Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第449夜

田毎の円盤



 秋田は空梅雨気味である (今日は降っているが)。
 6 月の下旬に、曇りはするがほとんど降らずに 2 週間が過ぎ、農家に警告が出ていた。
 そうかと思うと、別の場所では集中豪雨になったりして大騒ぎだ。
 自転車者の俺としては非常にありがたいのだが、あんまり降らないのも困りものである。身近なところでは、その 2 週間、一度も車のエンジンをかけなかったので、久しぶりに動かしてみたら、なんだかぎこちなかった。
 また異常気象とか言って騒いでる人がいるけど、日本国中が平年だった、ってことは今までに一度でもあったんだろうか。どっかの天気が「異常」になることがあるからこそ、「平年」って尺度が使われるんだと思うのだが。問題は、都市型洪水に代表される人災の方だろう。

「雨」と方言についてはも取り上げてきた。
「梅雨」も、東京では本来「入梅」だった、とかいうのは有名だろうし、各地で「長雨」系の表現が使われている、ということもちょっと本を開けばわかる。
 逆に、降らないことについてはどうだろう、と思ってちょっと調べてみた。
 流石に――という言い方は、地元の人は気を悪くするかもしれないが、香川と沖縄が数多くヒットする。方言云々ではなく、水不足になりやすい地域である。
『秋田のことば (秋田県教育委員会編、無明舎出版)』をめくってみたが、秋田には、渇水関連の表現も、雨乞い関連の表現も見当たらなかった。尤も、この本は網羅性があんまり高くないので、有無に関してはあまり宛てにならない。農業地域の秋田にそういう表現が全く無いとは到底、思えないし。漢字で書けちゃったり、音が「訛って」なかったりして、俚言っぽくないということもある。
 例えば、雨乞いは祭りに変化していることがある。タイに、手作りのロケットを打ち上げる祭りがあるが、これももともとは雨乞いの儀式である。そうなると、「竿灯」って単語は俚言か? というのと同じ話になる。

 水不足は、四国や島嶼部やの専売特許ではない。大都市にも起きる。
 世界でも有数の大都会だった江戸でも、急激な人口増加による水不足に悩まされた。そこで、多摩川の水をはるばる引っ張ってくることが計画されたのだが、途中に、浸透度の高い地層があり、水を流すことができない。その土は「水喰土 (みずくらいど)」と呼ばれ、結局、ルートの変更を余儀なくされた。玉川上水である。
 今は、水喰土公園というのがあるそうだ。普通名詞が地名に変化したことになる。これも、方言とは言いづらいだろう。

 都市は川が海に流れ込む場所にできることが多いが、名古屋も例外ではない。だが、なにもしないでいると、その中心都市が水害に見舞われる。そのため尾張藩は、庄内川を挟んで対岸である、小田井 (おたい) という地域を「遊水池」がわりに使った。万が一の場合は、その地域を守る堤防を破壊、そこで大量の水を引き受けさせて名古屋を守ろうというのである。
 だが、そこに住む人にとってはたまったものではない。堤防を破壊せよ、という命令が来ても、作業しているふりでしばらくは様子を見て、水が引くのを待った。
 その結果、言われたことにすぐ着手しないこと、あるいはなまけることを「小田井仕事」、そういう人を「小田井人足」と呼ぶようになってしまった。
 辛い話である。

 香川では、「水ブニ (地域ごとの水の割当量)」「地主水 (地主の裁量で割り振る水)」という水の利用に関する特異な用語がある。(→香川県の水の風俗)

 大規模な水路の変更はどこでも行われていると思うが、秋田も例外ではない。
 県南西部から秋田市に流れてくる雄物川の下流は、長らく氾濫原であった。「あきた」という名前にしてからが、よくない土壌という意味の「悪田」から来たものだ、という説もある。
 そこで大正時代に、バイパスを作ることが計画された。
 秋田市の地図を見てもらうとわかるが、秋田市西部は二つの川に挟まれ、島のように見える。南側の、東西に走っている太い方がバイパスで、正しくは「雄物川放水路」と呼ばれる。
 そこで出た土が周囲の埋め立てに使われた。秋田大橋がかかっている辺りを「茨島 (ばらじま)」と呼ぶが、「島」の字が使われているのは、そこが低湿地だったことと関係があるんじゃないだろうか。

 なんだか地名談義になってしまっているが、どうも、「雨が降らない」ということに関わる俚言が見つからない。探し方が悪いのかもしれないが。
 それにしても、「雨が降らない」周辺がカタい表現ばかりなのはなぜだろう。「旱魃」「少雨」「渇水」…。「日照り」くらいかなぁ。
「日照り」といえば、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」について論争があることを知った。「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」という一節があるのだが、ここが、宮沢賢治の手帳では「ヒドリ」になっていた。さて、本当はどっちなのか、「ヒドリ」だとしたら、それはどういう意味なのか、という論争である。なかなか喧喧囂囂なので興味のある方は調べてみていただきたい。

 棚田は、日本国内は勿論、世界でも注目を浴びているのだそうだ。あれによって、相当の水量が蓄えられているらしい。
 で、それを維持するために、「日本の原風景」とか「田毎の月」とか言って情緒に訴えるのではなくて、ああしないとこの島国はやってけないんだよ、死んじゃうよ、ということをダイレクトに言っていかないとダメなんじゃないか、って気がするんだけど。
 先進国だから常任理事国に入って当然、とか思ってるうちはお先真っ暗。水の確保もままならないとこなんだって認識するのが先だろう。




"Speak about Speech" のページに戻る
ホームページに戻る

第450夜「腐る部屋」へ

shuno@sam.hi-ho.ne.jp