先日、新聞の投書欄に、中学生の「方言を大事にしよう」という投書が二つ載っていた。
あんまり細かく紹介するのもアレなので割愛するが、率直に言って、方言であるというだけで全面肯定の、どこかで聞いたことをつないだだけの文章だった。間違っているとは言わないけど、一面的である。
方言は各地の固有の文化であって、誇っていいものである。
それはそうかもしれないが、だからと言って、方言を使わない人を責める理由にはならない。
前に触れた“Endangered Language”、「危機に瀕した言語」の重要ポイントの一つは、「その言語を捨てることを暴力などで強制されたわけではない」ということである。
勿論、そういう現実もあるが、問題にするべきなのは、話者が自発的に捨てる、もしくは、話さなくなる、という現象の方である。
何でそういうことが起こるかと言うと、そのほうが都合がいいからだ。大言語に囲まれた少数言語なんてのはその典型で、その大言語を身につけたほうが経済的にも社会的にも圧倒的に有利だ。少数言語しか話せない人はかなり不自由な思いをすることになる。
これを方言に当てはめると、問題になるのは、東京に行ったから地元の方言を話さなくなる、の方ではなく、地元で暮らしているのに方言を使わなくなる、の方であることがわかる。つまり、方言を使って当然の環境にあっても、標準語を使っていた方が有利だ、ということだ。そういう人がいたら申し訳ないが、秋田弁しか話せない聞き取れない、という場合、よっぽどのことがないかぎり商売に差し支えるはずである。
つまり、「方言の衰退」には言語外現象を考慮に入れなければならない。方言を話さなくなった、と言って責め立てるのはちょっと待て、ということだ。
本気でそうしたいのなら、秋田弁だけで生活が成り立つ、豊かな社会を構築する必要がある。
極端な話、鎖国しかない。
社会的現実が、捨てた方がいい、という状態になっているのに、方言を話さない人を指弾するのは、弱者イジメである。
秋田弁はやさしい、という表現もあった。
謝罪表現を取り上げて、標準語ではなく方言でそういう風に言われると不愉快にならない、と書いている。
この辺が観念的である。
それが本当なら、方言主流社会ではけんかは起こらない、ということになるのだが、現実はそうではない。むしろ、口汚いけんかになったときほど方言色は濃くなるはずだ。
その文章は、「丁寧な謝罪表現」という一部を取り上げているのに、それを方言全体に当てはめてしまっている。しかも、比較の対象が、「標準語における丁寧な謝罪方言」ではなく、「不躾な表現形態」。方言愛好家によく見られる論理構成である。
突然、二つも投書が並んだのは、あるいは、学校でそういう授業が行われた、ということなのかもしれない。
だが、こういう、教科書丸写し的な文章を書かせておしまい、というのであれば、それほど意味のあることだとは思えない。方言に目を向けさせるのが目的なのであれば、超神ネイガーのビデオでも黙って見せておけば良い。
そういや、こないだ NHK の「
熱中夜話」で見たのだが、ウルトラマンのビデオを国語の授業で見せる先生がいるらしい。なんじゃそりゃ、とちょっと斜めに見ていたのだが、番組で紹介されたときは、なんと「故郷は地球」を見せて、「勝ったのは誰か」という質問をしていた。きびしいなぁ。大人でも答えられねぇぜ、そんなもの。
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「中二病」という言葉があるが、ちょっと自分の世界が広がったところで、社会に触れたような気になってしまうのはやむをえないことなのかもしれない。今回の文章にはどうもそういう感じがある。
「現実」というとどうもドライな感じがしてしまうが、実際のところはどうなのか、ということを二つの投書の筆者は経験していないような気がする。都会に行ったら方言を使うのが恥ずかしい、というのは、多数と少数というだけで、少数の方にマイナスの役が割り当てられてしまう、という「現実」によるもの、という側面がある。
それこそ小学校あたりで、タイミングがそうだったり示し合わせたりで、教室の中に女子生徒ばっかり、男が一人、という状態にして「女の中に男が一人」と言って囃すことがあるが、あれと一緒。方言を下位におくとかいう話を持ち出すまでもない。そこで、「男が一人だからなんだ」と胸を張っていられる人はそうそういないはずである。
今にして思えば、小学校から中学校、高校と、確かに自分が見聞きする世界は広がっていくが、それはとてもとても「社会」と呼べるようなものではなかった。少なくとも、大学生くらいになって、学校以外の「社会」が占める割合が高くなってからでないと、話のスタートにすらならない、という気がする。
投書した人、いたかどうか知らないけど、書いたけど採用されなかった人。その年になってからもう一遍、考え直してみて欲しい。