ヘーゲル好きの美女



 『睥睨するヘーゲル』の扉にある池田晶子の写真を見た。美形でしかもポーズをとっているのを見ると、本の読者も担当の編集者も男が多いのだろうと想像してしまう。

 文章を書いて、それを他の人が読むときに、はたしてどのくらい意味が通じるのだろうか。単語の意味一つをとっても、私が意味することと、他の人が意味することが、必ずしも同じとは限らないのだから。ましてや異なる言語の間であればなおさらのこと。

 私は、言葉が通じるというは錯覚だと思っている。でも人間は、そういうファジーに非常に強くできていて、日常生活で困ることはあまりない。そういう言葉に、とても高い信頼を寄せるのが、哲学者というものらしい。

 「人間は必滅だが、言葉は不滅である」と語る池田は、次のように述べる。
科学がそれ(「魂」のこと)を脳と言い、哲学がそれを意識または主体と言う。
プラトンの「イデア」とは、ほぼ「言霊」のことだと私は解している。
 河合隼雄は、こころと体を結びつけるものを「たましい」と言った。脳のことではないはずだ。
言葉は商品ではない
私は売るために文章を書いているのではない。読まれるために書いているのである。
 彼女が本を出すには、編集者や版元との格闘がついてまわるそうだ。

 自分でホームページを作っていてつくづく思うのだが、文章を書くということはある意味で思考を麻痺させる側面がある。公開を前提に書くことで、他人に伝えるために書くことで、自分が読んでおもしろい文章を書こうとすることで、知らず知らずのうちに思考が鈍化してしまう。そこが公開を前提としない日記との違いだ。

 そして池田は言う。編集者は、自分の個性を出してはならないと。あくまで自分を殺して、著者と読者に信頼されるのが、サービス業としての編集者の職分であると。編集者の反論はいかに。
(2000-07-07)