嘘をつく装置



 「A2」と聞いて、自動車の名前かと思ったら、ドキュメンタリーのタイトルだった。しかも作者は森達也。その著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』は、映像作家としての自伝にもなっている。

 自作品や作ろうとしてぽしゃったテーマ、これまでに見た過去の作品群(戦前の亀井文夫「戦ふ兵隊」から牛山純一の「ノンフィクション劇場」、原一男、是枝裕和などの作品)を紹介しながら、ドキュメンタリーについて考察している。
 僕が望むのは、ドキュメンタリーという表現ジャンルへの正当な評価だ。つまらないものは消えるし面白いものは残る。その市場原理を普通に機能させたいだけなのだ。(中略)
 苛立ちのもうひとつの理由は、ドキュメンタリーの面白さに、観る側だけでなく作る側も気づいていないことだ。特にドキュメンタリーが商業ベースとして唯一生き残っているテレビの現場において、作り手たちがドキュメンタリーの本当の魅力や撮る楽しさに、気づいていないケースがあまりにも多すぎる。
 ……なぜ僕は、これほどたっぷりに断言できるのか? 答えは簡単だ。かつての僕がそうだったからだ。(p18)
 ときにヤラセが問題になるが、ドキュメンタリーは事実の記録ではないと森は明言する。
自らのパーソナルな主観や世界観を表出することが最優先順位にあるドキュメンタリーと、可能な限りは客観性や中立性をつねに意識に置かなければいけないジャーナリズムとは、本来は水と油の関係のはずだ。表層的に近いからこそ、絶対に混同してはならないジャンルなのだ(もちろん表現である限りは報道も主観からは無縁ではいられない。しかし意識の持ち方は異なるべきだと僕は思う)。(p160)
 「つくづく思う。ドキュメンタリーは徹底して一人称なのだ」(p74)と語る著者も、セルフ・ドキュメントは自閉する可能性があると指摘する。「撮る側と被写体との関係性を描く」(p190)のがドキュメンタリーの本質であるからだ。そこをめざしてほしいと次世代の映像作家に求めている。

 あまり使いたくない表現ではあるが、メディア・リテラシー向上のための参考書としても役に立つ。
(2006-01-22)