池田晶子を継ぐもの



池田晶子は、私にとってチンドン屋みたいなものだ。おもしろそうな人がいるので、後をついて行ったら、プラトンなんかはいかがと宣伝される。そうすると、ついその気になって『パイドロス』なんぞを手にとってしまう。

口上を聞いていると、どこか変だとは思うのだが、何が変なのかはわからない。それでもつきあっていると、永井均を引っ張り出してインタビューしてくれる。そうそう、そんな楽屋話が聞きたかった。

池田のエッセイを読んでいると、たしかに泉のそばにまでは連れて行ってくれるけど、水は飲めない。そこで味見までさせてくれるのが文学ではないか。そう思っていたところ、川上未映子が小説を書きはじめた。しかも、芥川賞受賞後に「文学界」(08年3月号)で永井均と対談している。今は亡き池田晶子を継ぐのは彼女しかいない。

作家になれば、だれにでも会いに行ける。アマチュアにはできないことができる。永井均と話したことをただ対談集に入れるのではなく、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』みたいなしっかりと編集をほどこした作品に仕上げてほしい。

さて、池田晶子と永井均の対談は『2001年哲学の旅』(新潮社)に収録されている。

永井が<私>の存在についてしつこく考えているのに対し、池田は存在そのものが謎だと言う。数学でいえば、永井がなぜπなんていう数字が存在するのかを問うのに対して、池田はなぜ数が存在するのかを問うている。

これまで池田の本をいくら読んでもぴんとこない理由がわかった。私には、なぜπがへんてこな数なのかその理由には関心はあるけれど、その存在に関しては「あるのだからしかたない、それを前提にしてもっとおもしろいことがわかるとうれしいな」のレベルにいる。オイラーの公式などを示されただけで、感動してしまう人間だ。なぜπがそういうものなのかを突き詰めて考えようとはしない。

ゆえに数学者にもならず、哲学者にもならず、ただの人でいられるわけだ。しかし、πってへんな数だよなと気にとめる人が近しく感じる。
永井: 公共的に何かを言葉にするとか、書物を出版するというのは、全部自慢話だということになるんじゃないかと思うんです。つまり、俺、もしくは私は、こんなすごいことを考えたぞと自慢しているんです。たとえばどんなに自己を卑下したり、恥部をさらけ出したりしても、それは全部自慢話だと。自慢以外ありえない。そう考えると、全部納得がいくと思うんですよね。でもそれはちっとも悪いことじゃない。むしろ、自慢話をするにしても、できるだけ正確に自慢しよう、余計でつまらない自慢はしないで、きっちりぴったり、正しく自慢しようということになるんです。
自慢話が通じる人がいるかどうかというのは、これは芸人のギャグが受けるかどうかと同じで、言ってみないとわからない。
僕の場合、通じる相手と通じない相手を分断するようなところがあると思うんですよ。(中略)これで伝わればフレンドという感じで書くんですよ。
いま、現にいる人の個々の反応などは、あまり問題にしない。(p223-224)
自慢話をしているという意識はないが、ギャグと同じというのは同感。「もの書きとは、あえて自覚的に傲慢と下品を選びとった人々」(高橋源一郎)という耳の痛いことばを思い出した。

(2008-02-17)