器量よし司馬遼太郎は、たしかに作家なのだが、文明批評家といった方がいいと思う。晩年、時事的な話題にも踏み込んだ話をするようになった。 『対談 国家・宗教・日本人』では、井上ひさしと4回にわたり対談している。最後の「日本人の器量を問う」の回では、銀行に対する不快感をあらわにする。 「不良債権でにっちもさっちもいかなくなってます。だけどこうやってこうやれば何とか解消できるが30年ほどかかります。どうでしょう」と言えばいいんです。そしてもうひとつ、「バブルが悪うございました。バブルは違う方面に持っていくべきでした」ということも謝ってほしいですね。この話は、『土地と日本人』の延長上にある。さらに、 大和銀行の事件そのものは小さいですが、実はその意味は大きいんです。ほんとうは日本式やり方のつまづきなのですから。だから太平洋戦争の第二の終末のつもりで受け止めて、スッキリした日本につくり変えていくためのちょうどいいチャンスなんですね。(p141) つい言葉が汚くなりますが、てめえのマンションを人に貸して官舎に住んでる。「そんなうすみっともないことができるか」というのがかつてのふつうの日本人でした。それがいま平気でやっている。それが国家規模になると、そういう濁ったものが政策の基本思想に必ず臭ってきますよ。(p142)私は、官舎が社宅でも同じだと思う。面と向かっては言わないけれど。 いい悪いは別として、天才崇拝という意識が衰えましたね。ひとりの天才をつくらず秀才だけの互助組織の中でいきていこうという社会です。典型が大蔵省だと思いますが、まれに天才が現れると、こいつを大事にしようということがない。司馬がイメージしている天才は、野茂、イチロー、宮崎駿。人物を重んじる風土は、どうしたら育まれるのか。 「(日本では天才が育ちにくい)面もあるけど、僕はデザイナーよりもその才能を認めるマネージャーの存在が重要なんじゃないかと思う」(徳大寺有恒)という意見もある。 たくさんの凡庸なものの中からキラリと光るものを見つけ出し、それを育てていく才能。そういうものが力を行使する階層の人々に決定的に欠けている。 私は、「普通の国」になどならないほうがいいと思ってます。日本は非常に独自な戦後を迎えて、独自な今日の形態にあって、この独自さはいいんだという気持ちがある。理想論を語って隣国に文句を言われたら、 基本的な誇りの首を折られた人たちには、3代、4代あとまで謝ることは必要です。それでいいんです。それでも少しも日本国および日本人の器量が下がるわけではない。器量が下がると思っている人は、自尊心の持ち方の場所が間違っている。(p134) 私たちの自尊心はどこからきているかというと、ニューヨークにいてもパリにいても、「ああ、室町時代に世阿弥という人がいたな」と思うだけで、ちゃんと町を歩けますよ。「考えてみれば江戸時代に西鶴もいたな。近松門左衛門もいた。日本人は偉いとも思わなかったけれど、西洋人が偉い人だと言いはじめた広重も歌麿も写楽もいたんだ」と、そんなふうに思って歩くから歩けるのであって、経済力がどうだとか、いろいろ侵略したから頭を下げ続けてますというようなことで自尊心はどうこうならないですね。(p135)これを自尊心と言ってしまうと、西欧コンプレックスの裏返しみたいだけど、感触としては精神的な血脈に近いのかもしれない。 対談は、井上の提唱する「美しき停滞」「美しき成熟」に賛同するところで終わる。話の流れからすれば私だって賛成なのだが、美しくて成熟した社会がどんなものなのかについては検討を要する。
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