Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第445夜

ドンパ



 かなりに「県立戦隊アオモレンジャー」のことを取り上げた。「秘密戦隊」パロディのラジオ ドラマである。名前から想像がつくように青森が舞台。
 今、ブレイクしているのが、「雅楽戦隊ホワイトストーンズ」。こっちはテレビ ドラマで、DVD も出ているが、秋田では今、日曜深夜に放送している。
 名前だけではどこの話だかわからないと思うが、「ホワイトストーンズ」は直訳で、舞台は札幌市白石区。アオモレンジャーが青森県全体なのに対して、ホワイトストーンズは白石区のみ。
 まだ始まったばっかりなのでどういう展開になるのかは不明。手元の雑誌のどっかに書いてあったはずだが、ひっくり返すのが面倒なのでやってない。
 こういうことを言うのはアレだが、大泉 洋との出会いは、STARDUST REVUE の「本日のスープ」におけるコラボレーションだったので、ああいう雰囲気の人だと知ってかなりビックリしている。

 放送に先立ってメーキングが紹介されていた。
 パロディゆえどぎついメークをしているのだが、そのため年齢不詳の顔つきとなる。こいつら同じ年だよな?!という突っ込みも入る。そこで使われたのが「ドンパ」。
 さっそくググってみる。
 道央近辺で使われている表現のようだ。数は少ない。昔からある表現ではないらしい。
「同輩」が語源、という説あり。
 同年齢だ、というだけでは、「ドンパ」とは言わない、という意見もある。もうちょっと深いらしい。

 全国的には「タメ」が使われている。
 こないだ読んだ『ありえない日本語』でも取り上げられていた。割と新しい表現である。
 ウェブでは、博打用語の「同目」が語源だ、という説が支配的に見えるんだが、「ど」から「た」への変化にはちょっと無理を感じる。昔、『言語』で論争になった。
 同年齢であることから、対等の立場であるかのような話の仕方を「タメ口 (ためぐち)」という。逆に、目下のものに対するぞんざいな口調が「タメ口」で、そっちが先、という説明もあった。
「友」を分解したもの、という説もあって、これはこれで面白いが、後付けだろう。人間の煩悩が 108 なのは、生きるときに四苦八苦するからだ、という類の説明と一緒で、どちらかといえば笑い話。*1
タメ」の応用例は非常に多岐にわたる。匹敵する、同じポジション (主にトップ) を争う、というのを「タメをはる」と言う。この近くには「タイマンをはる (一対一の勝負をする)」という表現もあって、関連ないのかしらん。

ドンパ」のイメージはよくわからないが、「タメ」にはどことなくヤバイ感じがある。改まった場で使えないのは勿論、たとえ砕けた場面であっても、なごやかな空気でないと使いにくい、って感じはないだろうか。博打用語が元、という説明に説得力があるのはそのせいだろう。*2
 これは俺が個人的に持っている感覚だが、同じであることを確認するというのは、同じでない人との間に線を引く、ということでもある。仲間意識を持つ、というのは、実は排他的な行為なのだ。その辺に、「タメ」が冷たい感じを持ってしまう理由があるような気がする。

 さて、ここまでは何の説明も無しに、「同年齢」と書いてきたが、実はこれは不正確である。「タメ」「ドンパ」は、どちらかと言えば「同学年」という意味のほうが強い。
 早生まれ・遅生まれがあるので、学年は同じだが年齢が違う、ということはある。この語は、その部分を吸収した言葉である。
 勿論、厳密にはやはり「年が同じ」ということなので、浪人した人の場合、「タメ」ではない、ということにはなる。しかし、この語が使われるシチュエーションでは、「ウルトラマンタロウが放送されたのは俺が三年生のときだ」「俺達の代から受験制度が変わった」「あの学校が新設されたのは私たちが卒業した次の年だ」というように、一年で明確に区切った時期が話題になっていることが多い。
 年齢を、誕生日を手がかりとして区切るんだとすると、自分と「同年齢」の人ってほとんどいないことになる。そういう意味では、「タメ」「ドンパ」は実生活に即した、便利な、というよりは、適切な表現である、と言えるかもしれない。

 この年齢になると、一年違ったからどうだ、という気もしないことはない。
 だが、先日、あるテレビを見てて思った。人は時間軸の目盛を自分の体験で刻むのだ。
 それは、歌は世につれ…をそのまま映像化したもので、その時々のフィルム映像に流行った歌をかぶせる、という体裁であった。50〜60 年代はふーんと思いながら見ていたが、70 年代になったところで、おいちょっと待て、と思った。大阪万博やパンダ ブームなどの映像で、尾崎亜美の「マイピュアレディ」が流れたのである。
 俺にとっては、この二つの間にはものすごい間隔がある。だが、具体的に数字にしてみると、大阪万博が 70 年、パンダが 1972 年、「マイピュアレディ」は 1977 年。5 年しか違わない。
 70 年代に十代もしくは二十代だった人は賛成してくれると思う。それより後の世代は体験していないから別として、前の世代はパンダ ブームとインベーダー ブームが近い、ということに違和感を持たないはずだ。
 社会人の場合、例えばサラリーマンなら、異動や昇進もあるかもしれないが、ドラスティックな変化はそうそうない (最近はそうでもないのかもしれない)。はっと気が付けば 5 年くらい経ってたりする。だが、未成年者にとっては、5 年というのは自分の人生の、最小でも 1/4 に匹敵する期間で、場合によってはその間に 2 度卒業、3 種類の学校生活を経験している。
 であるとすれば、自分と他者が同学年であるかどうか、というのはものすごく重要なことである、ということも理解できる。「タメ」「ドンパ」が生まれて浸透するのには、そういう事情があるのだと思われる。

 年齢については、差を表現する単位が「コ」になっている (「1 コ上」、「2 コ下」)、というのも時折、話題になる。
 で取り上げた『日本語の底力』で、中央大学の飯田朝子助教授がこれについて触れている (「『年齢が一個上』の表現が広まったのはなぜか?」)。明確に具体性をもたせるために使っているのだという指摘には納得する。
 この「コ」が 2〜3 年程度の差で使われることが多いのも、それで説明できるような気がする (「9 コ上」はちょっと辛い)。

 というようなことを考えれば、大人が「タメ」をあまり使わないのは、単に、新しい表現だから、というだけではないのではないかという気がするのだが、どうだろう。




*1
「四苦八苦」を 4989 と見て、4×9+8×9 とする。(
)

*2
「ヤバイ」もヤクザの言葉である。()






 秋田にもヒーローがいた。
 その名も「超神ネイガー」。(050626 加筆)



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