Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第390夜

展翅板



 多くの検索エンジンは、単なる検索エンジンではなく、「ポータル サイト」としての性質も持っている。「ポータル」って語もだいぶ、手垢がついてしまったが。
 で、トップページにニュースが並んでいることが多い。そこに入っていくと、過去のニュースを検索することができる。ふと思いついて、ここに「方言」を入れてみた。

 goo でヒットしたのは、今年の 4 月下旬、長崎の高速道路で、「出れません」という案内を「出られません」に書き直した、というもの。配信は共同通信。
 日本語としておかしい、という指摘があったんだそうだが、それについてはもう何も言わない。確かに、長崎方言ではそういう言い方はしないそうだし。「おかしい」のか「間違っている」のかはともかく、まだ新しい表現で、公の場で広く許されるようになってない、というのは事実だし。
 だからと言って、長崎の掲示物がすべて「ら抜き」をやめた、ということでもあるまい?

 それで思い出したが、高速道路の看板や、車のナンバープレートの漢字は、実用上の制限があるので、かなりのデフォルメがなされている。
 ナンバープレートで言えば、たとえば「愛媛」はかなり簡略化されていた。これは、ナンバープレートの文字は浮き出しているため、あんまり複雑だと水がたまって錆びやすくなるから、なんだそうだ。
 高速道路の方は、当然、高速走行している状態でもすばやく読みとれなければならない、という事情である。複雑な字を読みやすくしなければならないのはわかる。
 だが、こないだ「度」が「土」を並べた形になっているのを見つけた。
     
 これはどういうわけだ?
 高速に限らず、看板には嘘字がたくさんあるようだ。みなさんも色々と目にしていることであろう。

 Yahoo では、結構な数がヒットするが、やはり、方言を守ろう、方言を後世に伝えよう、という動きが目立つ。
 にも書いたが、それは思いつきだった。やっぱりなぁ、という思いが強くなってきたので再度書くが、そう思うんなら使え
 廃物廃語ならともかく、感情や天候、モノに支配されない日常の生活に関わるものであれば、使うことが不可能、ということはあるまい。
 中には、方言を使うと孫と話が通じないから、という理由を挙げる人もいるのだが (正直言って、この考えには情けないものを感じる)、そんなもの説明すればいいのである。
 尤も、子供が相手であるから、それでは済まないだろう、とは想像できる。ここには、親の教育が欠かせないと思う。
 まずは自分とは違うものに対する拒絶の姿勢を育てないようにすることは重要であろうし、子供は親の言葉遣いに決定的な影響を受ける。親が、方言を「悪い言葉」「汚い言葉」と位置付ける限り、子供が方言に愛着を抱くことは無い。
 話を戻す。自分は使わないが、方言は残したい、というのは自己矛盾である。

 ただ、もし仮に、実際に使われるようになればなったで、何せ人間のやることなわけで、方言は変化する。
 そうなればまた、方言愛好家は「乱れている」という声を上げるのであろうか。
 そういう人たちにとってはやはり、本なり CD なりにして、一定の形のままでピンで止めてしまうのが一番、合っているのかもしれない。

 俺は別に、そういう形で記録することを否定はしない。現実に消えつつあるものは、なんらかの形で残すべきだからである。
 だが、多くの人々は、それを作ることで止まっていないか。
 この形容は前にも使ったが、「博物館入り」って、決していいイメージではないはずだ。
 言葉は生きていなければならない。

 こういう推測はどうだろう。
 文体が高い場合は、丁寧な表現をする。その際、一つの体系として、地域共通語もしくは全国共通語、いわゆる「標準語」を採用する。この当否と、回避が可能かどうか、ということはひとまず置く。
 我々の日常生活は、ひょっとして以前より文体が高くなってはいないか。
 もっと意地悪く突っ込んでみるなら、方言だけでコミュニケーションを成立させることができるほどには、話す相手を信頼していない、というのが現在の状況なのではないか。
 前の「泥棒の土壌」は、そういう考えの萌芽である。かなり舌足らずだが。

 まぁ、「保護しなきゃ」って声があがったときにはすでに遅い、というやつの一例なのかもしれない。
 しかしながら、多くの人が言うのは、「俺が使っていた形のままで残したい」ということなんでしょ? ということは、しつこいようだが繰り返しておく。




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