大田区の散歩道3
武蔵新田

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 東急多摩川線に武蔵新田(むさしにった)駅という駅があります。東急東横線の渋谷から横浜に向かい、多摩川園で多摩川線に乗換えると下丸子の次です。新田神社はこの駅の直ぐ近くにあります。今回は、この新田神社を中心としたウオーキングをとりあげました。多摩川の矢口の渡しの近くで、新田神社の祭神新田義興に関連した神社やお地蔵さんなどが散在しています。武蔵新田から歩いても良いのですが、JR五反田駅と川崎駅を結ぶ東急バス(ほぼ国道1号に沿って走っています)の多摩川大橋から歩くことにしました。

武蔵新田コース         


詳しくは地図を参照して下さい。

1 松尾芭蕉の句碑 大田区多摩川2-13-4

 JR五反田駅東口から川崎行きのバス(系統反01)に乗り多摩川大橋で下車し、進行方向三つ目の角を左に曲がって2区画程歩くと、右手に多摩川2丁目児童公園が現れます。句碑はこの中に、あります。句碑には
 「梅香に のっと日の出る 山路かな」
という句が刻まれています。
2 矢口の渡し跡 大田区矢口3-17-3付近

 児童公園を出て南(川崎方向)に向かうと多摩川の土手にぶつかります。土手を登り、川上に向かい多摩川大橋をくぐった辺りが矢口の渡し跡です。
 昭和24年に多摩川大橋が完成するまで、古鎌倉街道の一部として、矢口の渡しが使われていました。新田義興(よしおき)伝説の頃は、多摩川は新田神社の近くを流れていたと伝えられています。和田英作の油絵「渡頭の夕暮れ」は、この渡し場の明治期の風景を描いたものです。
3 東八幡神社 大田区矢口3-17

 矢口の渡し跡から再び北に向かうと、川岸から見えるところに東八幡神社があります。創建は建長2(1250)年といわれ、祭神は応神天皇です。源氏の氏神として、また武士の守り神として参拝されました。立ち寄ったときも正月で氏子達が集まっていました。
 残念なことに江戸時代に再建された社殿は、第2次大戦の戦火で失われ、狛犬だけが残されました。
4 十寄(じゅつき)神社 大田区矢口2-17-28

 東八幡神社の西側(神社に向かって左側)の通りを約600m北進すると、17番地の区画が現れ、中程にこの神社があります。新田義興および多摩川で討ち死にした13名の家臣が祀られています。葬られたのは10名と伝わりますが、13名がご祭神として名を連ねています。
 願い事があるときはまず十寄神社に参拝し、それから新田神社に向かうと叶えられるといいます。
5 新田神社 大田区矢口2-17-28 TEL. 03-3758-1397

 17番地の西側をさらに約200m北進すると、左側に新田神社が現れます。新田義興*(下の欄外参照)を祭神とし、今年(2008年)が鎮座650年で、秋には大祭があります。境内にはご神木(けやき)や、義興公を埋葬したと伝えられる御塚(おづか)があります。またグラフィックデザイナの浅葉克己氏の制作した石の彫刻「LOVE神社」と石の卓球台があります。
6 頓兵衛地蔵 大田区下丸子1-1-19

 新田神社の入り口を約300m北進し東急多摩川線武蔵新田の西側の踏切を渡ると左手の、線路を背にしたところに頓兵衛地蔵があります。頓兵衛とは謀略に加担した渡し守の名前です。義興を供養する地蔵を建てたといいますが、実は頓兵衛は「神霊矢口渡」に登場する架空の人物です。そのため、頓兵衛地蔵も江戸時代のものではないかといわれています。
7 妙蓮塚三体地蔵 大田区下丸子2-1-8

 頓兵衛地蔵を過ぎて直進するとガス橋通りにぶつかります。この通りを左折してガス橋に向かうと右手に目蒲病院が見えてきます。病院の手前を左折したところに妙蓮塚三体地蔵があります。沈みかけた船から脱出し、多摩川を泳いで応戦した義興の家臣が、3人いました。彼らは数百騎の中に斬り込み、3人を討ち取り、13人に負傷をおわせて果てます。村民が3人を葬り、後に妙蓮という尼僧が地蔵を祀ったため、この名がつきました。
8 蓮光院武家屋敷門 大田区下丸子3-19-7

 妙蓮塚三体地蔵からガス橋通りを環8の方へ1区画戻り、左折して約100m進むと蓮光院の武家屋敷に出ます。天正2(1574)年に本尊大日如来を安置したといわれています。六阿弥陀第5番の札所として信仰を集めてきました。
 山門の武家屋敷門は江戸末期に作られたもので、都の指定文化財になっています。 

最後の蓮光院からは東急多摩川線の下丸子がすぐ近くです。また「本の紹介」の「昭和のくらし博物館」も直ぐ近くです。

* 新田神社の御祭神の新田義興は南北朝時代、謀略にはまり、矢口の渡しで自害しました。義興は南朝の新田義貞の次男で、北朝の足利尊氏を倒して南朝を再興しようとした人物です。尊氏の死を機に武蔵国に潜入しましたが、足利は逆にスパイを送り込みました。スパイの言葉を信じ、移動を始めた運命の延文3(1358)年10月10日、多摩川の矢口の渡しで、舟に乗った義興と家臣13名は異変に気づきます。川の中央で船頭が船底の栓を抜き逃亡したのです。それを合図に足利の軍勢が一気に攻めてき、義興は謀略に気づいたのですがすでに遅く、自害しました。その後、渡しでは7日7晩雷が続き、火の玉が飛び交いました。祟りと恐れた村人は義興を祀り、これが新田神社の起源です。歌舞伎の「神霊矢口渡」はこの伝説を元にした平賀源内の原作です。

[参考図書]
(1) 大田区観光ガイド 株式会社 ハーツ&マインズ 発行 (2007.12.20)
(2) 東京史跡ガイドJ 大田区史跡散歩 新倉善之著 学生社発行(1998.7.15)

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[Last Updated 2/29/2008]