敬愛する「明るいオタク」山根 一眞氏との出会いは、俺が社会人になる直前の 1988 年である。
その頃、東京都豊島区は雑司が谷に住んでいたのだが、近くに小さな本屋があって、何気なしに棚を見ていたら『
スーパー書斎の遊戯術』という本が目に入った。数ページ読んで「ん」と思い、すぐに買った。
この本は、色々なビジネス機器を、氏が我慢しきれずに購入してしまい、奥さんや、原稿の完成を待っている編集者に怒られてしまう、という顛末を面白おかしく――いや、そうした機器をビジネスに生かす道を模索する求道の書である。
俺自身、ややモノ好きという傾向がある。「物好き」ではない。なんか面白そうなものがあると手にとって、財布に余裕があると後先考えずに買ってしまうことがある。氏のスーパー書斎シリーズは共感しながら読んだ。
まぁ、ダイヤモンド専用天秤
*1は使わないし、137 万のワープロ*2をリースする金もないが、かの「山根式袋ファイル」は大いに役立っているし、ファイロファクスへの道を開いてくれたのも氏である。*3
『変体少女文字の研究』というヒット作もあるが、最近は「メタルカラーの人」と言えば話が通じるようになった。
スーパー書斎シリーズの一つ、『
スーパー書斎の遊戯術 黄金版』の「脳内辞書の発見」という章で氏がこんなことを書いている。
さてここで、やはり思いますに、関西弁を使える方たちは標準語も操れる人が多いから、標準語しか知らない人より脳内国語辞書は二倍詰まっているんじゃないか。つまりここに至って東京人より関西人の方が頭が良いのではという結論になったのだった。(?!)
今回はこれを元に話をする。
とりあえず辞書サイズは後回しにする。
まず、「方言」ってのは、ただ単語を入れ替えればいいというものではない。文法からして違う。似た形の単語でも意味が違い、該当する単語が存在しない場合もある、ということはこれまで何度も書いてきた。つまり、方言話者が複数の体系の言語を扱っているのは事実である。
別の方言と日常的に接しなければならないような場合、例えば、秋田の田舎者が大学生になって上京したような場合だが、頭の中で翻訳のプロセスを経てから発話する、というのもよくある話。
現象面から言うと、外国語の場合とあまり変わらないようにも見える。
だが、そうだろうか。
そんなにハードルは高くないように思う。
まず、先の例で言えば、東京弁と全国共通語は nearly equal なので、各種メディアで使われている表現をなぞっていけば、大きくは外れない。少なくとも、意思の疎通に困ることはほとんどない。そうしたものには、幼い頃から日常的に触れているので、移行はかなりスムーズである。中学生になって初めて英語を学ぶときのような摩擦がない。
ただ、ほとんど接点のない方言だとそうはいかないと思われる。かなり苦労するだろう。
それにもいずれは慣れる。
なんせ、どちらも「日本語」。根本的なところが同一なのである。語彙も、相当程度まで重なっている。これまた、全国共通語というもののお陰で、よっぽどのことがないかぎり、意思の疎通に困ることもあるまい。共通語を助けに借りたコミュニケーションを重ねていけば、他の方言への移行はいつか達成されるはずだ。少なくとも、相手の言っていることはわかるようになる。
まぁ、話せるようになるのは大変だろうが。津軽弁と秋田弁を完全に使い分けることができる人がいたら、それは尊敬していもいい。
外国語の場合、使用できる語彙や文例、応答パターンなどが第一言語に比べて極端に少ないので苦労する。そのため、使い分けが難しく感じられる。逆に言えば、そのストックが豊富にあれば会話は可能だ (当たり前か)。
日本語の方言の場合、方言と共通語の合わせ技で曲がりなりにも会話を成立させることができる。苦労したという印象がそれほど残らない、というのも言えるだろう。
大体、一つの言語内での複数の体系の使い分け、というのは大抵の人がやっている。
例えば敬語なんてのがそうである。会議中であれば、それが一時間だろうが二時間だろうが、あるいは丸一日続こうが、一定の形式の表現をキープするはずだ。で、昼飯時になれば、上司の悪口を同僚といっしょにやる。これは敬語ではあるまい。
あるいは、子供の相手をするのであれば、難しい表現を避けようという意志はずっと保たれる。
実は、それほど難しいことではない。
ただ、一方がもう一方に影響してしまう、ということはある。
東京で四年間の大学生活を送ったら自分の方言を操れなくなってしまった、というのは極端だとしても、癖の強い部分がそぎ落とされてしまう、というのはよくある話である。体系の全く違う、日本語と英語の間でさえそういうことがある
*4。よく似た方言同士でそれを避けるほうが難しい。
上で「津軽弁と秋田弁を完全に使い分ける」と書いたのはそういうわけ。
辞書の量はどうか。
確かに倍詰まっていると言ってもいいかもしれない。
世界の区切り方の違う表現、例えば「まがす」など他の方言では置き換え不可能な単語の存在を考えるとき、その脳内世界の広さと言うか深さと言うか、その空間は、一方言しか使えない人よりは巨大なのではあるまいか。
なんで急にそうなるかというと、こういうものは「関係」だからである。ある人が言葉で表現し得る世界は、単語の有無でなく、単語同士の関係で規定されると考えていい。その場合、単語相互の関係の数は、加算ではなく、単語の数をパラメータとする乗算で増えていく、と見なすことができる。
*5
更に言うなら、「標準語」話者は、言葉で困ることは滅多にない。前に、秋田訛りのある俺に向かって「普通の言葉を使え」と言った人の話をしたが、そういう無頓着さが産まれる背景がある。
方言話者は逆に日常的に別の体系の言葉 (つまり「標準語」) に触れているし、言葉遣いで困ることも多い。したがって、自分の方言に対して中華思想や強烈なコンプレックスを持っている人を別とすれば、比較的、言葉遣いに細やかになる。「なる」だと危険なので、「細やかになりやすい背景がある」くらいにしておこう。
頭が良いか悪いか、というのは別の話だが、こういうのはメリットだと言っていいだろうと思う。
スーパー書斎シリーズは、90 年代初頭までに書かれたものなので、個々のモノは古いことがある。なにせパソコン通信以前なので、今から見ると隔世の感はある。
だが、そのスピリットは大いに学ぶべきものがある、と思うのだが。
「メタルカラー」を読んでいると、その好奇心と購買意欲は衰えていないようである。まさに脱帽、である。