笠間書院から出ている『
ドラマと方言の新しい関係』に借りた文章、二発目。
岡室美奈子氏の「方言とアイデンティティー −ドラマ批評の立場から−」は、「あまちゃん (2013)」「八重の桜 (2013)」「カーネーション (2011)」の三人のヒロインを方言という観点からまとめている。
「八重の桜」の八重は、姓と暮らす場所を変えながら最後まで会津弁を使い続ける。つまり、八重のアイデンティティを会津弁が規定、表現している。
一方、「カーネーション」の糸子は、先週も書いたように、岸和田を出ない。同時に、洋服が彼女のライフワークであって、ミシンに出会ってからは迷ったりしない。「自分探し」をしないキャラである。この文書は (特に、
夏木マリ編について) 糸子そのもが「だんじり」である、と表現していて、大いに納得した。
八重と違うのは、糸子の人生は現代まで続いている点。つまり、方言が使われなくなる時代であり、その中で岸和田弁を貫く。周囲は変わるが本人の言葉は変わらない、ということが「八重の桜」とは別の形で表現されている。
「あまちゃん」のその逆である。彼女は、舞台となった北三陸市から見ればよそ者であり、彼女の東北弁は自分で意志をもって身に着けたものである。つまり、変わったのは彼女の方。だが、彼女は「潮騒のメモリーズ」の「訛ってる方」と呼ばれ、自分でもそう呼ぶ。
この文章で思ったのだが、ドラマというのは本来フィクションであり、さらに舞台の北三陸市もフィクション、「
じぇじぇじぇ」をはじめとする東北弁は彼女の母方言でないという意味でフィクション。ドラマでは、回想シーンにおいて 80 年あたりの実写映像が流されることがあったが、それが逆にフィクション性を感じさせる。あのドラマはフィクションであることを貫いたシリーズだったのだなぁ。
ここからシンポジウム。
NHK のプロデューサー、内藤慎介氏が、1980 年の大河ドラマ「獅子の時代」に触れている。菅原文太と
加藤剛のダブル主演のシリーズなのだが、菅原文太演ずる平沼銑次も会津の人間である。内藤氏によれば、こちらの方が方言はきつかったそうで、今ではかなりわかりにくいとか。
菅原文太が昨年、亡くなって、「獅子の時代」を再放送しないかなぁ、と思ってたのだが、結局やらなかったね。ひょっとしたら大河ドラマの再放送には権利関係で面倒くさいことがあるのかもしれないけど、なんのためにいくつもチャンネル持ってるんだろう、と思ったり。長丁場なのも問題かもしれないけど、総集編くらいならできそうなもんだ。
また内藤氏は、時代劇に方言が絡むとさらにややこしくなる、とも言っている。注目するべきは、「方言だと思って聞いてた人からすると、こういう言葉はありません、となる」という表現。
つまり、百年単位で昔の言葉を、現代の感覚で「間違っている」と言ってしまうことのまずさ、である。そういう発言も別にあるが、昔の話し言葉、特に庶民の言葉はほとんど記録に残っていない。だから、正しいかどうかを判定するのは難しいのだが、これはドラマなので、「らしく聞こえる」ことを念頭に表現を調整する、その結果である。つまり話がかみ合っていない、ということになる。
「カーネーション」で方言指導をやった
林英世氏の発言では、プロデューサーが「大阪放送局制作のドラマは関西で視聴率が取れないのをなんとかしたい」と言ったことが紹介されている。
なぜ、地元で視聴率が取れないか。大阪の人は全国向けに薄められた大阪弁が気に入らないからである。またかい。一遍、本当にリアルな大阪弁だけのドラマ作って、それが全国でどう受け止められるかを体験してみたらいいんじゃないか?
林氏は、いかにも岸和田な、「
にくそい」「
もんない」「
まくれる」などは使わなかったらしい。「
まくれる」は「ひっくりかえって落ちる。『橋からまくれる』」という解説があるが、ほかは不明。例示なので文脈の助けもないが、「
にくそい」は「憎たらしい」じゃないかなぁ、と思うけど、「
もんない」は不明。ググったが「買うもんない」みたいなのしかヒットしない。
脚本家とのやり取りで「ドラマの中での岸和田を作っていく」と表現しているが、これはぴったりの表現だと思う。
これに近いと思われるのが、重要な役の人達は芝居メイン、視聴者がわからないということのないように、もし俳優が別の表現の方が言いやすいのであればそれでもいいが、脇の人達はきっちり岸和田弁にする、という配分も膝を打つ。これも、「キャラ用法」と「地域用法」の違い、ということになろうか。
この項は、次回で終わる予定。
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