本の紹介 にごりえ・たけくらべ



樋口一葉著

岩波文庫

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    目 次

0. まえおき
1.
  概  要

2. 解  説
3. 新潮カセットブック

0. まえおき
 森まゆみさんの「一葉の四季」を読み、「樋口一葉の足跡を辿る」ということで、一葉が住んだ住居跡や近くの神社仏閣を巡り、一葉に関する資料を展示した「一葉記念館」を覗いた後には、一葉の作品をきちんと読みなおしたくなります。一葉の作品は雅俗折衷体で書かれ、われわれでさえ読みにくくなっていますが、本で読み、さらにテープで聞くとよく内容を理解することができます。一葉の作品に触れることにより日本の近代文学の軸が出来たような気がしています。

1.
  概  要

 酌婦の身を嘆きつつ日を送る菊の井のお力のはかない生涯を描いた「にごりえ」。東京の下町を舞台に、思春期の少年少女の姿を描く「たけくらべ」。吉原遊郭という闇の空間とその周辺に生きる人びとに目を向けた一葉の名篇を収める。改版。(注・解説=菅 聡子)

2.
解  説
 「われは女成けるものを」。樋口一葉がこの有名な言葉を日記に記したのは、明治29年2月20日のことである。この時一葉はすでに『たけくらべ』の連載を完結しており、その代表作のほとんどを執筆し終えていた。ことに前年発表した『にごりえ』は評判が高く、女性作家樋口一葉の名は、一躍世間に知られるようになっていた。そのようななかでこそ記されたこの言葉は、女性がものを書くこと、自らの言葉で語ることの困難や葛藤をまざまざと示していよう。「われは女成けるものを、何事のおもひありとてそはなすべきことかは」、私は女ではなかったか、何か思うことがあっても、それを成し遂げることができようか。この反語表現にこめられているのは、女性がものを書くことに対する一葉の絶望だろうか、それとも新たな決意だろうか。
 樋口一葉が登場した明治20年代は、日本近代文学の成立期にあたる。坪内逍遥の『小説神髄』の洗礼を受けた新世代の作家たちの登場、教育制度の確立による読者層の拡大、印刷技術の飛躍的な進歩による近代的出版機構の成立。そして明治二十年代はまた、女性作家が文壇に登場した時期でもあった。清水紫琴・木村曙や若松賎子、歌塾萩の舎での一葉の先輩田辺(結婚後は三宅花圃、以下三宅と記す)花圃らがそうであったように、彼女たちの多くは新時代の女子教育、あるいは西洋文化の影響のもとに書くことへと向かった女性たちであった。そのなかにあって、西洋文化の影響をほとんど受けず、その教養の基盤は日本古典に、そして世界観は仏教に依拠していた一葉は、むしろ異質な存在である。さらに同時代の女性作家たちがいずれも上流階級の人々であったのに対して、一葉は死を迎えるまで貧困に苦しみ、一時は吉原遊廓周辺の町龍泉寺に移り住んだ。だがこれらの経験が、一葉に明治社会の暗部や矛盾を鋭く見抜くまなざしを獲得させ、あらゆる境遇の女性たちの生の葛藤を深い共感と理解をもって描き出すことを可能にしたのである。
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 樋口一葉は明治5(1872)年3月25日(太陽暦では5月2日)、東京府の内幸町に父則義・母たきの次女として生まれた。本名は奈津。ほかになつ、なつ子、夏、夏子の署名がある。長兄泉太郎、次兄虎之助、姉ふじ、妹邦子の五人きょうだいであった。両親は山梨県の出身であったが、故郷を捨て、東京での立身出世の道を求めた。苦労と努力を重ねた末、則義は慶応3年に同心株を買い、晴れて士族となった。よって、一葉はその誕生の時から士族の娘としての衿持を持って育つことになる。幼い時から読書に夢中になり、学問を好んでいたが、母たきの意見で学校教育を諦めねばならなくなった。後に一葉は、この時のことを「死ぬ斗悲し」かった、と回想している(『塵之中』)。一葉の最終学歴は青海学校小学高等科第四級卒業というものである。
 一葉がはじめて明確に文学の道を歩み始めるのは、中島歌子の主宰する歌塾萩の舎に入門した時である。学校はやめたものの、毎夜机に向かい続ける娘のために、父則義が知人のつてをたどってくれたのである。明治19年、一葉は14歳であった。上流階級の女性たちがその大半を占めていた萩の舎への入門は、一葉に「家は貧に身はつたなし」(『身のふる衣 まきのいち』)という自己規定を与えた。客観的に見れば、この当時の樋口家はまだそれほど困窮していたわけではない。だがこの自己規定は、一葉がおそらく初めて他者の目に映る自分を意識した、その結果であった。そして同時に彼女は、自分の和歌の実力によって「家は貧に身はつたなし」という状況を逆転させることができることをも、身をもって体験することができた。生まれや性別と関わりなく、実力だけがものを言う世界。その言葉の営為だけが、その言葉の主体を(個)として保証する文学という領域。だがこの幻想を、女性作家樋口一葉は後に打ち砕かれることになる。
 萩の舎への入門は、作家一葉の誕生において大きな意味を持っている。まずあげるべきは、一葉の小説文体形成への影響である。萩の舎では和歌の教授のほかに、『源氏物語』などの日本古典の講義も行われていた。一葉の文学的教養基盤は、彼女自身の読書とこの萩の舎での古典文学の摂取にその多くを負っており、西洋文化・キリスト教思想の影響を強く受けていた同時代の女性作家たちとは対照的である。一葉はそのほとんどの作品において、いわゆる雅俗折衷体を用いている。表現の現場に向き合った時、無意識のうちに身体感覚としてしみ込んでいた日本古典のリズムが、その文体を選択させたと言える。言文一致体への移行期にあって、古典の文脈を基層に持つ一葉の文体は、むしろ伝統的色彩を強く残すものであった。その意味で、一葉の文体は時代の境目をきわどく横断していたと言えよう。しかし、いまだ不慣れな言文一致体では描かれえなかった明治近代の多層性を、一葉の文体は立体的に示しえたのである。
 さらに、作家一葉の誕生に具体的にかかわったという点で、三宅花圃の存在を看過することはできない。花圃は、明治21年『薮の鶯』を刊行し、話題を集めた。以来、著名な女性作家の一人として作品を発表し続けていた。『薮の鶯』は保守的な価値観に基づく作品ではあったが、女学生たちの風俗が生き生きと描写されている。また、坪内逍遥と福地源一郎の序文が付されていたことも、若い女性作家の第一作としては注目されることであった。花圃がその原稿料として33円20銭を手にし、亡き兄の一周忌を見事にすませたというエピソードは、萩の舎でも語り伝えられていた。一葉が作家の道を志した時、まず具体的な目標としたのはこの花園であった。一葉の初期作品には、花圃作品の影響が看取される。また、後に一葉が小説の師半井桃水と絶縁し、作品発表のつてを失った時にも、花圃は「都の花」や「文学界」に紹介の労をとってくれた。一葉が文壇で認知されるためには、有力雑誌「都の花」への作品掲載は重要な階梯であったし、また「文学界」同人たちとの交際が一葉文学に深い影響を与えたことを思うと、花圃の果たした役割は実に大きかったと言えるだろう。

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 一葉を、同時代の女性作家たちのなかで際立たせることになった最大の要因は、彼女が女戸主であったことである。この名称は〈女でありながら/戸主である〉というニュアンスを含んでおり、その立場が男子相続の家父長制度にあっては変則的なものであることを示している。明治日本が近代化邁進のため採用した〈家〉制度−家父長制的家族制度−は、〈家〉の永続性と単一の系譜性を最重要のものとし、その存続のためには個々人の権利や自由は犠牲にされる。家長、すなわち戸主が絶対的な権力としての戸主権を持ち、夫の妻に対する抑圧が制度化されたこの〈家〉制度は、近代の女性たちに大きな苦しみを強いた。一葉の小説は、この制度の内部を生きる女性たち、すなわち母・妻・娘として生きる女性たちと、制度の外部を生きる女性たち、すなわち身を売る女性たちの双方の生の暗部を冷徹に描き出している。
 一葉は、長兄泉太郎の夭折・父則義の病没などによって、樋口家の相続戸主となった。すでに姉ふじは他家に嫁ぎ、次兄虎之助は分籍されていたため、母たきと妹邦子の生活はすべて戸主一葉の責任となった。父則義が事業に失敗したため、樋口家は没落の一途をたどっており、貧窮のなかにあって一葉たちの前には安定した収入の道はなかった。この時一葉は小説を書くことを選択したのである。一葉の小説家としての第一歩が、糊口のための文学として歩み出されたことは銘記されねばならない。このことは二つの意味を持つ。一つは、一葉が同時代の女性作家の中でおそらく唯一、職業作家としての自覚を持った存在であったということである。もう一つは、糊口のための文学としてその歩みが始められたゆえに、自分はなぜ書くのかという本質的な問いに、後に彼女はより切実に向かい合わねばならなかったということである。食べるため、という現実と、あらゆる利害や世俗を超えた(美)の追求という作家的本能と、両者の問で苦悩し葛藤する一葉の心の一端は、日記や覚え書きに記されている。
 ここで一葉の作家としての歩みを年譜にそってたどってみよう。小説家となることを志した一葉は、明治24年、妹邦子の友人野々宮菊子の紹介で、当時「東京朝日新聞」の小説および雑報記者であった半井桃水(なからいとうすい)に弟子入りした。桃水の小説は戯作色の強いもので、一葉の作品に及ぼした影響はほとんど見られない。しかし親身になって一葉に助言・援助を与えてくれた桃水は、おそらく一葉を世に出すために雑誌「武蔵野」を創刊し、一葉はその第一篇に第一作『闇桜』(明25・3)を掲載することができた。明治25年、時に一葉は20歳であった。さらに続けて、『たま襷』(明25・4)『五月雨』(明25・7)の二作を掲載した。だがこの頃、桃水との関係が萩の舎で醜聞として噂され、中島歌子や友人伊東夏子か.ら忠告を受けた一葉は、桃水との交際を断つことを決意する。小説発表のつてを失った一葉に、三宅花圃は有力な文学雑誌であった「都の花」を紹介してくれた。同雑誌に発表した『うもれ木』(明25・11)に注目した星野天知が「文学界」への寄稿を求め、一葉と「文学界」との間に関係が生じた。同人平田禿木の訪問を最初として、戸川秋骨・馬場孤蝶らが次々と一葉のもとを訪れることになる。さらに「都の花」に『暁月夜』(明26・2)を掲載するが、一葉の小説表現史において大きな転回点となったのは、「文学界」に発表した『雪の日』(明26・3)である。概して一葉の初期作品は、既成の物語の枠組みに依存しており、語り手と語られる内容との距離が自覚されていないきらいがあった。『雪の日』において一葉は、初めて一人称回想形式の語りを採用した。この作品では、語られる過去は語り手によって把握され、語り手の現在の認識によって意味づけられている。一人称の語りの実践を通じて、語り手の位置・物語への統括力などがあらためて確認されたのだろう。

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 作家的成熟に伴い、さきにふれたょうな一葉の内面の苦悩・葛藤はより切迫したものとなっていた。一方、生活は日に日に困窮を極めた。この難局を打開するぺく、一葉はいわばコペルニクス的転回を行う。文学を捨てて、実業に就く、すなわち商売を始める決意をしたのである。明治26年7月20日、一葉は母たき・妹邦子とともに下谷龍泉寺町に転居し、小さな雑貨駄菓子の店を開いた。当時の龍泉寺町は、吉原遊廓に寄生する廓者たちが軒の傾いた長屋にひしめく場所であった。この場所を「塵の中」と呼んでいることからも明らかなように、龍泉寺町への転居は、一葉にとってはあからさまな転落であった。だがここで一葉が目にした、女性たちが身を売る吉原遊廓という闇の空間、その場所に経済的に依存する周辺の町の人々の生活などが、作家としての彼女の社会認識を深化させ、後に〈奇跡の十四か月〉と呼ばれる創作の充実期をもたらすことになるのである。糊口のための文学を放棄し、商売に従事していたこの期間に、一葉はおそらく純粋に自分はなぜ書くのかという問いに向き合っていたと思われる。そして明治27年5月、商売を廃業して本郷の丸山福山町に転居した一葉は、再び書くことへと向かった。
 明治27年12月に「文学界」に掲載した『大つごもり』を幕開けとして、一葉は近代文学史上に残る傑作の数々をほぼ一年あまりの間に集中的に執筆した。どの作品も、それまで描かれえなかった明治近代の抑圧のなかを生きる女性たちの姿を、その所属する社会的な階層を越えて描き出したものであった。たとえば『ゆく雲』(明28・5)『十三夜』(明28・12)などでは、母・妻・娘として家父長制度の内部を生きる女性たちの個としての生を希求する苦悩が、〈家〉による束縛と対比されつつ描かれている。また身を売る女性たちの生の本質、彼女たちが担わねばならなかったものは、本書に収録された『にごりえ』(明28・9)や『たけくらべ』(明28・1〜29・1)に結晶している。身を売る女性たちは一見家父長制度の外部を生きているかのように見えるが、実は彼女たちを差別化し、また制度内部の女性たちにもそのような差別化に基づく優位性の意識を与えることによって、家父長制度が、ひいては明治近代そのものが支えられているという厳然とした事実を、一葉の視線は見事にとらえている。それは何よりも、自ら女性作家として人々の視線にさらされた体験を通じて、一葉が明治において女性が〈個〉として認知されることの困難をまざまざと感じ取っていたからにほかならない。作家として世に知られれば知られるほど、周囲の人々の関心は一葉が女性であることに集中した。言葉の主体、表現の主体としての〈個〉ではなく、あくまで女という性に人々が向ける視線は、本質的には身を売る女性たちにそそがれるそれと同質のものである。冒頭に引用した「われは女成けるものを」という言葉は、そのような一葉の厳しい自己認識のもとに記されたものであった。
 樋口一葉は、明治29年11月23日、結核のためわずか24歳でその生を終えた。だが彼女が語った明治の女性たちの生、その抱える存在としての苦悩は、現在においても決して風化してはいない。それは現在の女性たちが同じく抱える生の困難と確かに響き合っている。女性作家樋口一葉は、時代のなかで沈黙せざるをえなかった多くの女性たちの代弁者として、近代社会の抑圧のなかのさまざまな生を語ったのである。
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 『にごりえ』は、明治28年9月、雑誌「文芸倶楽部」第一巻第九編に掲載された。発表当時から評判が高く、たとえば田岡嶺雲は、「一葉女史の『にごりえ』」(「明治評論」明28・12)で、その社会性を高く評価した。
 『にごりえ』は、一葉作品のなかでも最も難解な作品とされる。その最大の原因は、ヒロインお力の設定にある。銘酒屋菊の井のお力は、「物思ふ」酌婦として描かれている。だがそのお力の物思いの内容が、明確に読者の前に示されることはない。それはお力自身が、自分が内面に抱える混沌を言語化することができないでいるからである。それを象徴しているのが「我恋は細谷川の丸木橋わたるにや怕し渡らねば」の歌に導かれて展開される、いわゆる独自夢中の場面である。ここでお力を襲うほとんど狂気の世界に近づかんばかりの状態は、お力の心の奥底に潜む闇がいわばその存在の裂けめから外界へ湧出してきた瞬間をとらえたものと言えよう。
 お力の物思いの内実を〈語ること〉へ向かわせるべく登場するのが、新開地の銘酒屋には不釣り合いな上等の客結城朝之助である。「履歴をはなして聞かせよ」「真実の処を聞かしてくれ」という朝之助の再三の勧めに促されてお力が語った七歳の冬の思い出は、お力の〈にごりえ〉の生の原点をなすものである。だがそれに対して朝之助は、「お前は出世をのぞむな」「思ひ切つてやれ」と、酌婦としてのお力にふさわしい意味づけを行う。酌婦という境涯とは無関係に、一人の人間としていわば生存の不安をかかえているお力の内面は、やはり理解されることはなかった。この時お力は再び沈黙の中へと閉じこもっていかざるを得ない。
 『にごりえ』には二つの境遇の女性たちが登場する。酌婦、内実は私娼としてわが身を切り売りする女性たちと、妻・母として家庭の維持・存続をまかされ、家父長制度の内部を生きる女性たちである。菊の井の売れっ子酌婦お力は前者の代表であり、お力にいれあげたあげく落ちぶれてしまった源七の妻お初は後者の代表である。一見二つの境遇の女性たちの間には、はっきりとした境界線が存在するかのように見える。だが、母にして酌婦というお力の酌婦仲間の姿が描かれることによって、両者の間の境界はたやすく無化されてしまう。事実、身寄りもなく幼い息子大吉をかかえたお初が、源七から離縁されて生きていくすべは、自ら身を売る境涯へと落ちていく以外にはない。これもまた〈にごりえ〉の生の形であった。
 お力の死に、語り手は自らは何ら説明を加えていない。彼女の死は、町の人々の噂に取り囲まれ、さまざまに語られている。最後まで酌婦お力は自ら語る存在ではなく、語られ、解釈され、意味を付与される存在であった。それが、社会の〈にごりえ〉を生きた一人の女性の生と死が象徴するものなのである。
 『たけくらべ』は、雑誌「文学界」に、明治28年1月(1〜3回)、2月(4〜6回)、3月(7、8回)、8月(9、10回)、11月(11、12回)、12月(13、14回)、同29年1月(15、16回)と断続的に掲載され、明治29年4月に「文芸倶楽部」第2巻第5編に一括再掲載された。

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 女性作家樋口一葉の名前を一躍有名にしたのは、幸田露伴・斎藤緑雨・森鴎外による合評「三人冗語」(「めさまし草」明29・4)の『たけくらべ』評である。とくに鴎外による「われは縦令(たとい)世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」との激賞は、同時代のみならず後世に至る一葉の評価を決定づけた感がある。
 『たけくらべ』の成立には、一葉の下谷龍泉寺(通称大昔寺前)での生活体験が大きくかかわっている。千束神社の祭りや吉原三大行事、あるいは作品冒頭に登場する酉の市のための熊手作りなどの土地の風俗のみならず、駄菓子屋を開いていた一葉が接する機会のあった町の子供たちの様子などが作品の中で十分に生かされている。そして何よりも、『たけくらべ』の世界を背後から支配している吉原遊廓、そしてその周辺の町の人々が〈女〉というモノにそそぐ視線の意味、それらを目の当たりにしたことがこの作品を生んだのである。
 ここで吉原遊廓について簡単にふれておきたい。元和3(1617)年、幕府は葺屋町(現存の日本橋人形町付近)に江戸市中の遊女屋を集め、一大傾城町を造った。この地にヨシが繁茂していたことから葭原、転じて吉原と呼ばれるようになった。明暦3(1657)年に大火のため浅草山谷(現在の台東区千束)に移転し、以後前者を旧吉原、後者を新吉原と呼ぶ。明治の吉原は後者のことである。吉原は周囲を大下水の流れる溝で囲まれている。水はどす黒く濁った下水であるが、遊女たちがお歯黒の水を流したためとも言われ、お歯黒溝と呼ばれる。どす黒い溝水で周囲を囲われた空間、これこそ吉原という場所を象徴していると言える。この水は明暦の大火の教訓としての防火用水であると同時に、遊女の逃亡を防ぐためのものでもあったからである。お歯黒溝には各町ごとに廓外と廓内とをつなぐ門と跳ね橋があり、番人のいる番小屋があった。この橋は中から外へと下ろすことしかできない。この跳ね橋が上げられてしまえば、吉原は完全に隔離された空間となるのである。
 『たけくらべ』は、夏から初冬への季節の移ろいのなかで、吉原周辺の町・大音寺前を舞台に、二度とは戻ってこない(子供たちの時間)を見事に描き出している。大黒屋の美登利、龍華寺の信如、田中屋の正太郎を中心に、頭の長吉や滑稽者の三五郎など、それぞれがそれぞれの場所で、大人の時間を目前にした最後の季節を過ごしている。ことに美登利と信如の問で交わされるそこはかとない思慕は、私たち読者の惜春の思いを誘引してやまない。だが『たけくらべ』の哀切な調べは、吉原遊廓という悲惨な場所によって支えられている。美登利の身体もすでにこの空間に深くからめとられている。一方信如は僧侶となるべく間もなくこの俗塵の地を去らねばならない。それぞれに「大黒屋の」「龍華寺の」との称号を背負って登場していることからも明らかなように、彼らが現在そして将来も所属す、べき場所はすでに決定されているのであって、二人の住む世界は永遠に交わらないのである。それを象徴するのが、雨の日の大黒屋の寮の格子戸の場面である。あたかも芝居の一場面を思わせるような画面の切り取り方、終始無言のうちに展開される二人の言葉にできない内面の逡巡、そして雨のなかに取り残される紅の端切れ。このもっとも印象的な美しい場面で示されているのは、しかし二人の住む世界は決して交わらない、ということなのだ。二人を隔てる格子戸は、まさに「何うでも明けられぬ門」であった。

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 美登利はある日を境に、別人のように変わってしまった。美登利に何が起こったのか、初潮を迎えたのか、それとも何らかの形で身を売るに近いことがひそかに行われたのか、語り手ははっきりとは明かしていない。だが明らかなのは、彼女にとって大人になることがすなわち遊女となること、自らの性を切り売りして生きていくその決定の時を意味することである。一葉は『たけくらべ』の執筆と並行して、『ゆく雲』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』といった代表作の数々を書いた。「ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事」という美登利の嘆きは、これからの計り知れない未来の時間を、性的存在としてのみ生きていかねばならない一人の少女の、言葉として発せられることのない思いであった。そしてその美登利の姿は、他の作品に登場する多くの女性たちの原点とも言うべきものなのである。
 ある霜の朝、信如は水仙の作り花を残してこの町を去って行く。だが吉原の格子戸の中にからめとられた美登利は、どこへも行くことはできない。水仙の「淋しく清き姿」に見入る美登利の背後に吉原の闇があることを、語り手の視線は確かにとらえている。その非情と豊かな抒情の括抗するところに『たけくらべ』の世界はあるのである。
 本書に収録された『にごりえ』『たけくらべ』の本文は、それぞれ「文芸倶楽部」第一巻第九編(明28・9)「文芸倶楽部」第二巻第五編(明29・4)掲載本文を底本とし、明らかに誤りと思われるものについては、他本ならびに真筆版『たけくらべ』(樋口邦子編、博文館、大7)を参照して適宜あらためた。
  1999年2月
                菅 聡子

3.新潮カセットブック
 この文庫本に掲載された一葉の代表作「にごりえ・たけくらべ」を収録した新潮カセットブックがあり、幸田弘子さんの朗読により、耳からも名作を鑑賞することができます。
1990.10.25発行
(株)新潮社

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[Last updated 10/31/2001]