宮本常一は終わらない

トップページに戻る

総目次に戻る

2008年10月の「みんなの広場」に戻る

「旅する巨人」に戻る

宮本常一(1907〜81) みやもと つねいち

人間のエネルギーは文献のなかからはさがしようがない
 要するに文献ではさぐりあてられないものがたくさんあるということですわね。(中略)人間のエネルギーは文献のなかからはさがしようがないんですね。
 (『旅の民俗学』/河出書房新社)

[足 跡]
 1907年8月1日、山口県生まれ。27年、大阪の天王寺師範学校を卒業し、小学校教師などのかたわら、古老の聞き書きを始める。35年、アチック・ミューゼアムを主宰する実業家・渋沢敬三と出会い、39年以降、渋沢方に寄宿。民俗調査で日本列島全域を歩く。離島振興法の成立に尽力し、54年、全国離島振興協議会事務局長に。65年、武蔵野美術大教授に就任。66年には日本観光文化研究所を開設し、PR誌「あるく みる きく」などの編集を通じて、多くの後進を育てた。81年1月、胃がんで死去。

[いま読むなら]
 まとまったものでは『宮本常一著作集』(49巻まで既刊+別集2/未来社)がお薦め。写真と探訪記録を基に各地の暮らしをつづった『私の日本地図』(同)も刊行中(全15巻/「瀬戸内海V 周防大島」など2冊が既刊)。代表作『忘れられた日本人』は岩波文庫で、自伝と言うべき『民俗学の旅』は講談社学術文庫で。写真をまとめたものに『宮本常一 写真・日記集成』(毎日新聞社)、『宮本常一写真図録』(第1集既刊/みずのわ出版)、ブックレット『宮本常一の見た府中』(府中市郷土の森博物館)などがある。

[本 文]
 去年は民俗学者・宮本常一の生誕100周年だった。『著作集』を含め、現在入手できる関連書籍は100冊以上。今や空前の「宮本ブーム」と言ってもいいだろう。
 中でも最近注目されているのが、彼が残した、10万枚にものぼる写真データだ。
 ノンフィクション作家・佐野眞一が著書で「旅する巨人」と呼んだ宮本は、日本列島約16万キロメートルを歩き、土地土地の人々の話を聞くかたわら、風俗や風景などをハーフサイズのオリンパス・ペンなどで写して回った。昭和の30年代の写真が多<残されている。
 「宮本常一 写真・日記集成」の編集に携わり、それらを通覧した編集者・伊藤幸司は、「写真は宮本さんにとって、記憶そのものだった」と話す。うまく撮ってやろうとかいうんじゃなくて、たとえばある集落の家並みを端から全部撮っている。だから、宮本さんの写真は、1枚1枚ではなく、一つの塊として見ないと」という。
 撮影から40年近くをへて、今、この「記憶」としての宮本写真は輝きを増している。

あるくみるきく全国各地で実践
 山口県・萩博物館主任学芸員の清水満幸は今春まで、宮本が写した写真と、同じ場所の現状などを比べた企画展・宮本常一のまなざしを迫って・萩」を開いた。宮木さんは家々の洗濯物とか、土他の人が、あたり前過ぎて記録しなかったものを撮った。彼が写したことを置いても、その地の60年代のデータとして貴重なんです」
 この2年、清水はボランティアたちと宮本の撮影現場を訪ねて回ったという。「変わった場所もあれば、ほとんど変わらない所もあった。そして『なぜそうなったか』を考えることで、土他の変遷が見える。宮本写真は地元の人に地域を再発見してもらうたための貴重な材料になるんです」
 こうした試みは全国に広がる。中心は、宮本の故郷・山口県周防大島に設立された周防大島文化交流センターだ。
 遺族寄贈の約10万枚の写真を台帳やデジタルデータで保管。要望に応じて貸し出す。「05年の東京・府中での展覧会が最初で、新潟、北海道、広島……。キャプションについてはわからないことも多いので、逆に教えてもらっています」と学芸員の高崎裕太。宮本さんが実践したあるく・みる・きくという手法、さらには情報を得るだけでなく、話を聞いた土地に、お礼に何かを残してくるという姿勢には、学ぷべき点が多い。地元の小学校などで講演する時は、そのへんを重点的に話しています」

あっちこっちに首突っ込んでる
 宮本は50年代、全国離島振興協議会の事務局長として活躍。離島振興法を成立させ、島に橋をかけ、電灯をともし、道路を作った。山口県の周防猿まわし復活を支援したり、特産品の生産を奨励したり、後半生は研究者の枠を超えた仕事が目立つ。
 「話していると、この人についていこう、この土地で生きていこうという自信がわいた。地域を育て、共に成長しようとする人でした」と周防大島町議の新山玄雄(にいやましずお)。
 宮本常一関連の書籍を多く手がける、みずのわ出版(神戸市)代表の柳原一徳も「どえらい人やけど、ミーハー。ほんま、あっちこっちに首突っ込んでる」と話す。
 12年前、佐野の『旅する巨人』(文芸春秋)が出版されるまで宮本は一般に「忘れられた」存在だった。今も学界内の評価は決して高くない。
 文章は読みやすく、わかりやすい。著書も多い。だが、「大半がエッセーふうで、研究書や論文としては使えないんです」と、東京・府中市郷土の森博物館学芸員の佐藤智敬(つもたか)。また、「記憶やメモで書いていることが多く、事実誤認も少くない」という。
 「でも、写真など、残された資料群の価値を疑う人はいないはず。読み解く人によっては、いくらでも宝探しができる。そんな可能性を秘めた研究者ではないでしょうか」
(宮代栄一)  =文中敬称略

「常に人を訪ねて行く」 姫田 忠義さん(民族文化映像研究所所長)
 宮本先生に会ったのは54年です。新聞に載った先生の文章を見て、ぜひ話を聞きたいと思い訪ねました。僕は26歳、先生は47歳ぐらい。初対面なのに丸1日、夜の9時過ぎまでぷっ通しで、瀬戸内海の庶民の暮らしを話してくれた。
 民俗学なんて学問は知らなかったのですが、人の生き方、生活の仕方を綿密に見る人だ」と思いました。同時に「この人はおれの師匠だ」とも思うたんです。座っているんじゃなくて常に人を訪ねて行く。生き方がしっくりきた。
 65年ごろ、「日本の詩情」という週1回のドキュメンタリー番組を先生の監修で作った。いつも言っておられた言葉が「事実を描写せよ。それが民族文化の基層を映像で記録する今の仕事へもっながるわけです。ただ僕は現場を飛び回っていたので、あまり一緒にはいられませんでした。
 最晩年、こんなふうに言われました。「人の登場しない、自然そのもののドラマを書きたいな。」膨大な著作の奥にあるもの。僕はそれを感じましたね。
(出典 朝日新聞 2008.10.19)

2008年10月の「みんなの広場」に戻る

「旅する巨人」に戻る

 

トップページに戻る

総目次に戻る

[Last Updated 12/31/2008]