マンガは哲学する



 マンガに関する本では、読み物としておもしろいいしかわじゅん、マンガの技法に言及する夏目房之介が印象に残る。そこに新しい石を投げた人がいる。永井均は『マンガは哲学する』のまえがきで次のように述べる。
 二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。世の中の内部で公認された問題とは違う、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。(中略)
 いや、それどころか、ひょっとすると、マンガと言う形でしか表現できない哲学的問題があるのではないか、と私は感じている。
 本書は、マンガによる哲学入門書として読めるようになっている。ちなみに各章のタイトルは、「意味と無意味」、「私とは誰か?」、「夢」、「時間の謎」、「子供VS.死」、「人生の意味について」、「われわれは何のために存在しているのか」。

 取り上げている作品には、萩尾望都の「半神」、手塚治虫の「火の鳥」、楳図かずお「寄生獣」などのおなじみの作品がある。その他には、吉田戦車の『伝染るんです。』、星野之宣、坂口尚の「あっかんべぇ一休」など。

 哲学という切り口で並べているので、私の好みとは少しずれる。ストーリーのおもしろい作品、テイストを味わう作品などがごっそりぬけ落ちてしまう。それでも永井の投げた石の波紋は大きいに違いない。これとは別に河合隼雄の心から見た切り口でのマンガ紹介も読んでみたい。

 ところで永井は、「哲学的感度」ということばを繰り返し使っている。そして吉田戦車が持つ哲学的感度をほめちぎり、つづけて自分の体験を語っている。
 話はそれるが、私は大学の教員をしていて、哲学を学ぶことが哲学的感度を殺してしまう例を、毎年のように見ている。大学一、二年のときには、まだ輝くほどの哲学的感度を持っていた学生が、本格的に哲学の勉強をし、大学院進学を決意しはじめるころには、もうすでに、哲学界で哲学の問題であるとされているものを、ただこねくりまわすだけの人になってしまっているという例を、何度見てきたことだろうか。
 マンガに話を戻そう。彼が一番好きな作家は、佐々木淳子だという。超幻想SF傑作集「Who!」も読んでみたい本の一つだ。また本書では取り上げられていないが、諸星大二郎で一番好きな作品が「夢の木の下で」だということを付け加えておく。

 中でも一番おもしろかったのは、死ぬほどパワフルで、反省や内省といったことをまったくしない人、「天才バカボン」のパパの話である。著者はこれを究極超人と評している。そしてさらに疑問を投げかける。
天才バカボンのママとはいったい何だろう? どうして平気な顔をしてこんなとんでもない男の妻でありつづけることができるのだろうか?
 これには私も思わずうなってしまった。
  • マンガは哲学する 永井均 講談社 2000 NDC726.1 \1400+tax

  • 伝染るんです。 吉田戦車 小学館 1992
     けっこう病みつきになる作品。いしいひさいちと双璧をなす。
(2000-07-07)