園実雄(祐三の姪の夫)佐伯米子、佐伯千代子(祐正の未亡人)の諸氏である。米子未亡人には全編のコピーの閲覧を願った。
 在パリの荻須高徳氏には直接お目にかかって貴重な談話をうけたまわったばかりでなく、国際便によって再度にわたりご高教をたまわった。
 入手きわめて困難な佐伯祐三に閑する多くの古い文献に接することができたのは、神奈川県立近代美術館の朝日晃氏のご好意によるものである。また日動出版部長の大塚信雄氏からは、本書の内容の細密な点にいたるまで、ゆきとどいたご配慮をいただいた。
 以上の諸賢にたいし、心から感謝の意を表する次第である。おわりに、大局的見地から、本書の刊行におしみなく援助をいただいた長谷川仁氏に敬意と感謝をささげる。
   昭和四14年12月                    阪本 勝

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5.著者紹介
阪本 勝(さかもとまさる)
明治32年(1899)10月15日、兵庫県尼崎市に生まれる。大阪府立北野中学校、第二高等学校(仙台)を経て、東京帝国大学経済学部を卒業する。
主要著書 『長編戯曲と洛陽飢ゆ』(処女作)『流氷の記』
主要訳書 『W・ハウゼンシュタイン原著・裸体芸術社会リンユウタン史』『林語堂原著・生活の発見』
衆議院議員、兵庫県知事等を歴任。趣味は美術鑑賞と書画の制作。一男一女の父。那緒夫人ともども健在。
現住所 兵庫県芦屋市朝日ヶ丘町280番地。

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[Last updated 8/31/2002]