Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第601夜

中学生 II



 地元新聞への中学生の投書だが、第二弾が載った。
 そもそも、その新聞の投書欄には十代の子供達の意見を載せるスペースがある。やっぱり、そういう授業があって、その一環でまとめて投稿したんじやないか、って気ががする。

 その前に、以前の投書について追加。
 方言が衰退したのはテレビのせいだ、と断言している。テレビのシャワー効果については専門家も認めるところなので否定はしないし、中学生達の意見が断定なのもまぁ微笑ましいと言えなくもないが、それは材料に過ぎない、ということは指摘しておく。
 テレビで標準語を耳にするということが、すなわち、方言衰退の原因なのではない。原因というのは、人々の言葉遣いが方言から標準語にシフトしたのはなぜか、という問いに対する答のことを指す。家に帰ったら食卓の上にジュースの缶がのっていたとして、常にそれを飲むわけではあるまい? 暑い、喉が渇いた、などの事情がなければ手には取らないはずだ。それが「原因」である。
 で、そこは千差万別、人によって違うので、一方的に指弾しないほうがいい、ということは前にも書いた。

 テレビからのシャワーの方だが。
 この世界、かなり「表現」に対する規制が厳しくなっている。
 突然だが、ウルトラセブンのアイスラッガー。頭頂部のクレストをブーメランのように飛ばすあの武器で、その間はハゲになってしまうという印象と相まってセブンのシンボルでもあるが、最近は活躍の場がない。
 なぜなら、一刀両断というのが「残酷」だから、である。同じように、ウルトラマンの八つ裂き光輪やウルトラマンAのバーチカルギロチンなども出て来なくなった。
 最近のウルトラマンは怪獣を倒したときの爆発カットがやたら派手だが、それはひょっとしたら四散する怪獣の死体を見せないようにする工夫の結果ではないか、と思っている。
 というわけで、テレビで方言に対して否定的なことが言われる事はほとんどない。だからって正確な描写になっていることが保証されるわけではないが、数年前には方言ブームとやらもあったことだし、別に、テレビ放送が標準語一辺倒のシャワーを吹き出しているわけではない。
 が、これって同じことなのかもしれない。
 全国放送である以上、標準語べ−スであることに変わりはない。つまり、標準語に乗り換えようと思ったときの練習用サンプルは耳に入ってくる。
 そして、テレビにのっている方言は、位置づけとしてそれと大して変わらないのじゃないだろうか。大半がよその地域の言葉であることから、「方言ブーム」的な言葉遊びとしての使い方にとどまるだろうし、関東近辺の方言を使っていると思ったら出所は SMAP だったりして、東京がかっこよく見えるから標準語を使う、というのと同じ構図。
 原因ではないにしろ、テレビの影響の大きさは否定できないわけ。

 ネイガーのことにも触れたが、それで初めて耳にした秋田弁があるという。
 具体的にどの表現のことかは不明だが、ホジナシ怪人たちの名前は、結構、古い単語を引っ張ってきている。テレビ放送をしたときの登場人物たちの言葉遣いはさほどでもない。まあ、俺みたいなオジサンが思うのと、中学生が思うのとは違うだろうが。
 で、「ネイガーで初めて聞いた秋田弁」がある、というのは、彼らの周囲の人々田弁を使ってない、ってことだろう。
「秋田弁の衰退」が彼らの周りで起こっている、というのは事実なわけだ。
 となると、テレビにのる地元方言には、その断絶を埋める役割も期待できる、とことになる。
 やっぱりテレビ頼みなのか、方言も。

 方言を残したい、という発言は、概ね、語彙に偏っている。前に取り上げた謝罪表現なんてのもそうだが、それが好ましく感じられ、残したい、と思われるのは、それが「謝罪表現」だからである。
 その反対の、「なにやってらってが、このほじなしが!」のような罵倒表呪はどうだろう。抹殺するべきものだろうか。
 正面から聞いたら、「いや、それはそれで残しておくべき」って話になると思うが、昨今は、「言葉狩り」のようなものに対する警戒心が非常に弱くなっているように感じられる。あっさり、「それはいらない」ってことになるかもしれないな。
 方言現象はほかにいくらでもある。
 文法なんかはかなり興味深いと思うし、音韻もそう。
 そうだ、例えば、無アクセント、一型アクセントはどうだろう。是非、残しておきたい現象だろうか。*1
 この問いに対する「はい」は、謝罪表現に対する問いの場合よりも減ると思われる。 つまり、残したいのは、方言そのものではないのではないか、と考えられる。前にも書いたような気がするが。

 これを突き詰めていくと、好き嫌いの話になるんだと思う。
 なぜ残したいか、ということに、理屈はない。自分のもの、自分が好きなものだからだ。
 しかし彼ら中学生は早晩、方言を使いたくてもそれが許されない状況、非常にやりにくい状況に出くわすことになる。好きなのに距離を置かざるを得ない。
 それが「方言コンプレックス」という奴だ。
 俺の卒論をここで公開するって話、第 2 回で止まって、早 8 年…。




*1
 改めて解説すると、アクセントが一定しておらず発話のたびに変わるのが「無アクセント」、語や状況を問わず常に一定の形になっているのが「一型アクセント」。どちらも、意味の弁別にアクセントは寄与しない。
 が、これは言語の変化の方向としては先を行っている。言語(に限らず人間のやること)は単純な方向に進むのが原則だから、アクセントは長いスパンで見るとなくなる方向に進化する。つまり、アクセントが残っている方言・言語よりも未来的なわけ。「残したいか」という問いは、実は卑怯。
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