行人坂(ぎょうにんざか)コース
  目 次

1. はじめに
2. 概 要
3. 坂と観光スポット 

行人坂
坂の下から見上げた写真

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1. はじめに
 「タモリのTOKYO坂道美学入門」の3回目として、このコースを選びました。目黒区は私の住んでいる太田区の隣の区であり、仕事で一時不動前に通っていたので親しみがあります。また行人坂の途中には、元勤めていた会社の施設があったので、坂を良く知っています。歩いてみての感想としては、今回採り上げた三つの坂のうち、やはり行人坂は良い坂で、目黒不動尊への参道だといわれるだけあって、古くから人の往来が多かったようです。

2. 概 要
 JR山手線の目黒駅で降りて西口(五反田から着いた時は線路の左側)に出ます。左手に目黒通りが線路と直角に走っているので信号を渡り、東急線目黒駅の前に出ます。東急線目黒駅は東京メトロ南北線と相互乗り入れしています。駅の前の細い道が行人坂の入り口でかなりの急坂です。坂下から目黒不動尊、目黒寄生虫館を通り、権之助坂を登ってJR山手線の目黒駅に戻るコースで、約1時間(各観光スポットでゆっくりすればもう30分くらい)かかります。途中でくたびれたらバスに乗るか、または東急目黒線の不動前から電車で目黒駅に戻ることもできます。バスは目黒不動尊の山門の前から、東急バス「渋72」の五反田または渋谷行きと、目黒寄生虫館の少し目黒寄りから6系統が出ています。
 コースの地図も参考にしてください。
コース概要図

2. 坂と観光スポット
  このコースは3本の坂があり、4箇所の寺と、世界にも珍しい目黒寄生虫館を巡ります。中でも目黒不動尊は境内も広いし、青木昆陽(甘藷先生)の墓もあるので見甲斐があります。

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 No.  スポットの写真  名 称  説  明
 1 行人坂 東京都品川区上大崎4-3-17〜目黒区下目黒1-8
 JR山手線目黒駅の西口を出て、すぐ左手の歩道を渡ると、三井住友銀行のビルの間に目黒川に下る細くて急な坂があります。この坂は行人坂といい、かつて目黒不動参詣の道としてにぎわった道です。目黒駅からこの坂の途中にある次項の大円寺までは約2百米、3分位です。
坂道実力判断(タモリによる)
勾配    ★★★★
湾曲    ★★★★★
江戸情緒 ★★★★★
由緒    ★★★★
 2 大円寺 東京都目黒区下目黒1-8-5
 坂を下り始めて間もなく、左手に天台宗大円寺があります。この寺は、江戸の初期、元和年間(1615年から1624年)に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられています。山門を入るとまず目につくのが、境内左手のがけに沿い、幾段にも並ぶ石仏群です。初めてここを訪れる人はその数の多さに目を見張ることでしょう。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されています。振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれています。
 坂をそのまま下り、目黒川にかかる太鼓橋を渡って直進すると山手通りにぶつかります。左折して約百50米歩くと、羅漢寺の信号に出ます。ここで信号を渡り直進すると、右手に次の五百羅漢寺があります。全部で約8百米、10分位です。
3 五百羅漢寺
東京都目黒区下目黒3-20-11
 松雲元慶禅師が元禄時代に10数年の年月をかけて彫った、505体の羅漢像が鑑賞できます。天恩山五百羅漢寺はもともと本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建され、5代将軍綱吉さらに8代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として人びとの人気を集めていました。
 しかし、明治維新とともに寺は没落し、2度移転し、明治41年に目黒のこの地に移ってきました。大正から昭和にかけて非常に衰退し、雨露をやっとしのぐほどの無残な状態になり、羅漢像の将来が心配されていました。
 昭和54年になって、日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、多くの困難をのりこえて昭和56年に近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」としてよみがえりました。
 次の成就院は、ほぼ真南の道の突き当たりの所にあり、約百米、2分位でしょう。
 4 成就院 東京都目黒区下目黒3-11-11
 本尊の薬師如来像は、3匹のタコが蓮華座を支えており、別名は「蛸薬師」です。
 天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行に励まれました。
 承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまでいろいろと苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国されました(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です。)大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。かくして本尊の殊勝の12大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千年のいまに至るまで、弘く信仰されてきました。
 次の目黒不動尊に行くには、来た道を戻って一度五百羅漢寺に出ると、寺の先隣が不動尊ですので、塀に沿って歩くと、全部で約2百米、3分位でしょう。
 5 目黒不動尊 東京都目黒区下目黒3-20-26
 808年に慈覚大師が開創した天台宗の大寺院です。徳川家の帰依を受け、おおいに栄えました。
 当山の開基は、今から1千百余年前の平安時代(808年)にさかのぼります。
 棟札に『大聖不動明王心身安養咒願成就瀧泉長久』と認め、この「瀧泉」をもって寺号と成し、山号は清和の御代に「泰叡」の勅額を賜り、泰叡山と称しました。
 さつまいもの栽培を広めた食料の恩人、青木昆陽先生は蘭学者・文化人としても日本社会に貢献し、目黒の土地を愛して、自ら『甘藷先生墓』と書きました。そのお墓が今は国の史跡となっております。
 次の三折坂は地図に示すコースだと、出口から右に歩くと次の角を右折するため10米位ですし、寺に入った山門からでも、百米位で、2分以下です。
 また、東急目黒線の不動前駅から、南側に線路とほぼ並行しているかむろ坂を少し登り、西五反田4-27先の信号を右折すると、突き当たりが仁王門になります。バスの場合はJR渋谷駅と五反田駅を結ぶ「渋72」に乗れば仁王門直ぐ前の「目黒不動尊」で降りることができます。
6 三折坂 東京都目黒区下目黒4-26-6〜4-20-1
 目黒不動(瀧泉寺)の裏山の辻に、甘藷先生(青木昆陽)の墓所を示す道標が立っています。そこから、同寺の仁王門に向かって、S字状に下る坂道があります。三折坂(みおりざか)といい、左手の背丈ほどに積まれた石がきの上には、ササやクヌギがうっそうと生い茂り、右手には住宅が建ち並ぶ、心なしか落ち着きのある道です。坂下の、左側のマンション前に、わき水が出ています。左の写真は坂の下から北(坂上)方向を撮ったものです。
 次の寄生虫館は直進して目黒通りにぶつかる左角で、約7百米、9分位です。
7 目黒寄生虫館 目黒寄生虫館  目黒区下目黒4-1-1
 世界唯一の寄生虫の博物館で約8万点に及ぶ標本・文献のなかから、選りすぐりの約300点を展示しています。特に2階にある8.8mの日本海裂頭条虫(サナダムシ)の実物模式は必見です。ショップでは、寄生虫グッズも買えます。
 この博物館は医学博士亀谷了(かめがい さとる 1909〜2002)の創意と私財投入によって1953年に創設されました。
 1992年に資料増加のため現在の6階建てのビルが建てられ1992年にリニューアルオープンしました。
 次の権之助坂に行くには、目黒通りを目黒に向かって歩き、山手通りを越えて直進すると約4百米、5分位です。
8 権之助坂 目黒区下目黒2-30-21〜東京都品川区上大崎4-1-4
 目黒駅からはもう一本、目黒不動尊方面に下る権之助坂があります。これは江戸時代の名主・権之助が、私財を投じて開いた坂道です。行人坂の険(けわ)しさを見るに見かねて造ったのですが、そのとき事前に幕府の許可を取らなかったのです。当時は防衛の関係上、江戸の街に勝手に道を造ってはいけなかったのです。結局権之助は、あえなく死刑になってしまいます。しかし後世の人たちにとっては、便利な坂が使えるようになり、人助けをしたことになります。
 そのまま直進する(坂は途中でYの字型に分かれますが、右側を登ります)と坂が終わった辺りに目黒駅が見えてきます。約7百米、9分位です。

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[Last Updated 7/31/2013]