本の紹介 昭和のくらし博物館



小泉和子著

河出書房新社発行

昭和くらしの博物館地図

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    目 次

0. 本との出会い
1.
  
序 くらし はるなつあきふゆ
2. 本の目次
3.  おわりに
4. 著者紹介

0. 本との出会い
 私の家から自転車で行ける距離に、この博物館があることを知り行ってみました。最初は住所の南久が原を、ただの久が原と間違えて、近くにある久が原図書館の喫茶で訪ねたところ、博物館のある場所の地図を貰いました。こういうことに興味のある方には是非訪れていただきたい設備で、本も大変参考になりました。というより戦後の生活を想い出させるような、懐かしい内容でした。

1.
序 くらし はるなつあきふゆ
●昭和26年、私の一家はこの家に引っ越してきた
 私の一家が、亡父が設計し、住宅金融公庫の融資を受けて建てたこの家に引っ越してきたのは昭和26年(1951)である。最初は水道もガスもなかった。隣の地主さんの井戸からもらい水をし、裏口に差し掛けをおろして竃(かまど)を築いた。井戸を掘ったのは一年後、ガスが引けたのはずっと遅く、昭和40年(1965)頃である。
 家族は両親に姉妹四人、長女の私が高校二年生、末の妹が三歳、あいだは小学生と中学生で、その他二階に下宿人が二人いた。当時はまだ食堂も少なく、コンビニなどというものもなかったので、地方出身の独身者はたいてい賄(まかな)いつきの下宿屋に入ったのである。またこのころはわが家と同様、公庫から資金を借りてやつと家を建てた人が多かったので、借金返済のためによく下宿人を置いていた。
 わが家の最初の下宿人は石油会社に勤めるサラリーマンと早稲田の学生だった。朝食と夕食をお盆にのせて二階に運んだ。うちでは洗濯も掃除もしていた。ワイシャツや上着は洗濯屋に出したが、それ以外はシーツでも寝間着(ねまき)でも全部洗った。もちろん無料である。わが家の分もあるから、毎日、山のような洗濯物である。洗濯機のない時代、母と私が交代で、地主さんの井戸端(いとばた)にしゃがんで半日がかりで洗濯をした。
 当時はまだご用聞きの時代だった。ある日幼い妹が「せんたくやのおにいさんに洗ってもらっちゃった」と言っ掌(てのひら)に入りそうな小さな人形の服を持ってにこにこしている。隣の女の子とござを敷いてままごとをしていたところへご用聞きに来たので、ふざけて差し出したら、洗ってアイロンまでかけて持ってきてくれたのだという。こんな童話のようなこともあった。

●日々のくらしは四季の移り変わりとともにあった
 敷地が55坪、建坪は12坪ほどでけっこう庭が広かったから、畑にして、鶏を飼った。畑仕事は農家生まれの母の仕事であった。春から夏にかけては土起こしや種蒔き、つるが伸びる野菜のためのくね竹(支え)立てなどつぎつぎと忙しかった。肥やしは鶏糞(けいふん)と堆肥(たいひ)、それに下肥(しもごえ)である。便所から汲み出して畑に撒いたので二、三日は「臭い、臭い」とみんな鼻をつまんでいたが、春の苺から始まって、いんげん、トマト、茄子、とうもろこしと、つぎつぎに収穫があるので、臭いなどと言ってはいられなかった。
 飼っていた鶏が脱腸してしまったことがある。叔父が来てつぶしてくれたので、さっそくその夜は私が鶏ガラのスープにした。ところが妹たちが飲んでくれない。腸を引きずってコッコッと歩き回っていた姿を思い出して気持ち悪いし、可哀想だと言うのである。父や母まで渋っている。こっちだってあまりいい気持ちではなかったが、みんなに栄養をと思って作ったのにと、少々腹が立ったので「せっかく作ったんだから飲みなさいよ」ときつく言ったが、それでも「いやだ」と言って飲んでくれない。
 ところが小さい妹だけはお椀に顔を突っこむようにして一生懸命飲んでいる。
「あら、ちいちゃんは飲んでるじゃない、えらいわね」
 と言ってふと見ると涙がこぼれそうになっている。お姉さんが気の毒で我慢して飲んでいたのである。
 夏休みには小さいいとこたちが大勢泊まりにきた。盥(たらい)で行水(ぎょうずい)をさせたり、西瓜(すいか)を切ってやったり、大騒ぎだった。ご飯のときはみんなでちゃぶ台のまわりに膝小僧を並べ、茶碗で顔が隠れるようにして食べた。大したおかずもなかったが、あのころの子供は文句も言わなかった。
 冷蔵庫もなかったから、よほど暑い日には大きい妹が一同を引き連れて氷を買いに行った。風呂敷からぼたぼた水をたらしながらにぎやかに帰ってくると、さっそく「ブッカキ」である。丼(どんぶり)に盛って砂糖をかけてやると、大喜びで丼を抱えて縁側に腰かけて舐(な)めていた。
 秋は着物の仕立て直しと半纏(はんてん)や布団(ふとん)の手入れが大きな仕事だった。母はもちろん、父も家ではまだ着物だった。冬は半纏を着たので、母は毎年、じゅんぐりに仕立て直さなければならなかった。夏のうちに洗い張り(あらいはり)をしておいた布を縫って、綿(わた)を入れるものには綿を入れる。手拭(てぬぐ)いをかぶった母が遅くまで綿入れをしているので夕食の支度は私の役目だった。竃を燃やしながら当時流行(はや)っていたロシア民謡を歌っていると、メロディがさびしいのが嫌だったのか、小さい妹によく手で口を塞がれた。
 風呂はかなりあとまで銭湯だった。冬は半纏を着て、洗面器を風呂敷に包んで、みんなで出かけた。まだシャンプーではなくて髪洗い粉だった。十二単(ひとえ)の絵がついた三、四センチほどの四角い紙包みになっていた。それさえ節約して半分ずつ使った。
 風呂のない家が多かったから銭湯はいつも混んでいた。女湯の場合、カランの前をひとたび占拠すると、上がるまではその人の権利だという不文律がある。このため湯漕(ゆぶね)に入るときには桶(おけ)を並べておいた。なかには桶と桶のあいだに手拭いまで渡しかけて、しつかり縄張りをしていく人もいた。あるとき父にこの話をしたら、驚いて、「ヘー、男湯じゃ、あとから来た人が前の人の桶をどけて座っちゃうよ」と言ったので、こっちもびっくりしたことがある。
 正月はまた親戚が大勢来た。このため暮れは御節(おせち)料理作りである。煮しめもなますも大きな甕(かめ)にいっぱい作った。隣近所で一緒に餅つきもした。
 大掃除をして、御屠蘇(おとそ)を用意して、家族の新しい下着をそろえているうちに、池上の本門寺や近くの光明寺でつく除夜の鐘が聞こえ出す。
「さあ、いよいよ今年もおしまい、お風呂に行こう」と言って銭湯に行くと、帰りにはもう「明けましておめでとうございます」と挨拶を交わす時間になっていた。 

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2.目 次
序 くらし はるなつあきふゆ  4

第1章
昭和のくらし博物館 9
1 初期の公庫住宅 10
2 茶の間の情景 16
3 なつかしの氷冷蔵庫と米櫃 20
4 パン焼き鍋は航空機用のアルミ 24
5 宴会は家で 26
6 大活躍した盥 30
7 銭湯通い 32
8 小泉家に残る戦争 36
9 欲しかったミシン 40
10 冬は綿入れで 44
11 女は縫い物 48
12 張り物は夏の風物詩 52
13 男性は帽子 54
14 洋髪でおしゃれ 56
15 家庭看護の充実 58
16 家でお産 62
17 おもちゃは手作り 64
18 観光旅行の始まり 66
19 絵はがきを楽しむ 68

家族のアルバムより 70

コラム 昭和の食生活史 72
コラム 夏と食べ物 76

第2章
道具とくらし 79

1 弁当箱 80
2 ちゃぶ台 83
3 フライパンと中華鍋 96
4 西洋皿 89
5 テーブルクロス 92
6 電気冷蔵庫 95
7 ガラス窓 98
8 腰掛便器 101
9 椅子 105
10 藤椅子 108
11 蚊帳 111
12 三つ重ね桐箪笥 114
13 仏檀 117
14 火鉢と炬燵 120
15 ミシン 125
16 綿 129
17 電気洗濯機と石鹸 132
18 掃除道具 135

コラム 昭和30年代・くらしと道具 138
コラム 昭和の冷房生活史 142

おわりに 父の建てた家を博物館として 147
年表   昭和のくらしの移り変わり 158

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3. おわりに
父の建てた寮を博物舘として

●身近にあったケンチク
 私の亡父は建築技師だった。東京市役所で学校建築にたずさわり、戦後は進駐軍住宅の建設のために設けられた特別調達庁というところに出向したり、そのあとは住宅金融公庫の仕事などをやって、やめてからは民間の建築会社に入って設計とか積算(せきさん)などをしていたらしい。ともあれ「建築家」などと呼ばれるほどの人ではなく、下積みの一技術者として一生を終えた人間である。だがそれでも振り返ってみると、私は子供のときからケンチクというものに親昵(しんじつ)していたように思う。
 小学生のときから毎月父のところに送られてくる『建築雑誌』を愛読?していた。昔の『建築雑誌』は、いたって地味な、しかもいまよりはるかに工学専門的な雑誌だったように思う。子供が読めるようなシロモノではなかったが、中に入っている建築の写真が楽しみであった。もちろんモノクロだったが、当時、つまり昭和10年代(1935〜)はモダンな鉄筋コンクリートの建築が流行していたのか、竣工なったばかりのスマートな建築がきりつと写っている写真がとてもステキだった。
「犬走(いぬはし)り」なんていう言葉も『建築雑誌』で覚えた。たしかによく犬は軒下の溝の内側の細いところを尻尾(しっぽ)を振り立てて走って行く。造語のうまさに子供ながら感心したものである。
 最近は図面を書くのにもコンピューターを使っているようだが、父の時代はすべて手描きだった。小学校の二、三年くらいのことだったと思う。いま思えばなにかのコンペ(設計競技)にでも出したのかもしれないが、煉瓦建ての壁の煉瓦を、一つ一つ茶色に塗った小さい紙で貼っていたことを覚えている。下地に薄く線が引いてあって、その上にまるで煉瓦を積むようにして、ピンセットでつまんで、紙の上に出してある糊の上をちょつとかすめるようにして、毎日、貼っていた。だんだんに煉瓦が積まれていって、最後にまわりの小さい草を描いたり、白い雲が浮かんでいる空ができてくると、嬉しくて息が詰まるようだった。
「落成式」という言葉もわが家ではしばしば聞く言葉だった。中学校や女学校の建築は東京市が担当していたので、落成式には担当者も招待された。そんな日にはよく、大きな鯛が入っている折り詰めの御馳走をお土産にもらってきた。
 上野にある忍ヶ岡高等女学校の落成式のときのことである。出された料理で市の職員全員がチフスに罹(かか)ってしまった。当時父は胃弱で少食だつたので、これがさいわいして一命をとりとめたが、同僚の中には亡くなった方もいる。白衣を着た人が五、六人やって来て、家中にポンプで消毒液を撒きかけて、父を車に乗せて連れて行った光景が記憶にある。しかしこのときの校舎はもはや建て替えられてしまったようである。

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●牛小屋の改造
 戦時中は、小石川の家が強制疎開にあって、母方の親戚の横浜の子安というところに疎開した。ところがここも昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲で罹災(りさい)してしまったので、同じ横浜だが、鶴見の山の中に再疎開した。やはり母方の親戚だったが、この家は代々宮大工(みやだいく)だったので、屋敷の中に木小屋(きごや)や細工場(さいくば)などの建物が何棟か建っていた。ただし、そこはすでに焼け出された
 親戚で満員だったので、やむなく牛小屋を借りて改造することにした。力のいる、むずかしいところは専門の職人に手伝ってもらったが、大部分は病弱な父が長女の私を手伝わせて改造した。手伝うといっても、釘を探すとか−新しい釘がなかったので、古い釘の中から使えるものを拾い出すのである−、掃除くらいで、小学生版「天うらら」であったが、いまから思えばこのときに日本建築?の基礎を勉強したことになる。
 とにかく床だけは張らなくてはならないということで、「大引(おおび)き」とか「根太(ねだ)」を覚えた。天井までは手もまわらないし、材料もなかったので「化粧屋根裏」のままとしゃれることにした。壁の「筋交(すじか)い」のところには釘を打って鏡をぶらさげた。入り口の前には「土庇(どびさし)」をつけ、入つたところは土間のままで、煉瓦で竃(かまど)を築き、板壁の一部に穴を開け、煙出しのために「無双窓」をつけた。
 天井がないので、寝ていると上から大きな百足(むかで)が襟元にドサリと落ちてきたりして、夜中に大騒ぎした。

●工夫・節約いっぱいの父の設計
 戦後の混乱も一応おさまったころ東京に戻った。一時、知り合いの会社の寮を借りていたが、昭和25年(1950)に住宅金融公庫の融資制度が始まったので、さっそく大田区に土地を借りて家を建てることにした。もちろん設計は父である。このとき父はちょうど東京都で住宅金融公庫の審査を担当していた(ただし自分の家は他の人がする)。金融公庫の審査基準は担保物件としての構造的価値を査定することにあったそうで、自分の家はことさら厳格にしたという。「土台には栗を使ったから100年たっても大丈夫だよ」と言っていた。
 そのかわり材料を節約するためにいろいろと工夫した。たとえば、二階建てには10尺の柱を二本使うところ、建物の端になる部分だけは15尺の柱を使って通し柱にする、するとその分だけ材料が節約になるのである。ただ家の端のところはそれだけ天井が低くなるが、それはデザインでごまかすとか、床に使う大引きを切らずにそのまま使うと、畳を敷いたとき少し空間ができる。そこに板を張ればその分だけ部屋が広くなるとか、天井板が買えなかったのでベニヤ板を張ったのだが、それだけだといかにも仮設住宅のようになってしまうので、継(つ)ぎ目(め)に二つ割りにした錆竹(さびだけ)を用いて茶室風にしたり、また階段の裏や上(あ)がり框(がまち)の下など、どんなすき間もすべて物入れに利用した。このため農家の生まれで広い家に育った母など、「おとうさんの設計はせせっこましくて」とこぼしていた。
 その後、昭和41年(1966)には縁側(えんがわ)つきの六畳を増築し、傷んだところを手直ししながら住んできたが、私たち姉妹も一人を除き、順次この家を出て、父も亡くなった。そこで平成4年(1992)に寝たきりになった母と妹の老後のために再び増築部分の建て直しをおこなったが、完成直後、思いがけないことに妹が急死してしまった。このため母は私の家に移り、家は無人になってしまったのである。

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●戦後住宅史の実物資料
 さて家をどうするか。売るといってもこんな古い家を好きこのんで買う人もないだろう。しかし50年間風雪に耐えて私たち一家を守ってきてくれた家である。むざむざ壊してしまうには忍びない。それにいまやこの時期の家はほとんど残っていないという。東京大学の松村秀一先生によると、現在ある4594万戸の全住宅のうち、わずか2%ほどだそうである(『毎日新聞』1988年8月15日付「ストックの時代」@)。するとこの家もその2%の中に入っているわけである。
 加えてこの家は住宅金融公庫の融資を受けて建てた最初期の住宅である。住宅金融公庫の制度は当否は別として、政府がとった戦後の住宅政策の中で一つの大きな柱となってきたものであるから、その意味では戦後住宅史の実物資料だといえる。そのうえ、設計したのは公庫の審査基準を熟知していた父である。いかに経済的に、丈夫で無駄のない家を作るか、その合理性に知恵を絞った一つの模範答案だともいえる。してみるとそれこそ吹けば飛ぶような茅屋(ほうおく)だが戦後の庶民住宅として残しておくのも意味があるのではないか。
 そのうえ、家財も衣類もそっくりそのまま残っている。竃もあるし、厚い蓋がのった鉄の釜もある。火鉢もあるし、張り板や洗濯板も残っている。母が物持ちがよかったのと、貧乏だったので新しい物に買い替えられなかったためだが、結果的には高度成長期以前のくらしがまるごと残ることになった。そこで思い切って、無理を承知でこの家を家財ごと「昭和のくらし博物館」ということにして残すことにしたのである。

●昭和のくらしを考える場所に
 考えてみると周知のとおり、昭和という時代は日本歴史上未曾有の激動の時代であった。昭和恐慌で幕を開け、日中戦争、太平洋戦争と、前半の20年はあいつぐ戦争とファシズムの嵐が吹き荒れた時代で、自ら引き起こした戦争によって自国にも相手の国にも計り知れない大きな犠牲を強いた。
 この反省に立った後半の戦後40年余りは、戦争放棄・主権在民の新憲法のもとで民主主義の国として出直し、経済的繁栄を遂げた時代である。戦後の日本経済は重工業を基本とする産業構造の高度化に成功し、驚異的なスピードで経済発展していった。これにともなって、社会構造は激変し、人々のくらしも急速に向上していったが、一方では激しい社会的ひずみやさまざまな問題を引き起こしていった。そして天皇の死をもって昭和という時代は終わったが、このことが示すように天皇制によって戦前の明治憲法とつながっていたのも昭和という時代の一側面であり、これはいまなお変わっていない。
 こうした時代の激流に翻弄されつづけてきたのがくらしである。くらしは人間が生きていくうえの基礎であるが、人間を大事にするという思想がしっかり確立していない日本では、くらしも重視されず、なにかあるとまず犠牲にされるのがくらしである。それも庶民のくらしである。わが家なども昭和の時代とともに、時代の波に翻弄されて生きてきた。なんらの特権も持たない無力な両親にとっては苦労の連続だったし、荒波を防ぎきれない両親のもとでは私たち子供も否応なしに時代に対峠せざるをえないことが多かった。
 しかしそのわが家とて日本という国の構成員という点からみれば国家が犯した罪から逃れることはできないであろうし、また現在の私たちのくらしも、アジアの国々をはじめとして発展途上国の人々のくらしを踏台にして成り立っていることを忘れるわけにはいかない。どこの国の人のくらしも冒してはならないし、また冒されてもいけないのである。
 ではどうしたらいいか。それは私たち日本人が平和憲法を守ること、そして自他とものくらしを大切にしていくことではないか。そのためには、私たちは戦後どのように生きてきたかをいま一度あらためて考え直す必要があるのではないか。私たちはどこでどう踏み間違えたか、なにを反省し、なにを育てなければならないかをよく考えることであろう。
 このためにまことにささやかな施設ではあるが、ここを庶民住宅の資料として残すと同時に、昭和のくらしについて考える場所として使っていきたいと希(ねが)っている。

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4. 著者紹介
小泉和子(こいずみ・かずこ)
1933年、東京生まれ。女子美術大学芸術学部洋画科に学ぶ。1970年から5年間、東京大学工学部建築学科建築史研究室の研究生となり、日本家具・室内意匠史の研究を行う。現在、生活史研究所主宰、昭和のくらし博物舘館長、重要文化財建造物の家具・インテリアの復元および博物館・資料館の展示企画などを行っている。工学博士。主な著書・訳書に『和家具』(小学館)、『家具と室内意匠の文化史』(法政大学出版局)、『箪笥』(法政大学出版局)、『TRADITIONAL JAPANESE FURNITURE』(講談社インターナショナル)、『家具』(近藤出版社)、『道具が語る生活史』(朝日新聞社)、『図説イギリスの生活誌』(監訳、原書房)、『イギリスの家具』(翻訳、西村書店)、『ランベルト君の徒弟日記・仕事ばんざい』(編著、中央公論社)、『台所道具いまむかし』(平凡社)、『室内と家具の歴史』(中央公論社)、『昭和台所なつかし図鑑』(平凡社)、『道具と暮らしの江戸時代』(吉川弘文館)、『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局)。

田村祥男(たむら・さちお)
1943年、東京生まれ。東京綜合写真専門学校卒業。1972年個展「佐渡に生きる」1976年個展「佐渡人」など。画家利根山光人氏に強く影響を受け、タイ、インド、台湾の取材に同行。同氏死後、北上市利根山光人記念館の企画・展示を1996年より担当している。

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[Last updated 5/31/2001]