「エマージョン教育 (全教科を外国語で教えることによって、その言語の習得を図る教育方法) では、日本固有の『思いやり』を教えることはできない」と人前で言う新聞社のことは
別の場所で取り上げた。
ところで、言語が意識を規定する、という考え方がある。
人間の意識が先ではなく、言語のほうが人間の考え方を決めてしまう、というものである。「サピア=ウォーフの仮説」と呼ばれる。ここでは詳しくは述べないので、正確なところは調べてください。
ちと極端な例を挙げる。
前に、雪国の人と、そうでない地域の人で、雪で思い出す単語の数を調べた、という文章を紹介したことがある。当然、前者の方が多い。
雪国では、降っているのが粉雪なのか、霙
(みぞれ) なのかは決定的な意味を持つ。後者の場合は気温が高めだと考えられるし、すでに路面が凍ってるところに粉雪が積もると非常に危険だ、ということも体でわかっている。
一方、年に 1 回、降るかどうか、という地域では、雪が降る、ということ自体が大事件で、どんな雪であろうが交通機関に影響が出ることは間違いないので、呼び分ける必要はほとんど無い。ここでは「雪」という単語しかない、とする。
すると、そういう地域の人は、どんなものであろうと、雪を「雪」としか認識できない、ということになってしまう。説明を聞かないとわからないし、聞いてもわからなかったりする。日本人が“L”と“R”を区別できない、というようなことが、単語の意味のレベルで起こるわけだ。
さてこのとき、雪の降る地域で、ある単語が使われなくなってきたとする。例えば「
ごっぱ」とか。
「細雪」に対する「粉雪」のように、同等の単語が残ってそれが使われるのならいいが、「
ごっぱ」が使われなくなるのと並行して、その種類の雪を呼ぶ、ということ自体がなくなったとしよう。
それはきっと、惜しまれる事態だろうと思われる。
長々と書いてきたが、これと、「英語では思いやりは教えられない」というの、同根かな、と思ったのである。
イギリス人がすべて人でなしなのではないとすれば、彼らも「思いやり」に相当する気持ちは持っている。たまたま、日本語の「思いやり」と完全に同一の単語を持っていないだけである。“sympathy”“consideration”“regard”などと複数の単語がある。したがって、さまざまな側面から、「思いやり」というものを教えることは可能だ。
というのは、