本の紹介 五足の靴

  目 次

1. 本との出会い
2. 本の概要
3. 本の目次
4. 内容紹介
5. 解 説
6. 読後感


五人づれ 著
岩波文庫
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1. 本との出会い
 今年の春(2010.5)、熊本・天草を旅したとき、五足の靴が話題になりました。帰京してから調べてみると、随分古い本なのですが、岩波文庫に収められていることがわかりました。そこで、この本を一読し、今回取り上げることにしました。

2. 本の概要
 明治40年盛夏。東京新詩社の雑誌明星に集う若き詩人たち----北原白秋、平野萬里、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇がいさんで旅に出た。与謝野寛との五人づれは長崎・平戸・島原・天草と南蛮文化を探訪し、阿蘇に登り柳川に遊ぶ。交代で匿名執筆した紀行文は新聞連載され、日本耽美派文学の出発点となった。(解脱:宗像和重)

3. 本の目次
(1)  厳 島      8
(2)  赤間が関    11
(3)  福 岡      14
(4)  砂 丘      17
(5)  潮         20
(6)  雨 の 日    23
(7)  領巾振山    27
(8)  佐世保      31
(9)  平 戸      35
(10) 荒れの日     39
(11) 蛇と蟇       42
(12) 大失敗       46
(13) 大江村       52
(14) 海の上       56
(15) 有馬城祉     61
(16) 長 洲       64
(17) 熊 本       67
(18) 阿蘇登山     70
(19) 噴火口       74
(20) 画津湖       78
(21) 三池炭鉱     82
(22) みやびお      85
(23) 柳 河       92
(24) 徳 山       96
(25) 月 光       99
(26) 西 京      103
(27) 京の朝      107
(28) 京の山      212
(29) 彗 星      115

 解 説(宗像和重)  121
 地 図

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4 内容紹介(この本の中で一番面白く、特徴のある「大江村」の全文を掲載します。古い漢字のため、表示されない文字があるかも知れませんが、たまたまフリガナがあるので、意味は通じると思います。)
13 大江村
 昨日の疲労で、今朝は飽くまで寝て、それからこの地の天主教会を訪ねに出懸けた。いわゆる『御堂(みどう)』はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに『パアテルさん、パアテルさん』と呼ぶ敬虔なる仏蘭西(ふらんす)の宣教師がただ1人、飯炊男の『茂助(もおすけぇ)』と共に棲んでいるのである。案内を乞うと『パアテルさん』が出て来て慇懃に予らを迎えた。『パアテルさん』はもう15年もこの村にいるそうで天草言葉がなかなか巧(うま)い。『茂助善(もぉすけぇよ)か水を汲(くん)で来なしゃれ』と飯炊男に水を汲んで来させ、それから『上にお上りまっせ』と懇(ねんご)ろに勧められた。また予らが乞うに任せて、昔の信徒が秘蔵した聖像を彫んだ小形のメタル、十字架の類を見せてくれた。それに附いていた説明の札には『このさんたくるすは、3百年まへより大江村のきりしたんのうちに、忍びかくして守りつたへたる貴(たつと)きみくるすなり。これは野中に見出でたり。』云々と書いてあった。この種類のものは上野の博物館にあったように覚えているが、なかなか面白い意匠のものがある。
 『パアテルさん』はその他いろいろのことを教えてくれた。この村は昔は天主教徒の最も多かった所で、島原の乱の後は、大抵の家は幕府から踏絵の『2度踏』を命ぜられた所だ。しかしこれで以て大抵の人は皆『転(こ)ろんで』しまって、ただこの山上の2・30の家のみが、依然として今に至るまで堅く『デイウス』の教えを守っているそうである。これらの人は今なお十字架、聖像の類を秘蔵して容易に人に示さぬ。或は深く柱や棟木(むなぎ)の内に封じ込んでいるものもあるそうだ。それで信者は信者同志でなければ結婚せぬ。よし信者以外のものと結婚するとしても、それは一度信者にした上でなければならぬ。いや、今は転んで仏教徒になっているものでも、家に子の出来た時には洗礼をさせ、また死んだ時にも、表面は一応仏式を採るが、その後更(あらた)めて密かに旧教の儀式を行うそうだ、棺も寝棺で、その服装も当時の信徒の風に従うのだそうだ。予らはまた『パアテルさん』に導かれて礼拝堂を見た。万事瀟洒としてかつ整頓しているが、マリア像の後に、赤き旗に『天使の皇后』『聖祖の皇后』と記されたのは、少々辟易(へきえき)せねばならぬ。しかしこの教会に集る人々は、昔の、天草一揆時代の信徒ではなくて、この御堂設立後、17年の間に新に帰依したものである。それは、大江村に4百53人、それからこの『パアテルさん』が1週間交替にゆく崎津村に4百59人あるそうだ。尤(もっと)も昔の信者の家々も教会に集りこそせざれ、1週1日の礼拝日は堅く守って、その日は肥料運搬等けがの汚れた仕事は一切しない。ところがどういう間違か、それは日曜日でなく、昔から土曜日だそうだ。
 一体日本近世の歴史で最も興味あるものは、戦国の終、徳川の初期における外国文明の影響の如きその一であろう。この時代の新しい纏(まとま)った研究の尠(すくな)いのは遺憾である。殊に長崎、平戸、天草辺から入って来た日本化した外国語などは、はとんど注意されずに消えてゆくらしい。もしこんなことを調べるつもりで九州下(くんだ)りまで探する人があったらきっと失望するだろう。土地の故老、吏員などに質(ただ)しても、彼らは然(ぼうぜん)として答うる所を知らない。
 あまり『パアテルさん』のことに引絡(ひきから)まっているとまた一行の人から諧謔詩などを書かれるから、今度はこの村の有様を記そう。非常に薩摩に似ているとK生は言った。とにかく辺鄙な所で、3面は山、1面は海、猫額大の平地には甘藷が植っている。これと麦飯とがこの地の住民の常食だ。この朝H生が髭を剃りに出懸けて、ふと昨夜山中で巡査に遇ったことを話したら、それからそれと問い詰められて、結局『貴方たちゃあ、何しにそぎゃん旅行(ある)きなはんな?』『そぎゃん金どぎゃんして儲けて来なはったな?』と驚嘆せられて戻って来た。ついでだが、昨夜の賊というのは金25円を詐欺して逃げたのだそうだ。この島に取っては稀有(けう)の大事件らしい。
 天主教会を下って海浜の街を歩いた。夏の真昼だから可いものの、これが例の秋の夕暮ででもあったら、その粛条(しょうじょう)たる風物は木乃伊(みいら)にでもされてしまうだろう。宿は木賃同様だから頓(とん)と食うべきものがない。ところが幸いこの散歩の途で南瓜(とうなす)を見付けたから、これを購(あがな)うことにして価を問(き)いたが、主人は幾許(いくら)でも可(い)いという。『南瓜(ぼうら)』なんか、この村では売買(うりかい)しないそうだ。結局3銭を出して提(さ)げて帰った様は柳(いささ)か滑稽だった。
 午後2時、牛深行の汽船に乗る。牛深には夕刻着いた。今津屋という宿屋に宿(とま)ったが、楼上から市街を瞰(み)ると、何れも屋根の棟が(水平でなくて)多少上方に攣曲している。屋根を越えてはまた薩摩の陸影が見(みえ)る。
 夜街を散歩して、漁人町(りょうしまち)の紛々(ふんぷん)たる異臭、はた晴い海浜を通って、終(つい)に土地の遊女町に出た。ただ3軒のみで、暗き灯、疎(そ)なる垣、転(うた)た荒涼の感に堪えなかった。上の家に桔槹(はねつるべ)の音が聞えて、足下(あしもと)に蟋蟀(こおろぎ)が鳴くなどは真に寂しい。     〔以上、8・22]

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5. 解 説 「踏みこそ鳴らせ、大靴を」 宗像和重
 イタリア文学者で、優れたエッセイストとしても知られていた須賀敦子さんの評伝『ユルスナールの靴』(1996年)は、「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完壁な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする」という一節から始まっている。あれだけ「どこまでも」歩いていった須賀さんにして、この言葉があることに胸を衝かれるが、それほど「きっちり足に合った靴」を見つけることは難しいのだろう。それも1人ならず、別々な5人の五足の靴を揃えるとなれば、相当に至難の業であるに違いないが、ここにそういう奇蹟のような出会いがあって、「5足の靴が5個の人間を運んで東京を出た」。−−そして、今からちょうど百年前の夏、まぶしい光と風のなかで九州各地を踏破した「5人づれ」の詩人たちほど、自分の足にぴったりな靴を履いた旅人はいなかったかもしれない。『5足の靴』は、そういう幸福で稀有な、約1カ月にわたる旅と青春の記録である。

    靴を履くまで
 あらためて確認すると、この『五足の靴』は、明治40年(1907)7月末から8月いっぱいにかけて、九州北・西部を精力的に旅した与謝野寛(鉄幹)・平野萬里(ばんり)・北原白秋・吉井勇(いさむ)・太田正雄(木下杢太郎)の5人による紀行文である。旅先から『東京二六新聞』に寄稿され、同年8月7日から9月10日まで、29回にわたって「5人づれ」の署名で掲載された。本書で、各回の末尾に掲げた日付は、その掲載日である。初期には「鉄幹」を名乗っていた与謝野寛が、自らおこした東京新詩社の機関誌として『明星』を創刊したのは、明治33年(1900)4月のことである。「天はまさしく鉄幹に幸した」「詩と恋愛の時代、星と董の浪漫精神がさながら熱風のごとく、狸紅熱のごとく、季節の空想と情癡とを吹きまくつた。世界の「青春」が亦彼等を祝福した」とは、のちに北原白秋が書いた『明治大正詩史概観』(昭和8年12月、改造文庫)の一節だが、与謝野晶子という大輪の花が咲いたこともあって、『明星』は明治30年代のいわゆる浪漫主義の時代を華やかに現出する舞台となった。白秋はまた、「鉄幹を中心にする『明星』の業績は主として短歌に繋(かゝ)つたが詩に於ても新抒情詩時代の後期より象徴詩の勃興期にかけて、常に最高
の権威たり、詩の統一的王国を成した新人風景は実に空前の盛観であつた」と振り返っているが、『5足の靴』に名を連ねる白秋ら4人こそ、『明星』の静々たる「新人風景」の最前列に位置する青年たちであったことはいうまでもない。平野萬里・北原白秋・太田正雄は明治18年(1885)生まれで、このとき数え年23歳、吉井勇は1歳年少の22歳、そして与謝野寛は明治6年(1873)生まれで、当時35歳であった。
 このうち、新進の詩人としていち早く頭角を現したのは、平野萬里(本名、久保[ひさやす])である。旧勢州桑名藩の士族として埼玉県に生まれた彼は、母が森鴎外の長男於菟の乳母をつとめた経緯があり、早くから鴎外の知遇を得て文学を愛好、まだ10代半ばの明治34年(1901)には、新詩社に加入して歌人としての活動をはじめていた。『5足の靴』の当時は、東京帝国大学工科大学2年の終わりで、最初の歌集『若き日』(明治40年3月、左久良書房)を刊行したばかりであった。新詩社の歌人玉野花子との恋愛の渦中にあって、「小安貝底つ岩根の新室に波の音きく春は来りぬ」という、妻ごめの初々しい青春の歌からはじまるこの歌集を、与謝野晶子は「純なる情を歌ふに、新しき声を以てせ」るもの、と評価している。
 また北原白秋(本名、隆吉[りゅうきち])は、福岡県柳川の酒造業を営む商家に生まれ、早くから文学への関心を深めた。中学時代から友人らと回覧同人雑誌『常盤木』を発行するとともに、東京の投書雑誌『文庫』への投稿を通して、選者の歌人服部躬治(もとはる)や詩人河井酔茗に認められ、明治37年(1904)に上京して、早稲田大学高等予科文科に入学。翌年には退学し、一時は早稲田大学大学部の聴講生となったが、この間に同じ九州出身の若山牧水らと親交を結んだ。『明星』では、明治37年にはじめて短歌6首が掲載され、とくに39年(1906)春、新詩社に与謝野寛、晶子を訪問して以来、活動の場を『文庫』から移して精力的に詩作を発表し、新世代の詩人として注目を集めるとともに、新詩社同人たちとの交流を深めている時期だった。

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 一方、吉井勇は、鹿児島県出身の伯爵吉井家の次男として東京に生まれた。少年時代に家の没落にあい、明治38年(1905)に攻玉舎中学を卒業したが、この年に肋膜を病んで鎌倉などで転地療養を経験し、また新詩社に入社して、この年の『明星』にはじめて短歌が掲載された。翌39年には、作歌熱が旺盛になるとともに、毎月催されていた新詩社の歌会にも積極的に参加するようになる。『5足の靴』の発表された明治40年には、4月に早稲田大学文学部高等予科に入学し、間もなく政治経済科に転科したが、長く続かずに退学。「酒びたり24時を酔狂に送らむとしてあやまちしかな」「酒ほがひ色をよろこび音を慕ひ赤き世界にすめるわかうど」などの酒に耽溺する歌が陸続として現れ、平出修をして「新詩社の歌に如此く盛に酒精の気を吹込んだのは氏を以て嚆矢とせねばならぬ」と評させたのも、この旅の直前のことである。
 そして、4人のなかで『明星』への登場が一番遅いのは、太田正雄(木下杢太郎)であった。彼は、静岡県で雑貨等の卸小売業を営む素封家に生まれ、早くに父を亡くして、明治31年(1898)に長兄に伴われて上京。神田の独逸学協会中学に入学して、長田秀雄らと学友になった。在学中から『文庫』『明星』などを愛読し、第1高等学校第3部(医学志望)に進んでからも、詩、小説、戯曲等さまざまな創作を試みた。明治39年9月、東京帝国大学医科大学に入学し、翌40年には長田秀雄の紹介で新詩社の同人に加わって、『明星』3月号に本名の「太田正雄」の署名で小品「蒸気のにほひ」を掲載。続いて、習作的な詩や小品を発表しはじめたばかりであった(ここでは、おもに太田正雄と記すが、時に応じて木下杢太郎の名前を用いる場合もある)。
 こうした20代前半の学生、ないし学生あがりの青年たちと、30代半ばの壮年に達していた与謝野寛との旅行は、のちに吉井勇が回想するように、「与謝野先生だけが黒い背広で、あとの四人はみんな金ボタンのついた学生服を着ていたのだから、よそ見にはまるで修学旅行のように見えたかもしれない」(『私の履歴書』第8集、昭和34年4月、日本経済新聞社)という、一風変った趣を呈していたことだろう。ただ、このような「修学旋行」はこれが初めてではないので、実際には与謝野寛は、新詩社の若い同人たちとたびたび旅行に出かけている。吉井勇が右の回想で、「新詩社の人たちとさらに親しくなったのは、明治39年8月、与謝野寛先生を先達に、北原白秋、茅野粛々と一緒に、伊勢、紀伊、京阪などを旅行した時からであって」と書いている南紀旅行(ただし8月というのは記憶違いで、実際には明治39年11月)もその一つで、どうやらその余勢を駆って、40年の旅行も計画されていたらしいことが、『明星』の誌面から見て取れる。
 ◎社告 来る7、8、9、3ケ月に亘り、社中同人茅野粛々、北原白秋、吉井勇、与謝野寛の4人、越後及北海道に旅行致す心組に侯間、沿道の同好諸君に於て文学談話会の御催し相成り侯はゞ出席致すべく侯。猶路程、日時、其他詳細の事は新詩社内与謝野へ御間合下されたく侯。
 これは、『明星』明治40年3月号の誌面の片隅に、6号活字で小さく組まれた記事である。こうした記事が「社告」として掲げられるのは、彼らの旅行が単に同人仲間の物見遊山の旅に止まらず、地方在住同人・愛読者との懇親と、『明星』の宣伝、新詩社の勢力拡張策の一環としても位置づけられているからにはかならない。前年11月の南紀旅行と同じメンバー4人で、3ケ月にもわたる北国への行脚が、当初は予定されていたわけである。しかし『明星』では、ほぼ同じ内容の「社告」が4・5月にわたって掲げられるものの、6月にはその予告が誌上から消え、7月になると、その内容が次のように変更されている。
  ◎社友動静 与謝野寛等の越後及北海道の旅行は、同行者の都合其他のため、明年5月に延期せり。平野萬里、吉井勇、北原白秋、与謝野寛の4人は、来る8月1日東京出発、九州の諸地方(福岡、久留米、佐賀、熊本、長崎、薩摩、大隅、日向)へ旅行す。猶佐賀市の同人中尾紫川も此一行に加る筈なり。

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 もとより、5月から7月までの間に、このように計画が大きく変更された理由はわからない。ただ、8月号の『明星』に、「茅野粛々、増田雅子は馬場孤蝶氏の媒灼を以て、7月26日名古屋にて結婚式を挙げ、直ちに相携へて郷里信濃に帰れり」という記事が掲げられているから、当初参加を予定されていた茅野粛々の結婚という出来事が、参加者や旅行先の変更にも大きく関わっていることが予想される。これと前後して、北原白秋は故郷の同人雑誌『常盤木』の仲間であった白仁勝衛に宛てて、「さて来る8月上旬新詩社同人与謝野、吉井両氏及小生の3人九州地方に旅行致すことに相成侯に付常盤木のよしみにより何卒いろいろの便宜を与へられたく希望仕候」というはがき(6月4日付)を書いている。白秋が続けて、「門司に1泊 博多に1泊(露骨君に頼みたし)久留米に1泊、それから僕のうちに2・3泊、それから熊本、阿蘇、八代(或は日向)かご島、長崎、平戸をめぐり、1ケ月の予定に侯、北海道の方は中止、常盤木の同人一同どこかにて会合を願ふ、どうぞどうぞ」と、「僕のうちに2・3泊」を含む具体的なスケジュールに言及していることから見ても、九州旅行への計画の変更と立案に、彼が積極的に関与していたことは疑えない。白秋はその後何度も、計画を練り直しては、自仁勝衛に宛てて詳細な報告と相談を繰り返しており、7月28日付で柳川から出されたはがきに「小生は電報着次第馬関まで赴き何かのうち合せ致すことに相成居候」とあるところから、7月下旬には一足先に帰省して準備を整え、実際には下関(馬関・赤間が関)で東京からの一行と合流したようである。
 いずれにしても、このような紆余曲折を経て、白秋を案内役とする九州旅行が具体化することになる。「7月下旬より、往復30日間、本社同人与謝野寛平野萬里吉井勇北原白秋太田正雄中尾紫川6人、福岡、佐賀、長崎、鹿児島、大隅、日向、熊本諸地方へ旅行致し侯間、此段地方の新詩社同人及文芸同好諸君に謹告致し侯」という「謹告」が『明星』の巻末に大きく掲げられたのは、明治40年8月号のことである。このうち中尾紫川は、九州在住の同人で、白秋から自仁勝衛宛の書簡(6月19日付)によれば、「中尾紫川氏は博らん会見物のため上京、すぐさま生らと一緒に下向の由に侯」とあるから、上京の帰途、九州まで同行したのかもしれない。当初予定されていたメンバーとしては、不参の茅野粛々にかわって平野萬里が参加し、さらに入社してまもない太田正雄も加わることになって、ここにようやく「5足の靴」が揃うことになったわけである。

    厚皮な、形の大きい5足の靴
 彼らが東京を出発したのが、明治40年7月28日であったことは、帰京後の『明星』9月号に、「与謝野、平野、吉井、北原、太田の5人は、7月28日東京出発、九州地方を歴遊し、北原を除いて他の4人は8月下旬に帰京せり。途中の都合上、薩摩、大隅、日向等には赴かざりき」とあることによって知ることができる。一行は、汽車で安芸の宮島駅に降り立ち、厳島神社に詣でた後、下関に立ち寄り、関門連絡船で海峡を渡って、いよいよ福岡から九州の旅がはじまることになる。のちに木下杢太郎が、追悼文「北原白秋のおもかげ」(『改造』昭和17年12月)において、「白秋と親しくなつたのは40年の7月末から与謝野さんを団長として、平野、吉井、北原と九州を1ケ月旅行してからのことである。与謝野さんは知人が多く、また各地に弟子分にあたる人が居たので便宜を得ることが多かった。福岡、柳河、佐賀、唐津、名護屋、平戸、小浜、島原、天草、霧島、阿蘇、熊本といふやうに巡歴して、京都を経て東京に帰つた。僕は医科大学の1年を終つた時であつた」と語るように、人と出会い、風景と出会い、歴史と出会い、そして文学と出会った、1カ月間の精力的な九州北・西部の巡歴の旅であった。この間、紀行文には日付の記載がなく、現実の時間の軛(くびき)から解放された、恩寵に満ちた旅の日々が生き生きと描かれるが、実際の旅程は各回の掲載日より10日前後早く、与謝野寛らが東京に帰り着いたのは、8月28日頃と推定されている。
 また、これらの紀行はすべて「5人づれ」の名で掲載されて、個々の章にも執筆者の記載はない。文中の呼称もイニシャルの匿名で、たとえば「蛇と暮」(11)では、「足早き人K生M生はずんずん先へ行く、目的はパアテルさんを訪(おとな)うにある。足遅き人I生H生B生は休み休みゆっくり後から来る、目的は言うが如くんば歴史にあらず、考証に非ず、親しく途上の自然人事を見聞するにある」とあり、K生=寛(かん)、M生=正雄、I生=勇、H生=白秋、B生=萬里であることがわかる。ここでは、最年長の与謝野寛と、新参の太田正雄に引きずられて、吉井勇、北原白秋、平野萬里(ばんり)の3人が悲鳴をあげている図である。

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 従って、各章が誰の筆になるものかは正確にわからないが、木下杢太郎はのちの「満洲通信」第27信(『アララギ』大正7年12月)において、「その時の新聞の切抜は大部分散佚しましたが、幸にも僕の書いたもののうちで「平戸」と「有馬城址〔ママ〕」との分だけが今手許に残つて居ります」として、この2編(9・15)に手を入れて再録している。また吉井勇は、「「歌碑」と「白秋生家の跡」」(『日本経済新聞』昭和32年7月)のなかで、酒造家である白秋の生家を訪れた「潮」(5)に触れ、「この章の筆者は、中に「我等下戸党」としてあるから平野萬里にちがいない。5人の中で下戸なのは萬里ただ一人だつたからである」と推定している。しかし、特定の誰彼というよりも、語り手の主体はむしろ、彼らを東京から運んできた「厚皮な、形の大きい5足の靴」に仮託されているというべきだろう。「5足の靴は驚いた。東京を出て、汽車に乗せられ、汽船に乗せられ、ただ僅に領巾振山で土の香を嗅いだのみで、今日まで日を暮したのであった、初めて御役に立って嬉しいが、嬉しすぎて少し腹の皮を擦りむいた」(12)のように、九州の大地を踏みしめるその感触の生々しさこそが、何よりもこの紀行を精彩あるものにしているからである。
 と同時に、右の回想で吉井勇が、白秋の生家を訪れたくだりに言及していることに注意したい。彼らが九州の旅のはじまり(5)と締めくくり(23)に、2度にわたって柳川の白秋の生家を訪れていることは、そこが彼らの旅のベースキャンプであり、九州という異国の地、ないし旅という非日常の時間に入り、またそこから帰還する大事な場所であったことを物語る。往途の「潮」(5)では、東京からの客人を迎えて、「款待の準備」に追われる「非常の騒ぎ」と「祭礼の日のような混雑」が活写されるが、帰途の「柳河」(23)では、長い旅の日々に倦み疲れた旅人の眼が、名残りを惜しむように、目前の静かなたたずまいに注がれている。「柳河は水の国だ、町の中も横も裏も四方に幅4・5間(けん)の川が流れて居(お)る。それに真菰(まこも)が青々と伸びている、台湾藻の花が薄紫に咲く、紅白の蓮(はす)も咲く、河骨(こうほね)も咲く、その中を船が通る、四手(よつで)網の大きなのが所々に入れられる、楓(さっ)と夕立が過ぎた後などはまるで画のようだ」という一節は、8月初旬から下旬に至る、 -- 暑い夏の盛りからすでに初秋の気配を漂わせている時の経過をも彷彿とさせて、『5足の靴』のなかで最も美しい場面の一つ、といって過言ではない。
 もとよりこのことは、前述したように、この旅の実現に、北原白秋が大きな役割を果たしていたことを示している。が、前に引用した「蛇と葺」(11)で、白秋らをおいて「ずんずん先へ行」った「M生」こと太田正雄が、実際の旅においても、同行者を牽引する役割を果たしていたらしい。「最初は別にそれと言つた目的もなく、唯何か詩や歌の材料を得るためのものだつたのが、出発する1月程前から木下杢太郎だけはせつせと毎日のように上野の図書館に通つて、しきりに切支丹の文献に読みふけり、いろいろの南蛮文学の資料を集めていたので、いざ九州に渡つてみると、みんな杢太郎の熱意にひかされて、自然切支丹の遺跡探訪を主にしたような旅行になつてしまつた」とは、吉井勇の回想「筑紫雑記」(『熊本日日新聞』昭和32年12月)の一節である。木下杢太郎自身も「明治末年の南蛮文学」(『国文学解釈と鑑賞』昭和17年5月)においてこのことに言及し、「わたくしは旅行に先つて、上野の図書館に通ひ、殊に天草騒動に関する数種の雑書を漁り、且つ抜書をして置きました。2・3年前ゲエテのイタリア紀行を読み、それに心酔してゐましたから、さういふ見方で九州を見てやらうといふ下心でした」と書いていたのであった。
 実はこの「明治末年の南蛮文学」で、彼は「我々は7月の末から九州旅行を始めました。その先々から記事を作つて二六新報〔ママ〕に送りました。「5足の草鞋」といふのが其標題でしたが、残念ながらこの切抜ほ無くしてしまひました」と書いている。もちろん、「5足の草鞋」は「5足の靴」の誤りで、この回想を書いた時の木下杢太郎より、若い日に旅をした彼らのはうがハイカラだった、ということになるけれども、考えてみれば表題が「5足の草鞋」ではなく「5足の靴」であったことは、彼らが踏みしめようとしていたものが、決して日本的な風土や土俗的なもののみではなかった、ということをも意味しているだろう。この点を、『日本耽美派文学の誕生』(昭和50年11月、河出書房新社)において野田宇太郎は、「太田正雄は一高時代岩元禎教授からゲーテの講義を受け、中学時代から独逸語を学んでゐた関係もあつて、『イタリア紀行』などは彼の愛読書となつてゐた。彼の青年時代の教養思想及び生涯の学問にはゲーテの影響が強く認められるが、ゲーテがイタリアに憧れたやうに彼は南蛮の不可思議な香りを秘めた九州に、ゲーテに於けるイタリアのやうな古典風土への憧憬と異国情調を発見しようとした」と指摘している。

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 実際、この紀行をたどっていくと、旅程では8月10日前後になるが、長崎県の茂木港から出港して、「痛(ひど)い暴風(しけ)」のなかを天草の富岡港に上陸した「荒れの日」(10)から、隠れキリシタンの里として知られる大江村の天主教会へ、悪戦苦闘しながら「パアテルさん」を尋ねてゆく「大江村」(13)にいたる一連の天草紀行が、旅のクライマックスを成していることに気づかされる。その途中の「大失敗」(12)で、「パアテルさん」の教会を探しあぐねて難渋しつつ、H生(白秋)の作った印象的な詩の一節「かくて街衢(ちまた)は紅き灯に/三味もこそ鳴れ、さりとては/天草一揆、天主堂、/『パアテルさんは何処に居る。』」は、この旅において彼らの求めるものが、贅を尽くした紅楼の歓楽のみではなかったことを、戯れのなかにも物語っている。だからこそ白秋は、この解説の最初に掲げた『明治大正詩史概観』において、「大江村のカトリックの寺院に目の青い教父(パアテル)と語つた」ことに焦点をあてて、この旅を次のように総括したのである。
  40年の夏、新詩社同人の寛、萬里、勇、正雄、白秋は九州旅行の途次長崎に1泊し、天草に渡り、大江村のカトリックの寺院に目の青い教父と語つた。この旅行から何を彼等は齎らしたか。浪漫的のほしいままな夢想老であつた新人、彼等は我ならぬ現実ならぬ空を空とし、旅を旅として陶酔した。中にも北原白秋は「天草雅歌(あまくさがか)」を、邪宗の「鵠(くぐひ)」を、正雄は「黒船」を、また「長崎ぶり」を、その阿蘭陀船の朱の幻想の帆と載せて、ほほういほほういと帰つて来た。

    靴を脱いでから
 こうして彼らは、1カ月に及ぶ旅を終えて、「ほほういほほういと帰つて来た」。擦(す)り減(へ)らした靴と、疲れ果てた体と、そしてきらびやかな「異国情調」に彩られた「南蛮趣味」を携えて。木下杢太郎は前掲の「明治末年の南蛮文学」に、「九州から帰つてわたくしは明星に「長崎ぶり」とか「黒船」とか「桟留縞(さんとめじま)」とかの短詩を寄せました。其翌月、北原白秋君があの「邪宗門」に出て来るけんらんたるかずかずの異国情調的の詩を発表しました。これがわれわれの間の「南蛮文学」のはじまりでした」と記している。「長崎ぶり」「黒船」「桟留縞」は『明星』の明治40年10・11月にかけて発表された作品で、絵をよくした彼はこの両号に、九州旅行のスケッチ十数点をも寄せている。彼は文字通りこの旅で詩人として誕生したので、その記念すべき作品の一つ「長崎ぶり」を、ここに掲げておきたい。
 袖(そで)に遣(のこ)りし南蛮(なんばん)の花手拭(はなてぬぐひ)よ、
 染めたるは、蘆薈(ろくわい)か、百合(ゆり)か。
 否、紅(あか)き天南星(てんなんしやう)の
 実(み)たわたわ、そは船着(ふなつき)の
 戯(たは)れ女(め)の恋のまことぞ。
 口(くち)づけよ、さば、阿蘭陀(おらんだ)の
 このわかく美(うつ)くしかりし
 舟子(かこ)のごと、口は爛(ただ)れて血を吐かむ。
 南無波羅葦増雲善主麻呂(なむはらいそうせんしゆまろ)。
 また、杢太郎のいう北原白秋の「けんらんたるかずかずの異国情調的の詩」とは、「角を吹け」「ほのかなる蝋の火に」などからなる「天州(てつを横に2ケ並べた字)島」(『明星』明治40年11月)で、これらは明治42年(1909)3月の第1詩集『邪宗門』(易風社)に「天草雅歌」として収録され、詩集巻頭の「邪宗門秘曲」や「赤き僧正」などとともに、広く明治末年から大正期の文壇に「南蛮趣味」の流行をもたらす原動力となった。歌人の吉井勇や、早くから詩作の世界に入っていた平野萬里、与謝野寛らもまた、この2人ほど華々しい果実を得ることほなかったが、それぞれの収穫を、この時期の『明星』に掲げている。

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 もとより、木下杢太郎が前掲の「明治末年の南蛮文学」で、後年のこととして「その間に或日ふと雑誌を読むと、芥川龍之介君の南蛮文学の批評が出て居り、それがわれわれの過去の南蛮文学と比較せられ、われわれのものは無知な異国趣味、ロマンチズムであつたと酷評せられてゐました」と記すような側面があったことは否めない。たとえば彼らは、『5足の靴』の「有馬城祉」(15)で、実際には島原城祉に赴いて、天草四郎終焉の原城祉と誤解していたことが、今日では知られている。また、「平戸」(9)と「荒れの日」(10)との間に空白があって、切支丹文化の中心地長崎探訪の記事が抜け落ちていることも指摘されている。後の「京の朝」(27)で、「『長崎』の条(くだり)を書くべきK生が懶(なま)けたため」とされているが、これらを歴史と文化に疎い「無知な異国趣味」の所産として片づけるのではなく、既成の知識や概念にとらわれない初心で闊達な身体と精神が、彼らの欲するところへ赴き、彼らの欲するものを見出した結果なのだと考えたい。「踏みこそ鳴らせ、大靴を」とは、「みやびお」(22)中の「H生が同行の某生を調(からか)った詩」の一行だが、まさに彼らはそのようにして大靴を踏み鳴らしながら、九州の大地を闊歩したのである。
 しかし、「こうして、長い旅行を共にしたりして、与謝野先生と私たちとは、きわめて親密な師弟関係をつづけているように見えていたけれども、実はもうすでにその時分から決裂の機運がきざしていて、翌40年1月には、北原白秋、木下杢太郎、長町秀雄、私など数人は、たもとを連ねて新詩社を脱退するようなことになってしまった」(前掲『私の履歴書』)と吉井勇がいうように、帰京後まもなく、北原白秋・木下杢太郎・吉井勇らは新詩社を連袂脱退することになる。結局、彼らを欠いた『明星』は、明治41年(1908)11月の百号をもって終刊を迎え、相前後して北原白秋や木下杢太郎らは、パンの会をおこして耽美主義的な文芸運動の先駆を成す。文学世代と時代思潮とのあわただしい交代劇のなかで、「5足の靴」が足並みを揃えて大地を踏みならす機会は、2度と訪れることはないだろう。それゆえにこそ、彼らの旅は、稀有な幸福に満ち満ちていたのである。

6. 読後感
 こんな時代[明治40年(1907)]に、このようなメンバーで天草などを旅行をし、紀行文として残っていることに驚きました。参加者全員が詩人であり、作家ですから当然とはいえ、青春の自由さに満ちた楽しい作品になっています。しかも、この旅行の影響で南蛮文学の作風になっていることも、旅行の成果かと思います。「解説」はとてもわかりやすく、作品を読むのに役立ちます。今回は載せませんでしたが、阿蘇山への登山などは、今は簡単に車で行けることを考えると、時代の進歩を感じます。木下杢太郎は、絵の才能があり、太平洋戦争の末期に、見事な植物画を残しており(「新編 百花譜百選」)、その関係もあってか、楽しく読みました。

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[Last updated 10/31/2010]