考えろ



哲学するものである池田晶子が、「週刊新潮」で時評するというのもおかしなものだ。

シリーズ3冊目の『知ることより考えること』では、時事問題とは関係ない話題が多くなった。とくに死にまつわる文章が目につく。すでに体調の異変に気づいていたのだろうか。
なんの因果か、こんな時代に、物書きなんかになってしまった。時々、ひどい脱力徒労感に囚われる。ひょっとしたら、サルの群れにロゴスを投げ込んでいるのではなかろうか。(p86)
週刊誌の読者にケンカを売らなくてもいいのに。

売れっ子の若い小説家が、ネットで私生活を公開しているのを批判して、
読者を指して「ファン」と呼ぶ。ここに第一の勘違いがある。あんたが書くのは言葉でしょうが。言葉を読むのは読者でしょうが。それならファンとは呼ばずに「読者」と呼べ、読者と。
さらには、作家が読者に「サービス」するという勘違いである。作家が読者にサービスするなら、いい作品を書く以外の何がある。なんで私生活を見せることが読者へのサービスになると思うのだ。
そんなこと言っても、池田さんにサインをもらった読者は喜ぶでしょう。自称池田ファンだっていることだし。

医者をめざす17歳の少女が池田に問う。

私は医者になろうと思っていたのだが、本にあるように「死」というものが存在しないのなら、なぜ医者は患者の命を救うのか。私は苦しんでいる人を救ってあげたいと思う。しかし死がないのなら、それは何のためか。「医者は何のために医者なのですか」。

『14歳からの哲学』で示した論理的な考え方の道筋に対し、現象の側から問いを投げかけてきた。池田の答えは、
そのような問いに答えはないということを知りながら、だからこそ、人の命を救うという仕事に自分の命を賭けているのが、本物の医者なのでしょう。(p133)
これは臨床哲学との接点になりそうな話だ。しかし、問いと答えの間にはさまる記述は、「論理と現象の絶対矛盾が同一であるのが人間という存在だ。我々は、こうである以外、どうしようもないのだ」。池田は、説明というものを拒否する。わかるやつにしかわからない、ということか。

まだ私にとっての主著とめぐりあえていないのに、他界してしまった。「私は氏ほど無責任ではない」という一言を残して。養老孟司批判をできるのは彼女だけだったのに。

懐かしんでいる暇があったら、もっと考えろと言われそうだなあ。 (2007-03-26)