万福寺

万福寺山門
万福寺山門

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南馬込1-49-1

 曹洞宗。山号は慈眼山、院号は無量院、横浜の徳翁寺の旧末寺である。
 伝説によると、当寺は梶原平三景時が、建久三年(1192)に源頼朝の命令で、荏原郡大井郷道塚に堂宇を造立したのがはじまりという。道塚は現在の大井鹿島谷附近の海辺で、そこは梶原氏の旧領であったと伝える。
 その後、元応二年(1320)に火災にあい、景時の末孫である景嗣が当地に移転したとする説や、馬込への移転は応永年中(1394〜1428)で、海辺の波涛による境域の損地を避けたためであるなどの諸説がある。
 墓地に景時の墓と伝える五輪塔があり、地輪の正面に「正治二帽年正月廿日、万福寺殿香山不陰大居士 梶原平三景時之墓」と刻されているが、塔の様式や法号の大居士という表現などから考えて、近世になってから造立されたものであることは間違いない。
 このほか梶原景時を開基檀越とする諸伝が、当寺に伝わるが、いずれも史実と附合するものではなく、どうも後北条氏時代になって、この地を領した梶原三河守や同助五郎と混同した説らしい。
 旧来密教寺院であった当寺を、曹洞宗に改宗した中興開山、明堂文竜の没年が、大正一九年(1592)であることから考えても、万福寺殿と称された大檀越が、当地の知行主である梶原氏であったとすれば、時代的にも合致する。また当寺に安置されている景時の木像を、中興開山に協力した大檀越梶原三河守像とすれば、時代的にも、様式的にも納得すべき点が多い。
 万福寺の山門に向かって左側に名馬磨墨(するすみ)の銅像が建っている。磨墨は、宇治川の合戦で佐々木高網と先陣を争って武名をあげた梶原景李の愛馬で、伝説ではこの地の産馬だという。その後この地にもどつていたが、正治二年(1200)に誤って平張谷に落ちて死んだと伝えられる。しかし、これらの伝説を証明すべきなんらの根拠もない。
 なお磨墨塚は南馬込3-18-21にあり、前面約五メートル、側面約八メートル、後面約一二メートル、高さ約二メートルの墳丘状の塚である。塚上の碑は明治三三年(1900)に建てられたもので、この塚にまつわる名馬磨墨の伝説によっており、「正治二年五月十七日埋馬せりと云」と刻まれている。
 なお梶原親子や磨墨については、「謎を追う名馬と花の武士」に詳しく説明がある。

(出典 大田区史跡散歩 新倉善之著 学生社)

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[Last updated 11/30/2006]