Speak about Speech/Sentiment Subjects: Shuno the Fault-finder
『日本語の力』
文藝春秋の特別版。3 月の臨時増刊号。やっと読みきった。
サブタイトルは「生かそう日本語の底力」。
きっと、「正しい日本語」教の本なんだろうなぁ、と思ったが、まぁ概ねその通りであった。
そういう胡散臭いのはさておき。
面白かったのは、仁田義雄 大阪外大教授の「『叩く』と『割る』のちがい」。
動詞には、動作を表現していないものがある、というのである。
タイトルに挙げられている「割る」がそう。よーく考えてみると、「割る」という動詞が指す内容はものすごく漠然としている。花瓶であれば、床に叩きつけても、石を投げつけても、花瓶が載っている戸棚を揺らしても、「花瓶を割った」ことになるのだ。
こういう特徴が、「歩きながら帰る」とは言えても「帰りながら歩く」とは言えない、という現象を生む。
読み物としては、絵本作家の五味太郎氏の「ある意味…」が楽しい。我々が良く使う、「ある意味では、○○だよね」という、いい加減な表現を取り上げたものである。
都家歌六氏は、落語レコード収集研究家という肩書きがあるのだが、明治時代の落語の話を取り上げている。橘家円喬の「菖蒲売の噺」が採録されていて、「前栽物みたような籠」と、今の「みたいな」の原型が使われていることがわかる。
国広哲弥 東大名誉教授の「誤用と慣用」は、前半、「正しい日本語」の話か? と思わせるが、ウナギ文に関するさまざまな試みについて、「表現は論理的に整っていなければならないという先入見からくる辻褄合せ」とあって、そうでないことがわかる。「ぼくはウナギだ」は完全な文だ、と言う。
「正しい日本語」教については、あぁこの人たちはやっぱり頂上から見下ろしているな、という思いを強くした。
つまり、現在の若者の日本語を、乱れている、と糾弾はするが、自分たちの日本語が、自分たちよりも前の世代からどう見られていたか、ということに意識が行っていない。自分の日本語は正しいのだ、ということが、改めて言及する必要のない前提となっている。
笑ったのは、消えていくのが惜しい、文化の喪失である、と言って並べられている表現の中に「カタカナ語」があったこと。戦前、お金のことを「アルジャン」と言っていたことがあるらしいのだが、こういうカタカナはいいらしい。
その人のために付記しておくと、その人は、カタカナ語がけしからん、とは書いてない。ただ、その内容からは、その人がカタカナ語を認めているとは到底、思われない。
雑学。このフランス語の“argent”は「お金」という意味ではあるが、原義は「銀」である。銀の元素記号が“Ag”であることを思い出すとよい。
さらに言えば、「アルゼンチン」というのは、ラテン語で「銀の国」である。
しかしまぁ、「正しい日本語」教典というわけではないので、読んでみるとよい。
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