Speak about Speech/Sentiment Subjects: Shuno the Fault-finder




「英語には『思いやり』にあたる言葉はない」



 秋田魁新報の 2002/11/28 夕刊、「杉」というコラムである。
 長いが、最終段落を引用する。
相撲の危機の裏で日本文化の危機が進行しているようだ。地域活性化の切り札と期待される構造改革特別区域(特区)でも注目すべき計画がある。小中高一貫の外国語教育特区(群馬県太田市)では全授業を英語で行うという。だが、例えば英語には「思いやり」にあたる言葉はない。日本文化をどこまで教えることができるのだろうか。
 さて。

 この筆者は、イマージョン教育 (全ての教科を別の言語でやることによって、その言語の習得を図る教育方法) を否定したいのであろう。
 最初の文に注目。イマージョン教育によって「日本文化」が衰退する、というのではなく、それ自体が「日本文化の危機」であると言いたいらしい。
 外国を知ることによって自国に対する理解が新たになる、ということを知らないのかもしれない。それは、自分で掴み取った理解なのだが、漫然と、周囲にある、というだけで理解したつもりになっているのと、どっちが深いかは言うまでもない。
 例えば、外国人が関心を持つ日本の文物の一つ、「障子」を正確に説明できますか? こうした、ありふれたものって、尋ねられて初めて意識するものなのだ。*1

 さて、問題の「思いやり」だが。
 筆者が言いたいのは、英語に「思いやり」という単語があるかどうかではなく、
日本の重要な文化であるところの「思いやり」を英語環境で教えることはできない
 ということである。
「思いやり」という単語がないということと、「思いやり」というもの、そうした精神活動の有無とはまったく別ものなのだが、ご存じないようだ。

 日本語には“book”に相当する単語はない、と仮定してみる。
「本」は? という反論が想像できるが、これは「書物」である。
「紙マッチ」を「ブックマッチ」と言うが、これは断じて「本」ではない。予約のことを「ブッキング」と言うことがあるが、これを「本」で表現することはできない。
「本」には、「本物」というような意味があるが、これを“book”で表現することはできない。
 つまり“book”と「本」はイコールではない。
 では、日本語には“book”に相当する単語はない、と言えるか。no である。同値の単語がない、というのなら yes だが。
「思いやり」という単語とまったく同じ意味の英単語がないのも同じことで、ある面は“sympathy”と言い、ある面を“consideration”、また別の面を“regard”と言う、ということである。別の言語の間で、まったく意味とニュアンスの同じ単語が存在すると考えるほうが間違っているのだ。これはおそらく、日本語以外の言語を苦手とする人には理解しにくいことだろう。*2

 大体、「思いやり」って、学校で教えることか?

 思いやり云々の文をひっくり返せば、
英語を母語とする人間は「思いやり」を持たない。
 ということになる。持っていたら教えることは可能なのだから。そのことに筆者は気づいているのだろうか。今ごろ、抗議が殺到しているのではないかと想像する。




*1:
 ぜひ、辞書で調べて欲しい。我々が想像する「障子」は、本来の「障子」のごく一部であることがわかる。(
)

*2:
 例えば、東京の言葉には、秋田の「ぼだ (っこ)」に相当する単語はない。「塩鮭の切り身」と説明的に言わなければならないが、では、東京に「塩鮭の切り身」はないのか、という問いに置き換えてみてもよい。(
)





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