大田区の散歩道9
六郷用水2関連
北堀
  目 次

1. 概要
2. 観光スポット
3. 照栄院の説明板

千鳥いこい公園

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1. 概 要
 六郷用水をたどる散歩道を掲載し終えて約1年がたち、前回は採り上げなかったコース沿いの観光スポットを歩いてみました。その第1回目として北堀コースを採り上げたいと計画しました。
 このコースは南堀と分かれた北堀で、南北引分から春日橋近くの新井宿児童公園までです。春日橋は、環七が東海道線をまたぐ跨線橋です。北堀といっても、ほぼ東に延びており、後半は池上通りと並行しています。
 今回の地図を示します。地図はマウスによって拡大できます。六郷用水そのものは表示してありません。必要なときは南北引分から新井宿児童公園までの地図を参考にして下さい。

コース概要図

注1 今回の観光スポットは緑色で示しました。
注2 番号1〜14は前の「六郷用水 北堀」の番号です。今回の番号は解りやすいように21〜30としました。

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2. 観光スポット
  六郷用水を下流に向かって歩いてみました。時間に余裕のあるときは、ここに掲げた観光スポットも歩いてみると良いかと思います。
 No.  スポットの写真  名 称  説明
  21
千鳥いこい公園 大田区久が原6-26-8
 この公園はかなり大きく、公園の中に5軒の家が建っています。道路を西から東に歩くと、公園、家、公園となっています。
 「大田区の散歩道8」「六郷用水2 南北引分から春日橋まで」の「3 六郷用水碑(黒/白石)」に対応し、「千鳥いこい公園西端」となっており、「左側に千鳥いこい公園が現われ、その手前に碑があります。」とあるように、「南北引分」から歩いてくると、この碑があります。地図ではわかりにくいのですが、左の写真でもわかるように、公園は斜面に作られており、六郷用水の道は一番低い端に接しています。入り口は道に3ヶ所あり、さらに奧(斜面の一番高いところ)に1ヶ所あります。
 公園には子供用の遊具がありますが、動物の形をした像が6ヶ所に建っており、伝声管式で話ができます。
 22 徳持神社 大田区池上3-38-17
 六郷用水碑の前を東進し、第2京浜国道(第1国道)を渡ると、左角が池上警察署、右角がガソリンスタンドで、その左横に「六郷用水物語」の碑があります。一度国道に戻り、スタンドの右側の道を直進し、2つ先の信号で左折(この通りは「池上通り」です)すると、左側にこの神社があります。
 ご祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)[応神天皇]、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)です。
 ご創建は建長年間と伝え、豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請奉斎、御旗山八幡宮とも称され、荏原郡池上村大字徳持の住民の守護神として尊崇せられ、元徳持の南地区に鎮座していました。明治39年池上競馬場(目黒記念の発祥の地)設置の為、現在地に移転、明治41年5月再建、同年9月15日徳持上宿に鎮座の稲荷神社を合祀竣工遷座を執行、社名八幡神社を徳持神社と改称しました。
23 尾上部屋 大田区池上8-8-8
 前項で2つ先の信号で左折せずに、池上通りを渡り、直進します。間もなく現れる池上線のガードをくぐり、さらに直進すると、三つ目の右角の奧に部屋があります。
 2004年(平成16年)5月場所限りで引退した三保ヶ関部屋(大関・増位山)所属の小結・濱ノ嶋は、年寄・尾上を襲名して三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、2006年(平成18年)8月1日付で幕内・把瑠都ら6人の内弟子を連れて三保ヶ関部屋から分家独立して尾上部屋を創設した。日本大学相撲部出身者を多数入門させており、独立の際は三保ヶ関部屋に在籍していた日本大学出身力士は弟弟子1名(幕下・柳川)を除き全員が尾上部屋に移籍した。
 所属力士の数は10人に満たず、その半分が同時に関取だった時期もあり、付け人やちゃんこ番の不足に悩まされている。尾上夫人が大田区池上出身と言うことで、この地に部屋を構えた。大田区初の相撲部屋である。仮住まいの近所に正式に部屋を開き、2010年6月12日大安に部屋開きを行った。(出典 ウイキペディア)
 24 石碑 大田区池上3-21-2
 21項の国道沿いのガソリンスタンドまで戻り、六郷用水に沿って歩くと『7 小泉次太夫物語 「用水工事」』の標識が現れます。この標識の道の反対側(北側)にこの石碑が建っています。
 本門寺正面の呑川にかかっている霊元橋の南西端に建っている石碑と、ほぼ同時代の建造と思われます。塔の四面には次のような文字が読めます。
 正面(南向) 南無妙法蓮華経 下に次の3行があります。[中央] 賜紫日教、[右寄] 雨山、[左寄] 四十七世
 左面(西面) [中央] 馬頭観世音菩薩、[右寄] 諸悪□地獄鬼畜生、[左寄] 地獄昔令入佛道
 裏面(北面) [中央] 本願主 徳持村 永野宗右衛門、[右寄] 文政十三年(1830年)、[左寄] 寅年三月一日
 右面(東面) [中央] 施入面々現安後善、[右寄] 法界神急依正色質、[左寄] 低頭挙手皆當作佛
 25 池上図書館 大田区池上3-27-6
 「9 妙遠寺の逆修塔」はこの図書館の前(写真では左)にあります。見にくいと思いますが左の写真左端の街路照明の根本に標識が建っています。図書館は写真の左側が入り口です。
 大田区には17の図書館があり、その内の一つです。次のような特色があります。
1. 郷土行政資料が豊富です。
2. 哲学関係の図書を収集しています。
 実はこの図書館には時々本を借りに行くので、この標識が、六郷用水に関心を持ち、調査を始める端緒となりました。
26 本門寺 大田区池上1-1-1
 池上図書館から次の標識を目指して歩いて行くと、左に呑川にかかっている霊元橋が見える通りに出ます。これは本門寺の参道で、この道に沿って左折すると、突き当たりが本門寺です。
 山号を長栄山と称する日蓮宗の大本山です。
 日蓮は弘安5年(1282年)病のため身延山から常陸に向かう途中、池上宋仲邸に立寄り、病が重くなりここで入寂しました。宋仲邸は現在の大坊本行寺(本門寺の西側にある)とされています。
 境内には慶長13年(1608年)建立の五重塔(重要文化財)や宝塔・経蔵・総門など多くの文化財が残されています。また、境内の墓地には有名人のお墓が多数あります。
 詳しくは別項をご覧下さい。
27 照栄院 大田区池上1-31-10
 本門寺から元の道の方に少し戻り、呑川の手前(霊元橋のたもと)を川に沿って左折すると池上小学校の先にあります。
 日蓮宗寺院の照栄院は、朗慶山立善講寺と号します。照栄院は、正応4年(1291)日朗聖人の庵室として創建、日鏡上人が中興したといいます。寛文四年(1664)には加藤清正の娘瑶林院が、夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して妙見菩薩立像を当院に奉納した他、元禄年間(1688-1704)には当院内に南谷檀林が開設され、檀林所となっていたといいます。大坊本行寺、理境院と共に池上三院家の一つです。
 5基の説明板の内容は、下の別枠に示します。
28 大森日赤病院 大田区中央4-30-1
 元の六郷用水に戻り、用水跡を歩くと呑川を渡ったところに六郷用水物語の標識があり、そのまま歩き続けると4つの水路標識(タイル)が次々と現れます。4つ目の標識はこの大森日赤病院の前にあります。
 大田区には、昭和医大病院、東邦医大病院、荏原病院などの大病院があります。大森日赤も、その一つです。 次のような診療科があります。 内科(腎臓高血圧内科)、呼吸器内科、消化器内科、循環器内科、神経内科、血液内科、糖尿病・内分泌内科 外科、呼吸器外科、脳神経外科、整形外科 麻酔科・ペインクリニック、神経精神科、小児科、皮膚科 泌尿器科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、放射線科、女性医師外来。
 29   大田文化の森 大田区中央1-10-1
 日赤からの道を歩き続けるとバス通りにぶつかります。ここを右折して少し歩くと池上通りの交差点があり、歩道を渡った先が大田文化の森です。
 区民の皆さんの自主的な文化活動の拠点として、区民が集い、参加し、交流することを目的に旧大田区役所跡地に建設された施設です。また、2階部分には図書コーナーとマルチメディアコーナーで構成された情報館があり、区民のさまざまな文化活動の情報センターとして運営しています。
 ほかに設備としては33台収納可能な駐車場、ホール、多目的室、展示コーナー、三つの工房、和室、集会室、二つのスポーツスタジオ、音楽スタジオなどかあります。
30 春日神社 大田区中央1-14-1
 前項のコースでバス通りを左折し、東京都民銀行の角を右折すると右側に神社が見えてきます。
 御祭神 天児屋根神〔あめのこやねのかみ〕、建御賀豆智神〔たけみかづちのかみ〕、伊波比主神〔いわいぬしのかみ〕
 社格等 旧村社、由緒 旧・新井宿村の鎮守。創建は不詳ですが、鎌倉時代のことと伝えられます。当時の氏子は9軒にすぎなかったといいます。
 環七通り春日橋交差点近くで、住宅と商店が混在する中に鎮座しています。すっきりとした境内で、旧本殿という神楽殿は風格があります。現在の本殿も木造春日造りの堂々たるものです。

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照栄院の5基の説明板(大田区教育委員会掲示より)
1 南谷檀林の棟札  南谷檀林は、元禄期(1688-1704)に池上本門寺に附属する僧侶の学校として二二世日玄によって開設された。
 檀林の施設は、現存する板頭寮のほかに、講堂や学僧の寮等の諸施設が建てられ、整備された寺観を有していたという。
 この「棟札」は、建築、修復の年代等を伝える13枚が残されており、すべて本尊(大曼荼羅)形式で書かれている。
 これらから、講堂は元禄元年(1688)に建立され、寛政六年(1794)再建され、嘉永元年(1848)に屋根が葺き替えられたこと等がわかり貴重な資料である。
2 南谷檀林「板頭寮」遺構(大田区指定文化財)  南谷檀林は、池上本門寺に附属する僧侶の学校として、元禄期(1688-1704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。
 「新編武蔵風土記稿」によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。
 「板頭寮」は、檀林の事務所にあたり、板頭(事務経営の長)の居室でもあった。
 現存している建物は、天保七年(1836)、江戸後期に再建され、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。
 現在、屋根は草葺きの保護のため上から銅板で覆う等、当院の庫裏(寺の台所、居室)として利用されてきたため、一部改造が行われている。
3 照栄院文書(大田区指定文化財) 古文書27点、古記録2点、大曼荼羅39点、勧募講金本尊8点、絵画7点
 当院は、本門寺二世日朗の庵室で、正応四年(1291)に開創されたと伝えられる。
 元禄期(1688-1704)に、僧侶教育のため池上南谷檀林が開設された。いつのころからか大坊本行寺、理境院と並んで本門寺塔頭三院家の一つとなり、重要な役割を果たした。
 南谷檀林に関する史料をはじめ、貴重な資料が多く伝存している。
4 日朗聖人坐像(大田区指定文化財) 木造寄木造、彩色、玉眼、像高57センチ。
 当院の開山、本門寺二世日朗(1243-1320)の像である。
 像底の銘文により、元和7年(1621)に造られ、本門寺16世の日樹により開眼されたことがわかる。
 区内に現存する開山像の中でも最古に属するもので、また「不受不施派」の中心人物であった日樹の自筆銘文が書かれた像としても注目に値する。
 近年、補修彩色が行われ、像底の下部が半分ほど塗りつぶされ、銘文が判読できなくなってしまったのは惜しい。
5 三宝尊像(大田区指定文化財) 寄木造、彩色、玉眼。
 「南無妙法蓮華経」の題目の宝塔を中央に、その左側に多宝如来坐像、右側に釈迦如来坐像を配置している。日蓮宗の本尊のまつり方のひとつで、一塔両尊と呼ばれる形式のものである。
 台座裏に記された銘文によると、天正三年(1575)、月村入道宗観の逆修供養のため造像されたもので、月村家の菩提寺である当院六世日説が開眼したことがわかる。近年まで同家の内仏として伝えられてきた。


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[Last Updated 3/31/2012]