Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第345夜

御訛り (補足)



 前の文章を書き上げたところで、秋田魁新報に岡部 千鶴子氏の文章を見つけた。大変な誉めようである。
 ドロンのような声、とある。
 確かにそうかもしれない。低音が響く、というのではなく、心地よい中音域の声質。
 ここでも、フランス語のよう、と秋田出身で仏文科卒の氏はのたまっている。

 伊藤 秀志氏の「通り過ぎる時間」を買ったとき、歌詞カードなしではわからないところがかなりあった。この傾向は、「御訛り」でも同じである。
 俺は、氏のオリジナル曲を別にすると、どの歌も、標準語の歌詞は知っている。だから、なんと言っているかはほぼ予想がつく。まぁ、秋田弁の言い回しはいくらもあるので必ずしも当たりはしないのだが、ごく一部を除けばわかるはずなのだ。
 それでも、「ながら」だとかなり辛い。その結果、歌詞カードを読んで初めて「え、こんな歌詞だったんだ」ということになる。
 確かに、前にも書いた通り、ウケ狙いも含め、無茶な表現は少なくないのだ。それは大きい。

 ここでハタと気づく。
 このアルバムの支持者たちは、これがフランス語のようだ、ということを支持しているのではないか。
 歌詞を追求しないで耳だけで処理しているのではないか。
 言い方を変える。秋田弁だと思って聞いてないでしょ。

 歌い方を検証してみる。
『夢の中へ』の「行ってみっでど思ったごとねぇすべが」あたりが顕著だ。井上 陽水氏の歌い方を模しているのかもしれないが、外国語に聞こえるように歌っているのではないか、という気がする。に、「大きなのっぽの古時計」の間奏部分で入っている語りの「田さ落ちればジャポン」というのを紹介したが、同じ線上にあるのではないかという気がしてきた。
 しつこいようだが、かつて言語』誌で宮古方言の歌について、
 沖縄島の人は歌詞の意味がまるで理解できないので、外国語の歌のようにことばのリズムとメロディーを楽しんでいる。
 とあった。やっぱりこれなんだろう、と思う。

 繰り返すが、氏の作品を貶めようという気はない。
 好きで買って何度も聞いてこの文章を書いている。

 例えば、『夢の中へ』には三味線がフィーチャされているし、『東京 (マイペース)』は、原曲ではフルートがやっている旋律を尺八でやっている。
 遊んでいるのだ、このアルバムは。
 これはつまり、遠まわしに、「それで癒されるのはどうか」と言っているのだが。

 それゆえ氏にはそういうつもりはないと思うのだが、秋田弁の歌を、他の言語に似ている、と言って評価しなきゃならない現状ってどうよ、と思う。
 さすがにそれが支配的とは言わないが、角館を「みちのくの小京都」と言うことに対する疑義の声がある。角館は角館だ、なぜ「小」さい「京都」と言わなければならないのか、というのである。全く知られていない場所ならいざ知らず、「角館」で十分、通用するのではないか。
 同じである。他所の人が言うのならともかく、なぜ秋田衆が、秋田弁を「フランス語みたい」と言わなければならないのか。キュウリの特産地が、「キュウリにハチミツをかけたらメロンみたいな味がするよ」 と言ってるようなものじゃないか?

 話が大きくなるんだが、秋田弁で歌うことの意味、というところに行ってしまうのだろうか。
 60 年代には、「日本語でロックが歌えるか?」ということが大真面目に議論されていたんだそうだ。今では、そういう議論自体がロックっぽくない、という感じがする。結局はスピリットの問題なんだから、俺は日本語だ、と信じるのなら日本語で歌えばよかったのだ。
 では、伊藤氏にとって秋田弁で歌うことの意味は何か。
 今のところ、つまり、秋田弁訳した歌を、いささかのウケ狙いこみで発表していると言う現時点では、手段であり同時に目的でもある、という感じか。オリジナルの“SA・SYELE-TA”にしてからが、「わかる人だけ笑ってね」という歌であるわけだし。そういう意味では“BROKEN-HEART”が正攻法だし、“UNDABA-SYEBANA”あたりが、外国語として聞き流されないようにするための現実解か、という気もする。

 我々にとって、秋田弁の歌を聞くことの意味は何か。まさか、「癒し」ではあるまい?

 ジャンルが全く違うが、フリューゲルホーンの土濃塚 隆一郎氏がブレイクしている。秋田市下浜出身。心地よい音である。
 彼らのアルバムを聞きながら、秋田が秋田であること、考えてみる。




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