ある日本人が見たモンゴル



 モンゴルといえば、かつては元寇を連想したものだが、朝青龍のおかげでずいぶんと身近な国になった。

 「街道をゆく」シリーズの1冊『モンゴル紀行』は、前半でソ連、後半でモンゴルについて書いている。どちらも社会主義の国なのに、ソ連よりもモンゴルに対する愛情を感じる。それは通訳のツェベックマさんに負うところが大きい。

 司馬遼太郎の書く文章は、紀行という形をとった歴史解説だ。少し受け売りしてみる。
シベリア出兵という得体の知れない国家行為は、その関係書物をいくら読んでも依然として得たいが知れない。革命のどさくさにまぎれてシベリアのカケラでも奪ってやろうという、救いがたいほどに格調のひくい性根があったようだが、その性根のわりには、政略も戦略もあったものでなく、一体これが一人前に国家であると称している国の国家行為なのかとあきれざるをえないほどのものである。(p52)
 という一節を見つけ、シベリア出兵に対する評価を知る。出兵の着想は、西郷隆盛の征韓論に由来する。

 かつてソ満国境近くで、戦車連隊の士官として圧倒的な戦車兵力を持つソ連軍と対峙した経験から、リアリズムのなさを憎むのだろう。

 一行はウランバートルからゴビへ飛ぶ。流沙を見たり、馬飼いのゲル(包:パオ)を訪ねたり。そこで馬乳酒と馬頭琴の歓待をうける。

 モンゴル語を専攻し、学徒出陣し、新聞記者をへて国民作家となり、念願かなってあこがれのモンゴルまでやって来た。しかも、モンゴル語を教えてくれた先生も一緒だ。そんな著者の感慨と、ユーラシアの歴史と、モンゴル人とモンゴルという土地柄がミックスされ、読む者の想像をかきたてる。

 日本人のルーツは、バイカル湖畔だという説がある。そこにはブリヤート・モンゴルが住んでいる。シベリア低地に住むブリヤート人は、早い時期からロシア人と接触し、知的水準も高かった。モンゴル高原で革命がおこったとき、指導者のほとんどがブリヤート人だった。
モンゴル民族とチベット民族とは、トルコ民族とともに有史以前からの仲で、紀元前後、この高原における覇権をたがいに争い、ときには連合し、漢民族からともに匈奴とよばれた。(p162)
 トルコ民族は西方へ去り、チベット民族はチベット高原に閉じこもった。しかしラマ教はモンゴル高原に残り、チベット語がモンゴル人の教養語となった。ツェベックマとは、チベット語で乙女という意味だ。

 自前のわずかな知識とマッチングしないといけないので、受け売りするのも疲れる。  17年後の1990年に、司馬はモンゴルを再訪する。そこから生まれた『草原の記』は、本書の続編に相当する。 (2006-08-05)