秋田魁新報に、「文系のチカラ」という連載がある。
聞き手は秋田県出身の探検家
橋大輔氏で、文字通り文系の人たち、
秋田大学教育文化学部の先生達に話を聞いて回っている。
12 月最初の二週は、日高水穂・石沢真貴両准教授。
ついでなので、前から気になっていた「准教授」という語について確認。
一昨年、学校教育法が改正されて、助教授がなくなって、准教授ってのが新設された、とのこと。
助教授は読んで字の如し、教授の補佐が仕事で、教授から依頼があれば自分の研究を後回しにしなければならなかった。准教授というのは職階の問題で、職務の上では同等なのだそうだ。
さて、このお二人の意見は興味深い。
前に「
秋田人変身プロジェクト」について取り上げたことがあるが、そこで触れられていた「
ひやみこぎ」「
えふりこぎ」について、果たしてそれは秋田の県民性なのだろうか、そこで秋田の県民性ということになってしまったのではないか、と言う。
なまはげ は怠け者を懲らしめる行事である。それがあるということは、秋田県民は「
ひやみこぎ」を嫌う、それではいかん、という考え方を持っている、ということなのではないか。現実に「
ひやみこぎ」はいる (だからそういう表現がある) にしても、それが果たして「県民性」なのかどうか、という話。
「
ひやみこぎ・
えふりこぎ・
かたぱりこぎの三こぎでダメになる」というような言葉はある。だが、そのことと「
ひやみこぎである」ということとは必ずしもイコールではない。そういうことではダメになるぞ、という意識の現われかもしれないのだ。高橋氏も、秋田県民だけが怠け者だとは思えない、と受けている。
勿論、これに対しても、「秋田県民が怠け者である」ということと「秋田県民だけが怠け者である」ということとは軸が異なる、という見方もあるのだが。
早い話、県民性と血液型ってそう変わらないかもしれないよ、ということなのではないか、と乱暴に要約してみる。
秋田県民は怠け者で見栄っ張りで意地っ張りである、と言うと大上段に構えたような感じだし、正面攻撃なので誰も耳を貸さない。だが、「
ひやみこぎ」と言うと苦笑で済む。そのプロジェクトのように参加する人も出てくる。
これはひょっとしたら、秋田弁が生活の言葉ではなくなった、ということなのだろうか。お世辞にも褒め言葉でない「
ひやみこぎ」呼ばわりされて腹が立たないのは、それが自分の体から遊離したものだからなのではないか。
「方言は暖かい」とか言うのは秋田に限らずどこでも耳にするが、いつかも書いたとおり、それは、暖かい表現、美しい表現だけを対象にしているからである。生活の言葉であるがゆえにマイナス面の表現も山ほどあることからは目をそらしている。方言をそういう風に扱い、「大事にしよう」「守ろう」と言いながら我々は方言を陳列棚の中に突っ込んでいるのかもしれない。
12 月分後半は、佐藤稔氏。
前に、ネコを「
チャペ」「
チャコ」というのはアイヌ語の影響ではなくその逆だ、ということを書いたが、その『秋田のことば (秋田県教育委員会編、
無明舎出版)』を監修したのがこの佐藤教授。このインタビューでもその説を紹介している。
「
いずい」など、標準語で表現するには言葉数が必要な形について、方言を使えないとこの部分が「目減り」していく、としている。
これがある個人について発生するのが、他地域、主に東京に行って口数が少なくなってしまう、という現象なのだろう。
記事はそれっきり方言からは離れてしまうのだが、敬語について触れている。
役職が上がっていく人たちがそれを実感できるのは敬語である。
大賛成。
いつかも書いたが、敬語が乱れている、とか言っているのは、敬語を使われる人たちばかりだ。ほいで、「さ入れ」を筆頭に、そういう人たちの敬語だってグチャグチャである。
実はこの記事、かなり批判的に読んでいたのだが、この文章を書くために読み返していたら、確かにその通りだよな、と思うようになってきた。
特に「三こぎでダメになる」は全く反対の解釈ができるんだ、というのに気づいたのは大きい。
侮れないぞ、魁。
「ネイティブ」を「ネーティブ」と書いたり、それに「秋田弁スピーカー」と注釈を入れたり、肝心の日本語表記はちょっと危なっかしいのだが。