本の紹介 新編 百花譜百選

  目 次

1. 本との出会い
2. 概 要
3. 本の目次
4. 解 説
5. 木下杢太郎小伝
6. 図譜100(やまゆり)
7. 読後感






木下杢太郎画
前川誠郎編
岩波文庫
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1. 本との出会い
 今年(2008年)3月に伊東に行きました。その折に木下杢太郎(きのしたもくたろう)記念館に寄り、百花譜のことを知りました。帰宅して大田区の図書館に元の本があることを確認し、上下各1册を借りました。記念館で見たのは数枚の実物ですが、本には872枚すべてが載っていました。さらに本屋でこの文庫版を見つけ、早速購入しました。これは名前の通り百花譜の中から百枚を選んだものです。

2. 概 要
 医師で詩人・作家の木下杢太郎(1885〜1945)がその最晩年、灯火管制下に夜ごと続けた、自己との出会いとしての仕事です。草木や花の生命を描く折枝画には、酷(きび)しい時局や自らの病状を記した寸鉄の字句も添えられています。この本はその内から、百枚を厳選して贈る記念版のアンソロジーです。

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3. 本の目次
 新編 百花譜百選………………………5
 解 説 ………………前川誠郎……207
 木下杢太郎小伝……………………220
 図譜一覧……………………………223
 植物名索引

4. 解 説
 昭和18年3月10日、急に気温の下がった中を三四郎池の畔(ほとり)で採取したまんさくの花(図譜1 右図)に始まり、2年4ケ月後の昭和20年7月2日、入院を翌日に控えて久しぶりに訪れた小石川植物園で、職員の誰何(すいか)を受けながら折り取ったききょうそうなど5種の草花に至るまで、それに見舞いに貰ったやまゆりの一技(図譜100)を加えて、総計872点からなる『百花譜』は、日増しに劣勢を強める前大戦の最中(さいちゅう)、ほぼ毎夜に管制下の乏しい灯火のもとで描き進められた植物園譜である。多い日には昼間も入れて1日で21種の写生をした(昭和18年9月26日)。また敗色が濃くなり自らの病状も悪化の一途を辿つていた昭和20年4月13日から25日までの13日間には、最終日の日記に「……12時帰宅。そのあと3種の植物を写生す。暁3時に達せり」とあり、さらに欄外に「かく4晩植物写生をつづけたり。些かよろしからず。あすの晩にてうちきりにせん」と記し、13日のあけぴから算えると全部で32種の写生がなされている。しかしそれらを通観してみてもそこには彩管の弛(ゆる)みは全く認められず、以前と何の変りもない。従って上文中に「些かよろしからず。あすの晩にてうちきりにせん」というのは画業ではなく、体調の不振を指したものと解して宜しかろう。実際また3ケ月後の7月未の絶筆までに、さらに百枚ほどの写生をものしているのである。

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 写生は202×167ミリメートルの枠付き洋罫紙にほぼ原寸大になされ、上下左右ともに枠から外へはみ出さないように技葉を切っている。その形状は中国や日本の絵画でいう折枝花(せっしか)、あるいはヒンジで留めた押し葉のように整えられ、植物名と採集の日付および場所が記入されている。即ち紛れもない図鑑なのであるが、類書と大きく異るところがあるとすれば、どの紙葉も花の形のみならず生命そのものを描いていることである。科学的な正確さを失うことなくしかも間然するところなき美術になっている。折り取られたばかりの花がその瑞々(みずみず)しさをいつまでも保って生き続け、決して枯れた標本と化してはいない。昭和18年6月6日日曜日の七変化(しちへんげ ランタナ)の写生には、「金曜日〔6月4日〕の薄暮農学部の庭に折りたるこの技を好(よ)くも見ずして小さき瓶に投げ入れ置きたるを、この夜遅く取り出でて、あまり可憐なれば急ぎ写しぬ」(図譜19)との書き込みがあるが、これが『百花譜』の全紙葉に永遠の生命を賦与した著者の息吹なのである。
 著者は科学者である以前に天成の芸術家であった。医者そして医学者そして杏林(きょうりん 医者の美称)に然るべき名を残したが、詩人としてまた画家としての芸林での活動はそれを上廻った。殊に若くして懐(いだ)いた、自分は画家であるとの意識は終生これを忘わることはなかった。大正9年7月から9月へ掛けて、それより先きに4年間勤めた南満医学堂を辞した医師太田正雄は再び文人木下杢太郎へと返って、友人の画家木村荘八とともに朝鮮の平壌や慶州を訪れ、さらに中国山西省大同の西の雲崗(うんこう)石仏寺に17日間参寵して仏像群の調査に徒事し、その際のルポルタージュとして3部に分けた「雲崗日録」(『大同石仏寺』、座右宝刊行会、昭和13年所収)を綴る。和辻哲郎を受取人とした書簡体の文面中には、W君よ、我々二人[杢太郎と荘八]は毎日々々精一杯の勉強をしています。試験に苛められる学生の知らない、少しも疲労を感じない勉強です……」「総じて今回の雲崗での我々の生活は、全く画家としての官能的享楽を以て終始しました……考証的の仕事は後日の機会に譲って、我々は最も幸福に、絵画的に享楽したのです」の言葉が見える。エピキュリアン杢太郎の真面目は躍如としている。そしてこの姿勢は何ら変ることなく20余年のちの『百花譜』へと繋がって行くのである。
 「雲崗日録」には仏像を離れてまた次のような石窟周辺の叙景文もあり、そこに「……その囲の内は、平地に数種の禾本科(かほんか)植物、よもぎ、やまはたざお、うまごやし、しながわはぎ、いぬほおずき、きらんそう、あかざ、しおん等の雑草おょび枸杞(くこ)等が繁茂して云々」と書かれているのは、ただ美しい花卉(かき)のみならず、名も知れぬ雑草にも広く親愛の眼差しを向けた後年の『百花譜』が、故なくして突然に思い立たれたものではないことを明かしている。それから24年後の昭和19年4月21日、東亜医学会出席の公務を帯びて空路上海飛行場に降り立った太田博士はその夜の『百花譜』に、「先づ驚かれしは芝生の雑草九州と殆ど相似たることなりき」(図譜60)と記し、スミレやタンポポ等10数種の雑草を写生している。

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 上海のほか青島、北京、奉天と廻って5月11日に帰京するまでの間にも植物の採集と写生は続き、旅嚢は膳(月偏に昔)葉で膨らんだ。忙しくはあったがまた得意の旅でもあったことは、「柳絮(りゅうじょ)飛ぶけふの宿りや鯰汁」などの句を捻っていることからも分かる。帰国して久しぶりに小石川植物園へ行き、御柳(ぎょりゅう)を見付けて「5月20日 北京ニ於テ之ヲ写サントシ客有リテ果サズ 今日宿望ヲ達ス」(図譜64)と画面に書いている。出色の画作である。
『百花譜』は872枚の原色版をB4判二冊に収めて著者没後34年の昭和54(1979)年に岩波書店から刊行され、その4年後の、昭和58(1983)年には澤柳大五郎氏選の「百花譜百選」が、さらに平成13(2001)年には前川誠郎選の『新百花譜百選』が編纂された。何れの百選もその名のごとく『百花譜』中から任意の百点を選んだアンソロジーであり、その際の選択の規準としてはなるべく美しい紙葉を択ぶことに落ち着いたかと思われる。
 しかし『百花譜』には他書に全く見ることのできない一つの大きな特色がある。それは植物園鑑であるに留らず、簡潔に纏めたその日その日の日記ともなっていることである。しかも『百花譜』を繙(ひもと)いて行くものの眼には、絵に添えて記された寸鉄のメモが、次第に強く灼きついて離れなくなってくる。それらは大別して(1)戦局に関するもの、(2)救荒植物(山野に自生する草木で凶作の時に食用に供しうる)に関するもの、そして(3)自己の病状に関するもの、の三つになるかと思われるが、何れにしても余りに特異でかつまた傷ましい記録となっている。筆まめな著者はこれとは別に、しかも最も古くは16歳の明治34(1901)年に溯ってもっと詳しい日記を付けており、『百花譜』が描かれつつあった時期(昭和18〜20年)には両者に共通する記述がしばしば見出される。従って二つは相俟って著者の最晩年の日常を明かにする何よりの手懸かりなのである。
 先ず戦局について。『百花譜』の着手時、即ち昭和18年3月現在において日米開戦からすでに1年3ケ月の時間が経っており、しかも敗北は日を遂って確実となっていた。「4月29日 わすれなぐさ 天長節 朝、新聞に某大佐のガダルカナアル戦闘に関する談話の筆記を読む」「5月21日(金) さわら 大学 夕刻少雨、摂氏17度(華氏67度)寒冷を覚ゆ。山本五十六提督の訃ラヂオにより午后3時報知せられたりと云う。」「7月15日(木) 大金鶏菊(おおきんけいぎく) 晴天。湿潤。防空演習にて飛行機の爆音朝来空中に聞ゆ。7月10日以来坂口内科に入院。瓶中此花在り。」日記によれば担嚢炎にて7月17日まで入院している。
 翌19年になると米軍は南海より次第に北上し、「6月28日 [くりかぼちゃ]サイパン島飛行場占領せられたるの報有り」(図譜72)。さらに20年に入ると、戦局はいよいよ棲愴の度を深めて本土の空爆が相次ぐようになる。「乙酉歳(きのととりどし)2月4日立春 日曜日 ろうばい 午食後縁側に日なたぼっこし、ふと瓶の花に雑りて此枝を発見せり。今年に入り始めて植物の写生を試む。百機ばかりの敵機神戸を襲えりと。」そして3月10日(土)の晩に東京大空襲というカタストロフィがくる。本郷西片町の太田家周辺は辛うじて難を免れたが、大学の医局は焼けた。「南山堂、金原、〔ドイツ語出版の〕南江堂皆焼けた。〔本郷〕警察、区役所もやけた。」 このょうな極限的状況下において植物写生はさすがに無理であって、2月11日紀元節のせんりょうから3月24日の山茱萸(さんしゅゆ)までの40日間は一枚も画作がない。

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 『百花譜』の紙葉に記されたメモを読んでいて戦況以外にも強く印象に残るのは、著者がしばしば雑草の試食を行っていろことである。「昭和19年4月8日……こまつな……たんぽぽ、あかざ、はこぺの芽を種(う)う。育てて食わんが為めなり」「昭和19年5月27日 おにたびらこ……此花午前に開き夕は萎む。今マデ食い試みし数種の雑草中この葉尤もうまし。」「昭和20年4月19日 木曜日 ひめおどりこそう……夜ぎぼし、つぼすみれ、雪の下、牛蒡の天ぷら、如宛(じょおん 宛には草冠が付く)の煮付を食う……(図譜90)。エピキュリアンの著者はまた名うてのグルメでもあった。その人が戦時下の食糧難にいかに苦痛を覚えたであろうかは言わずもがなのことであろう。日記には貴顕や富豪たちからの招宴の記事がその日の献立をも含めて目立つようになる一方で、医局では雑草料理の準備のため手分けして春如宛(はるじょおん 宛には草冠が付く)おにたびらこ、たんぽぽ、はこぺ、拘杷、藤の芽、からすのえんどう、なずな等を蒐めさせたこともあった。そして戯れに「救荒本草(きゅうこうほんそう)百首」を作り、藜(あかぎ)の葉うまげに見ゆる小径かなとか「すかんぼのサラダの贅や疎開人(びと)」「つみゆけば片手に余るつくしかな」等の句を詠んだりしている(日記より)。しかし本人は飽くまでも真面目であった。東京に較ぺて手近に海の幸に恵まれた伊東市に実家があったことは大きな幸運で、同地で採取した植物がかなりの数に上るのは、帰省して食事らしい食事を娯む機会を持ちたいという願いに動かされてのことでもあったろう。
 『百花譜』の書込みに関してさらにもう一点刮目すぺきは、昭和20年6月以降自身の病状に触れた記述を多く残していることである。「6月6日 〔タイサンボク〕胃痛、褥中に之を写す。花径七寸」(図譜96)「6月12日 火 〔さつき〕一箇月以来食後と夜中と胃痛有り。今朝飯を喫せずして柿沼教授によりレ線検査を為す。夜食後元気やや快復し庭の此花技を採って写生す。」「6月19日 火 ゆきのした柿沼、大槻両教授の勧めにより豆東の郷家に来り静養す。午后庭前の此草を抜きて写生す。」(図譜98)「7月2日 月 〔ききょうそう〕 明日入院するをもて久しぶりに植物園に往く。花を採って松崎氏に誰何せらる……」そして最後に「7月27日金 〔やまゆり〕胃腸の痙攣疼痛なお去らず、家居臥療。安田、比留間此花を持ちて来り、後之を写す。運勢たどたどし。」(図譜100〕 これが絵も書もともに絶筆となった。私は著者がこの日をもって自身の病が不治のものであることを本当に悟ったのであったと思っている。10月15日逝去。
 『百花譜』制作の意図や動機について著者は言葉では何も語らなかったが、紙葉への書込みや日記中の文言によって私なりの推測を述ぺるとするならば、それは先ず何よりも、中国の士君子が琴棋書画をめぐって理想とした「自娯(じご)」のための仕事であって必ずしも公開を予想したものではなかったかと思う。講義に研究にまた会議にと多忙を極めた一日の業を終えた深夜に、昼間行住の寸暇を剖(さ)いて採集して来た可憐な植物の写生を殆ど一日も休むことなく2年有半の間、遂に病によって彩管を欄(お)くの止むを得ざるに至るまで孜々(しし)として続けたその姿は、余人の眼には求道の行(ぎょう)とも見えたかも知れない。しかし私がこれを自娯のためであったと解するのは、このような行動が太田正雄という人間存在において幾度となく繰り返されたパターンに属するものであった、と考えるからである。わが国の近代文学に一つの新分野を開いた詩や戯曲などの旺盛な文芸活動、そしてそこから生れた、日本の西洋との初めての出会いという大きな主題に立つ南蛮文化への憧憬、また居を大陸へ移し4ケ年の歳月をかけた中国や日本の古代仏教美術への傾倒と現地調査等々、何れの場合でも、自らがそれを享楽と呼ぶほどの喜悦を求める、抑え切れない欲求の爆発がそこにはあった。

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 大正5(1916)年10月、すでに文名を高めていた木下杢太郎は突如として東京を去って満洲は奉天(藩陽)へ移住し、医師太田正雄として病院に職を奉じる。しかしその本心は中国古代彫刻史の研究に在った。そして早くも11月に、つい先程まて東京の文壇での仲間であった斎藤茂吉や和辻哲郎へ宛てた書簡体の「満洲通信」を雑誌『アララギ』へ送り始める。その中で青年は、何故中国へ来たのかという自問自答を繰り返し、余りにも煩わしい東京をこういうまたとない機会で打ち切って、これまでただ漠然と考えていた「独りっきりで在る」という生活の中へ投入しようと思ったが故であると述ぺている。それから27年後に始まる深夜の植物写生もまた独りでありたいとの根強い願望の端的な露れであったことは瞭(あきら)かである。すでに間もなく還暦を控えていたこの人の身辺は、余りにも高い名声の故に煩忙を極めていた。そわは日記の証するがごとくてある。「独りっきりで在る」ことはもはや深夜の数刻の他には許されなくなっていた。しかも戦禍はいつわが身に及ぶかも分からない。そのときにあって独りでいるとはどういうことか。それは本当の自分に出会うということであった。澤柳大五郎氏が杢太郎の東北大学での同僚勝本正晃氏の言葉として引用しておられるところによると、杢太郎はよく「神は自分にいろいろな才能を与えてくれてうるさくて仕方がない。それをどう始末していいか分らないので困る」と言っていた由で、それほど沢山いる自分の中での本当の自分とは画家であるという意識を一生強く懐き続けていた杢太郎が、「余りに煩わしい、いらいら寸る」日々の生活から脱け出して深夜にただ独り坐して絵筆を握り百花の姿を写す数刻こそは、真に何ごとにも替え難い大きな娯(たのし)みであったに違いない。彼はその席で夜毎にさまざまの花と化した自身に出会っていたのである。そして至福の数刻が過ぎた途端にまたもとの混雑の限りをつくした日々が戻ってくる。その時画家が想い出した当日の印象点というぺき出来事がメモとして紙片に記された。それがしばしば戦災であり饑餓であり病苦であったのは実に傷ましい。
 先に私は『百花譜』が著者自身の娯みのための仕事であったと述べた。しかし図鑑という形式をとるからには何らかの用途をも顧慮していたに違いない。私はそれは救荒本草図譜の作成であったと思う。戦時下の深刻な食糧危機に際し、野生植物の可食性を調ぺて正確な指針を一般に提供することは、医家としての責務であると著者は考えたのてあろう。昭和10(1935)年に書かれた随筆「ゲエテと医学」の中に次のような『ファウスト』からの引用がある。
 「あなたは草木一つ一つに名を附け、/その根を底の底まで窮め、/病人を救ひ、創(きず)をいやしてやられる医者だ。」(第2部「古代のワルプルギスの夜」)
これは主人公のファウストがケンタウロス族の賢老ヒロン(ケイローン)に語りかける言葉であるが、『ファウスト』全篇の中でも決して有名ではないこの条(くだ)りが引用されているのは、医者である著者がそこに強く惹かれるものを感じていたからであろう。杢太郎は恐らくこのヒロンに「始めて百草を嘗(な)めて、始めて医薬あり」(史記、三皇紀)と伝えられる中国の医祖・炎帝神農の姿を重ね焼きしていたに違いない。
 初めは確かに美しい花々を選んで描いていた『百花譜』が、次第に目立たぬ野草へと視野を拡げて行った裏には、著者の医家としてのそのような想いがあったのでないかと私は考えるのである。

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 選画に当ってはなるぺく絵として美しいものをえらぶことを規準としたが、また紙葉に記された文言の強い印象や、あるいはそこに名の挙がる人々への懐旧の念が優先した場合もなくはない。例えば新村出(ほそばときわさんざし、図譜20)や児島喜久雄(ひよくひば、図譜47)の両先生は当時若年の私が親炙(しんしゃ)した恩師である。それから60有余年が経った今、著者には面識の機を得なかった私が『百花譜百選』の選画を二度も勤めることとなった縁の不思議さに、改めて深い感慨を覚えずにはいられない。本書は『百花譜』から百点即ち全作品の約一割強を選び、また、画面をオリジナルの縦横約二分の一の大きさに縮写している。しかし原著がこれまでに編纂された二つの〈百選〉をも含めてすぺて稀覿に属するものとなった現在、本書が偉大なウォモ・ウニヴェルサーレ(万能人)木下杢太郎の涯知れぬ世界へ入ろうとする人々のための小さな手引草ともなるならば、編者の悦びそれに過ぎるものはない。
八十七叟 前川誠郎
      元・東京大学教授
        国立西洋美術館長

5. 木下杢太郎小伝
 木下杢太郎は医学博士太田正雄(1885〜1945)が広汎に亘る文芸・評論活動に際して長年使ったペンネームであり、この名の下に新旧二種の全集(旧版全12巻、新版全25巻)と5巻の日記の他にも画集『百花譜』を残した。1911(明治44)年東大医学部を卒業、1916(大正5)年旧満洲奉天(現在の藩陽)市の南満医学堂教授、1921〜24(大正10〜13)年フランスを中心に海外留学、帰国後は愛知医科大学と東北大学医学部を経て、1937(昭和12年東大医学部皮膚科の教授となり、1941(昭和16)年には細菌学研究の業蹟によってフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されたが、1945(昭和20)年10月還暦の直後に胃の疾患で亡くなった。
 文学者としては森鴎外の感化を最も強く受けたが、キリシタン文献の研究や明治・大正の開化期の都会風俗への関心など、外来文化と日本との出会いがその文芸活動の一貫したテーマであり、インド・中国・朝鮮・日本の古代仏教彫刻や、他面また19世紀フランス絵画などへの強い傾倒もこの基本姿勢から理解せらるぺきものである。
 代表作として詩集に『食後の唄』、戯曲に「南蛮寺門前」「天草四郎」、仏教美術に『大同石仏寺』、南蛮研究に『えすぱにや・ぽるつがる記』等があるが、同人誌『明星』『スバル』『屋上庭園』『三田文学』等に拠る旺盛な文学活動は明治40年代がピークであり、与謝野鉄幹・晶子夫妻、北原白秋、吉井勇、また斎藤茂吉や和辻哲郎らに並ぶ高い文名を博した。静岡県伊東市出身。
 生家は現在伊東市立木下杢太郎記念館となり、杢太郎会が運営に当るほか、機関紙『すかんぼ』、研究誌(杢太郎会シリーズ)等を発行している。

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7. 読後感
 本の目次にもあるように、巻末には「図譜一覧」と「植物名索引」が載っています。図譜一覧には植物採集場所が書いてあり、参考になります。また植物名索引はこの植物が載っているか、どこにあるかがわかります。
 文庫版の図は小さいので、絵の内容まではわかりにくいのですが、必要があれば原寸大の絵が載っている「百花譜」を図書館から借りてきて、詳しく見ることができます。医者を本業とする作者が、このような作品を残したことに驚かされます。

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[Last updated 6/30/2008]