Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第475夜

『日本語学』から (後)



日本語学』のふんどしを借りた文章、つづき。
 2006/1 の「若者の『方言』」。

 久野眞氏の「現代の『若者』が使う方言」。
「若者」に鍵括弧がついていることでもわかる通り、まず、こうした言葉の定義づけから始まる。
「現代」について、たとえば 20 年前を、「30 才の人からすれば携帯電話もインターネットもない時代を現代と呼ぶのに抵抗があるかもしれない」としているが、この指摘はうなずける。に書いた、1972 年のパンダ ブームを紹介する映像の BGM として 1977 年のヒット曲である「マイピュアレディ」を使うことについて俺が抱いた違和感のことである。
 先週、英語に大きな変化が起こった時期を「ごく最近」と書いたが、これは歴史的に見たときの話だから数百年のスパンである。日常生活で言う、昨日や先月のことではない。
「最近の若者は」ということを言い出す人がいたら、そこは注意するべきだろう。その人が 70 代なら、隣で、わが意を得たりという顔で頷いている 50 代も含まれているかもしれない。
 この節にあったのだが、「ワンギリ」というのはポケットベルの時代に生まれた表現らしい。びっくりした。

 三宅和子氏の「携帯メールに現れる方言」。
「若者の『方言』」という特集タイトルで連想されるのはコレだろう。いわゆる「方言ブーム」の「方言」である。
 結論は最初の方に述べられている。「アクセサリー」である。
 冷静に考えればわかることだ。「愛郷心」や「地域志向」ではありえない。この辺、方言ブームではしゃいでいる人は気をつけて欲しい。
 メールには、方言と相性のいい面がある。それは、メールというメディアが、あちこちで言われているように、文字だけのメディアだ、ということに理由がある。
 文字だけなので、イントネーションやアクセントが問題にならない。つまり、それを習得する必要がない。
 また、表現形態の制限による貧弱さ、無味乾燥を補うために、文字絵 (ここでは“(^o^)”のつもりで書いているが、携帯のメールに限れば本当の絵も使える) や、文字と記号との置き換え (ギリシャ文字の‘ι (イオタ)’を平仮名の「し」の代わりに使ったりするあれ) が使われてきたわけだが、方言はその一つとしても利用できる。
 さらに、後に触れるが、方言の使用はフィルタリングの効果をもっている。わからない人には通じない、つまり、わかる人とのコミュニケーション手段なのである。
 勿論、この裏側には、「方言コンプレックス」あるいは方言に関する劣等感がなくなった、もしくは、弱くなった、という事実はある。
 だが、それと同時に、方言の土着性も弱くなった、ということであろう。三宅氏が指摘するように、「方言話者はその方言使用地域で方言を使う」という前提が成立しなくなっているのだ。

 陣内正敬氏の「方言の年齢差」。
 規範と「ドリフト」「アイデンティティ」の関係が図示されている。
「ドリフト」は、「最小努力の最大効果」に代表されるように、人間の営みは必然的に変化していくものだ、という考えで、「アイデンティティ」は、前にもちょっと触れたが、自己表現の手段としての変化である。前者が無意識的なものであるのに対して、後者は意識的、意図的である。
 で、ちょっと前までは規範の力がものすごく強かったので、この二つは抑えつけられてきたのだが、今はそうではない。つまり、世代差が出やすい状況になっている、ということである。
 ここでは、「アクセサリー」という表現に添えて、山根一眞の『変体少女文字の研究』が取り上げられている。あの丸文字は (筆記具と書き方による必然に加えて)、かわいらしく「見せる」という目的があった。「方言ブーム」もそれと同じ線上にある、という。

 沢木幹栄氏の「方言使用の近未来的課題」。
 まとめの文章である。
 山一つ越えたら、川を渡ったら、という違いは消滅せざるを得ない。
 だが、これだけ便利になっても、人の行き来はまださまざまな制限を受ける。新幹線は青森から鹿児島まで (リレー列車を経由するにしても) つながったが、11 時間、4 万円もの運賃・料金がかかる。飛行機を使えば 6 時間くらいにはなるが、額は 6 万に跳ね上がる。こういう状況では、青森と鹿児島が一体になる、ということは考えにくい。方言の完全な消滅もありえない。
「大方言圏の登場」という節では、将来的に 3 つないし 5 つの方言圏ができるのではないか、と書かれている。東日本、近畿、九州・沖縄、これに中京圏、という名前が挙げられているのだが、九州・沖縄が一つの区域をなすのに、東北や北海道は東日本とくくられてしまう。これは、東北地方が、東京に近すぎ、行き来が便利すぎるからである。
 だから、東北弁を今のままで残したかったら、空港と新幹線と高速道路を撤去すればよい。二桁までの国道と電話回線も分断して、電波干渉装置でも設置してテレビ・ラジオを視聴できなくすれば完璧だ。

 で、後でふれる、と言った話。
 アイデンティティ。
 方言メールのユーザーたちは一生懸命に方言現象を調べているらしい。自分が生まれ育ったのとは違う地域のことを知る、というのは、それだけで十分に価値のあることだ、寧ろ、ろくに実情を知りもせずに「乱れている」などと言う大人の方が、彼女たちの好奇心から学ぶべきだろう。
 これはここで紹介した文章の多くに登場する指摘だが、「若者」は言葉をきちんと使い分けている。いくら携帯メールがビジネス現場で使われるようになったとしても、若い会社員が取引先に「それってぶちやばいかも」「今日中に見積もり提出しる!」なんて書いたりしない (例外はいるだろうが、そんな例外だったらいい大人にだっていくらもいる)。正しい日本語教徒のみなさんは、自分に向けられたのでない言葉に噛み付いている、という事実に気づいて欲しい。
 そういう風に世代間戦争を仕掛けている内は、「若者」たちだって、「非若者」とは違う言葉を使おうとするに決まっている。
 言葉の否定は、アイデンティティに否定になりかねない、ということを強調しておく。

 こういうことを言うと方言の研究そのものを否定することになりかねないのだが、ことばってのはアナログなものなので、それをカチっとしたものにおしこめたり定規で計ったりしようとするのがそもそも間違いなんじゃないか、って気がますますしてくる年明けである。




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