Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜



第952夜

最新形「方言コスプレドラマ」の件 (前)


 笠間書院から出ている『ドラマと方言の新しい関係』を取り上げる。
 分類としてはなんなんだろう。ISBN あるし、奥付には「初版」とか書いてるし、書籍だと思うんだが、見た目はムック。
 今回の文章のタイトルは、帯にあたる部分に書いてある惹句を借りた。

 これは、「あまちゃん (2013)」「八重の桜 (2013)」「カーネーション (2011)」をテーマにしたシンポジウムの採録をメインに、文章がいくつか、という感じ。
 したがって書いた人は「編者」という呼び方になるようだが、金水敏田中ゆかり岡室美奈子の三氏。というわけで、「役割語」という語の確認から始まる。
 ここでもそれにならうと、も書いたが、「語尾などの内、フィクションで使われると発した人物がどういう人物か大方の見当がつくが、それを実際に使ってる人はほとんどいない」という語のことである。「〜なんじゃよ」と言えば男性の老人、「〜ですわ」と言ったら金持ちもしくは身分の高い女性、という感じのあれ。この感覚は、4〜5 歳で身につくらしい。
 方言を、表現したい内容、ニュアンスによって使ったり使わなかったりする、ということは以前から言われているが、そうすると方言は「役割語」の様相を帯びてくる。それを、話している人のポジションを表現するために使う、という観点で見ると「方言コスプレ」という考え方になるわけだ。

 最初に書いとくと、いや、前にも書いたと思うんだけど、ドラマや映画での方言に対する「違う」という反応。
 しょうがないんだって。
 そのドラマや映画が、その地域の外もターゲットにしている場合、外の人達にもわかるようにしなきゃならない。多少、薄めなければならないのはどうしようもない。本当にリアルにしたら通じないし、そっぽ向かれたりする。この本でも「勝海舟 (1974)」で、「わからない」という投書が来た、ということが紹介されている。それは今だってある (見た記憶があるんだが、いつの、何の番組についてだか忘れた)。
 薄めることを否定するのであれば、地域を舞台にしたドラマは作れない。東京生まれ東京育ちの人ばっかりが東京で活動する話しか作れないが、それだって怪しいことになる。あるいは、せいぜい、市町村単位での放送にするしかない。ここは、リアルさとわかりやすさとドラマの内容とのバランスを取りつつ作業しているスタッフや役者に敬意を払いつつ見るべきである。まぁ、確かにひどいのもあるけど。
 あと、「そんなこと言わない」も危うい、ということは念を押しておく。「あまちゃん」の「じぇじぇじぇ」もそういう意見があったが、この本でも紹介されている通り、市町村よりはずっと小さい範囲ではあるが、使う地域はあった。知らないことは確かに悪いことではないかもしれないが、自分が知らないことに気付かずに「違う!」と明言してしまう危険性については注意を払うべきだ。

 もちろん、自戒込み。
 随分、やらかしてるし。

 田中ゆかり氏は、ドラマにおける方言の使われ方を、「どこが舞台なのか」を示す「地域用法」と、「その人はどういう人なのか」を示す「キャラ用法」にわけている。
 端的に言えば、「八重の桜」で会津が舞台である時に会津の人々が話しているのが「地域用法」で、八重が京都に行ってもずっと会津の言葉を使い続けているのが「キャラ用法」である。
 氏は、八重のこの言葉づかいについて、坂本龍馬や西郷隆盛など「幕末方言ヒーロー」に通じる特性だ、としている。確かに彼らは (方言を話しているという設定のドラマであれば) ずっと方言を使い続ける。木戸孝允 (桂小五郎) や伊藤博文あたりが標準語であるのとは対照的である。
 対照的と言えば、「カーネーション」の糸子も岸和田弁を使い続けたが、八重と違うのは、彼女は岸和田からほとんど出なかった、ということである。俺もドラマ (特に、尾野真知子の時期) 見ながら「ロケの少ねぇ番組だなー」と思っていた。岸和田の商店街ばっかりだったと思う。

 方言指導の人がいるわけだが、その名称について、初期は「方言指導」だったものが、のちに「○○弁指導」、今は「○○ことば指導」になっている。なんでそうなったのかについて触れていないのがちょっと残念。
 やっぱり「方言」には負のイメージがまとわりつくんだろうか、と思っている。

 長々と書いたが、本のページ数で言うと 1/3 も行ってない。どっかで端折ることになろう。
 というわけで、つづく。
"Speak about Speech" のページに戻る
ホームページに戻る

第953夜「最新形『方言コスプレドラマ』の件 (前)」へ

shuno@sam.hi-ho.ne.jp