やらせ考



今野勉は『テレビの嘘を見破る』の中で、「やらせ映像は絶対見破れない」と断言する。読者と一緒に考えるという姿勢で書いている本なのだが、ウソの見破り方について書かれてはいない。タイトルに偽りあり。

同じ分野の本ゆえ、森達也『ドキュメンタリーは嘘をつく』と共通する作品が出てくる。しかし、1993年のやらせ論争のきっかけとなったNHKスペシャル「禁断の王国・ムスタン」でさえ、いつでも見られる状態にない。だから、わかりやすく書かれた本であるにもかかわらず、理解しにくい点がある。

田原総一朗は、取材プロセスを記録することがドキュメンタリーの基本だと考える。一方、石川好はそんなのは下品なやらせだと批判する。マンガでは、作者が作品の中に顔を出し、裏話をすることはよくある。これは関係性の開示と関係する。

とくに秘境もので顕著だが、ある具体的な個別を事実ではなく、典型的な習俗慣習を記録することがある。これが典型の記録。そのためには年に1回しかやらないお祭りを再現してもらったりする。

牛山純一は、「再現からは真のドキュメンタリーは生まれない」から「現象が起きるまで待つべきだ」と主張する。

再現という手法ひとつとっても、日本では賛否両論に分かれるのに対し、欧米ではあたりまえの手法とみなされている。

ここで今野は、関係性の開示と作品の自律性という2項対立に問題を整理する。

関係性の開示とは、「その事実はどのように撮影されたのか」「撮る側と撮られる側の関係はどうなるのか」「撮影によって何が起きたのか」が問われる。その精神は、「事実の前に謙虚であること」だ。つまり捏造はあってはならない。

作品の自律性では、「伝えるためにありとあらゆる方法を考える」ことが重要だ。やらせなど当たり前。

私は牛山説なので、マイケル・ムーア監督の「華氏911」は見るに耐えなかった。プロパガンダ映画を見るような不快さを感じた。

制作費用とか制作期間とかは言い訳にならない。それは作り手の都合でしかない。本書では、手法に力点を置いているが、より基本に立ち返って考えるべき問題だ。ドキュメンタリーは、どうあるべきものなのか。

たとえば、撮る必要のない秘境ものを作っていないか。取材費と称して現地の人にお金をばら撒いているのではないか。撮影対象への干渉は、最小限にとどめるべきだ。

「プロジェクトX」みたいな再現を含むバラエティ、作品としての再現ドラマ、狭義のドキュメンタリーの3者を区別してほしい。この境目をあいまいにされたくない。作品としての再現ドラマは、まだ数が少ないが、これから伸びるジャンルだと思う。

狭義のドキュメンタリーもニュース番組の1コーナー「情熱大陸」みたいな番組、より本格的な作品がある。求められる水準も違うだろう。ただ映像は、ディテールが重要なものだ。見ている私は、無意識に写っているものからさまざまなものを読み取っている。そして作品により割引率を変えつつ解釈している。なかでも、我を忘れたときの表情がいちばん人間らしい。

  • テレビの嘘を見破る 今野勉 新潮社 2004 新潮新書088 NDC699 \700+tax

(2007-10-18)