旅する巨人
宮本常一と渋沢敬三

  目 次

1. まえおき
2. 本の目次
3. あとがき
4. 著者紹介
5. この本を読んで
6. 参考図書


佐野 眞一著
発行所 株式会社 文藝春秋

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1.まえおき
 私の履歴書・2008年5月・民俗学者谷川健一に「宮本常一」の名前が出て知りました。2008年10月11日のNHK週間ブックレビューの特集に、佐野眞一さんが登場しました。この時は別の最新作が話題でしたが、氏の作品の中に、この本があることを知りました。宮本常一さんに興味を持っていたので、図書館で借りて読んでみました。かなり厚い本ですが、期待したとおりの内容でした。その後でたまたま朝日新聞に氏を紹介する記事が載り、何冊かの著書を読みました。

2. 本の目次
第1章 周防大島         7
第2章 護摩をのむ       27
第3章 渋沢家の方へ     50
第4章 廃嫡訴訟        69
第5章 恋文の束        93
第6章 偉大なるパトロン   106
第7章 父の童謡        139
第8章 大東亜の頃      161
第9章 悲劇の総裁      182
第10章 "ニコ没"の孤影   202
第11章 萩の花         219
第12章 8学会連合       238
第13章 対馬にて        255
第14章 土佐源氏の謎     279
第15章 角栄の弔辞      304
第16章 長い道         323
    あとがき        350
    関係人物略年譜   358  取材協力者一覧 368
    主要参考文献一覧 370  人 名 索 引 397

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3. あとがき
 平成8年1月30日夜、東京・国分寺にある東福寺で、民俗学者・宮本常一を偲ぶ会が開かれた。この日は宮本の15回目の命日にあたり、宮本の弟子筋にあたる人々30名あまりが宮本の葬儀が行なわれたこの寺に集まった。死後15年たってもこうした集まりが開かれること自体、宮本の生前の人柄が偲ばれた。その席には、生前の宮本を知らない20代の若者も何人か出席していた。
 その1人で、ある大学院に通う若者は、故郷の土佐に帰省する車中でたまたま読んでいた『忘れられた日本人』が、宮本と出会った最初のきっかけだったといった。そのなかの1編の「土佐源氏」に衝撃を受け、そのまま途中下車して、その話の舞台となった土佐山奥の村まで、矢も楯もたまらず訪ねて行き、その後も、『忘れられた日本人』の舞台となった土地を一つ一つ、寝袋を担いで訪ね歩いているという。
 私はその若者の話を聞いて、はじめて『忘れられた日本人』を読んだときの感動を思い出した。
 その本の奥付をいまあらためてながめると、昭和35年の刊行とあるから、私が最初にそれを読んだのは、中学一年のときだった。
 世の中は安保闘争で激しくゆれ動いていた。その一方で、日本の経済は確実に高度成長に向かってひた走っていた。だが、『忘れられた日本人』のなかの愛惜こもる話には、安保も高度経済も影すらなかった。幼い読解力で全部理解できたとは思わなかったが、私はその"反時代性"に圧倒された。
 そこには、近代化によって忘れられた辺陬(へんすう)の地の人々の身体と生活の記憶が、驚くべき平易さと深さをもって描かれていた。何よりも、いま目の前で人々の息づかいが聞こえるような描写力に打ちのめされた。
 宮本の文体はしばしば饒舌で冗長だといわれる。たしかに宮本の文体には、柳田国男の天才的ひらめきも、折口信夫の幻想文学を思わせる憑依の世界もみあたらない。しかし、宮本の欠点といわれる抽象世界に飛翔しない即物性も、私にはむしろいさぎよさに映った。
 その後、会おうと思えば会うことができた宮本に、とうとう会わずじまいになってしまったのは、正直にいって、会うのが恐ろしかったからである。日本じゅうの村という村、島という島を歩いたという伝説をもつ人物に会えば、頭でこねあげた学生の観念性などひとたまりもなく打ち砕かれることは、火をみるより明らかだった。
 宗教学者の中沢新一や建築学者の石山修武が私と同様の感想を抱き、遠くから宮本を眺めていたことは、ずっと後になってから知った。
 宮本の著作を読むにつれ、私は宮本を単なる民俗学者ではなく、徹底的に足を使って調べるすぐれたノンフィクションライターだと思うようになっていた。私が現在の仕事についたのも、『忘れられた日本人』をはじめて読んだときの衝撃が、どこかしら尾を引いている。
 後年、宮本は武蔵野美術大学の教授になるが、その門弟たちは口々に、一つの風景から膨大な情報を読みとる宮本の深々とした眼差しについて、驚嘆をこめて語った。たとえばある野菜が植えられた畑をみただけで、宮本はその集落の経済のレベルと、その集落の歴史的変遷を的確にいいあてた。
 一つの風景から、膨大な情報を紡ぎだすその能力は、私の職業とも無縁ではない。
 宮本はそれだけではなく、全国行脚で得た知識と情報と技術を、他の集落に伝え歩いて指導する、一種の文化伝播者の役割も自らに課した。柳田国男は日本民俗学を、日本という国土にすでに生まれた者、現存する者、そして将来この国に生まれる者のための学問と定義したが、宮本はその意味で、学風は大きく違っても、柳田の正統的継承者だったということができるだろう。

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 そうした信念をもって日本中をくまなく歩いた宮本の生涯は、知れば知るほど、私にとって大きな励みとなった。宮本が伝える情報は、現われてはすぐ消える昨今のバブル情報ではなく、さわればはちきれそうな実質がぎっしりとつまっていた。
 マスメディアの発達は、流されたとたん消費される刹那的な情報を垂れ流すだけの役割しかもたらさなかった。これに対し宮本には、歩いた土地から得た情報によって人々の生活を豊かにするという明確な目的意識があった。いや、宮本のもたらす情報そのもののなかに、豊かさがすでにはらまれていた。
 しかしそれ以上に私が宮本に親近感をもったのは、小学校の教職員についた戦前の一時期をのぞいて、昭和40年、58歳で武蔵野美術大学の教授になるまで、宮本が定収入の道を一切もたなかったことである。身分と収入の不安定は、私にもずっとつきまとっている問題だった。
 一方で、柳田国男以後最大の業績をあげながら、一方で宮本は、日本全国を野宿覚悟でうろつき歩いた無給で、宿無しの中年男でしかなかった。
 私にはその姿勢が、いわば、恐ろしいほど該博な知識を身につけた"フーテンの寅さん"にも似た存在に思えた。私が宮本の目指した学問的世界より、宮本それ自身に強い興味をおぼえたのは、そのためだった。
 私が宮本の評伝を書こうと思ったのは、子供の頃の読書体験や、私自身の職業との近似性のせいばかりではなかった。
 宮本の若い頃の履歴は、実は平成5年暮れに死亡した私の義父と酷似している。私が宮本に興味をもったのは、一つにはそのためもあった。
 宮本より三つ年上の義父は、平家の落人村として知られる徳島県祖谷山の出身だった。代々家は裕福だったが、義父の父の代に没落し、親戚を頼って大阪に出た。
 入ったのは宮本と同じ逓信講習所だった。義父は生前、モールス信号を打っているとき、うしろから一声でもかけられると、頭のなかが真っ白になって何もわからなくなってしまった、とよく語った。
 それだけ集中力を要したということだろう。まだやわらかい頭脳をもっている少年でなければとてもつとまらない職業だったという。
 義父が郵便局をやめたのは、宮本と同様、同僚たちが結核でバタバタ倒れたためだった。あんなところに長く勤めていたら必らず使い殺された、というのが、死んだ義父の口癖だった。
 幸い義父は結核にはかからなかったが、北野中学に通っていた弟が結核に感染した。病原菌が家族に伝染するのを恐れた義父は、妹たちを郷里に帰し、弟の面倒をひとりで見たが、結核菌はやはり弟の若い命を奪った。
 郵便局をやめ、その後、郷里の祖谷で小学校の教師をつとめるかたわら、民話を採集して歩いたことも、宮本ほど有名になれなかったことを別とすれば、宮本のその後の経歴とよく似ていた。
 私は宮本の人生に、義父の人生も重ねあわせていた。宮本が若い頃いた大阪民俗談話会のメンバーとかなり頻繁な手紙のやりとりがあったことも、この取材を通じてはじめて知った。

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 宮本の生涯を追っていくうち、渋沢敬三という巨大な存在が、私の視野にせりあがってきた。柳田国男や折口信夫と並ぶ大民俗学看であり、同時に、日銀総裁や大蔵大臣をつとめた経済人でありながら、いま彼の名を知る人はきわめて少ない。渋沢敬三もまた、宮本同様、いつの間にか、"忘れられた日本人"の範疇に組みいれられていた。だが、もし渋沢敬三がいなければ、宮本の業績は間違いなく生まれなかった。そればかりか、民俗学及び民族学をはじめとする日本の人文分野の学問の発展もなかった。渋沢敬三が学問の発展にかけた物心両面にわたるパトロネージュ精神は、それほど大きなものだった。
 昨今、メセナといわれる企業の文化事業支援活動が盛んだが、敬三のパトロネージュ精神は、短期間で結果を求めるそれらの活動とは雲泥の開きをもっている。敬三の目は、明らかに百年先、2百年先を見据えていた。敬三が宮本に短兵急に結論を出すのではなく、ひたすら日本列島を歩き、そこに生きる人々の生きた声をできうるかぎり集めるようにすすめたのも、そうした息の長いスタンスをもっていたためだった。
 はじめは宮本単独の評伝をと考えていたが、取材をすればするほど、渋沢敬三の存在と意味が大きくなり、渋沢を除いて宮本の評伝は成り立たないと思うまでになった。
"日本資本主義の父"という称号をほしいままにした渋沢栄一を祖父にもち、経済的には何不自由ない子爵家に生まれた渋沢敬三と、瀬戸内海の貧しい島に生をうけ、誇るべき学歴ももたなかった宮本常一は、本来からいえば、交わるべき接点は何ひとつなかったはずである。
 それが、交わるどころか、宮本は敬三とはじめて接して以後、渋沢家の30年近い食客となった。そこに、柳田国男が創設した日本民俗学の本当の位相がひそんでいるような気がした。
 なぜ、出会うはずもない2人が接近し、遭遇することになったのか。それを解くには、単に2人の個人史を追うだけでは足りなかった。私の目はいつしか2人の2代前のルーツにまで遡っていた。

 日本資本主義の基礎を築いた敬三の祖父の栄一と、廃嫡となった父の篤二。伝承世界に寄りそって生きた宮本の祖父の市五郎と、現実世界を生きることの厳しさを教えこんだ父の善十郎。敬三と宮本は、それらの父祖たちから、日本の急速な近代化によってうち捨てられた民俗世界への架橋を、それぞれ違った形で準備されてきた。
 結核という近代の病にとりつかれた宮本は、そこから蘇生する力を求めて、自分の父祖と同様、何代も何代も生きつづけてきたたくましい庶民の民俗世界に飛び込んだ。一方、好むと好まぎるにかかわらず日本近代化の責任の一端を担わされた敬三は、その源泉となった渋沢家の重圧から逃れるため、近代化以前の世界に通ずる民俗学にのめりこんだ。
 2人は身体と精神それぞれの領域で、土着の世界にひかれていった。
 子爵と常民が、巧まずして同じ民俗学という土俵の上で顔を会わせたこと自体に、私は華々しく展開された日本の近代化の裏側で進行したもう一つの静のドラマを感じた。
 私はこの評伝を、ふたりの"忘れられた日本人"の人生と日本の近代化の過程とを、ねじりあわせながら書いたつもりである。
 生まれも育ちもまったく違う2人の関係は、大きく開いたハサミにもたとえられるだろう。民俗・民族学者をはじめとする日本の人文学者は、多かれ少なかれ、そのハサミの間にすっぽりとおさまっている。この評伝に、もし余得があるとするならば、そのハサミを開け閉めすることで、その間にはさまった岡正雄をはじめとする人文学者たちの生態を、タコつぼといわれる閉鎖的な学会内部からではなく、開かれた世俗の高見と低見の両面から、かなり客観的に描けたことではないかと思っている。

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 この評伝を書きおえてあらためて思うのは、この列島にもかつては、誇るべき日本人、美しい日本人がいたという、ある意味できわめて単純な事実である。名誉や栄達を一切望まず、黙々と日本列島のすみずみまで歩いた宮本常一も、豪邸を物納して平然と"ニコ没"生活に甘んじた渋沢敬三も、宝石のような輝きをもっている。
 それにもまして、まだ庶民という言い方が通用していた時代にこの国に生きてきた人々の語る言葉と、自他へのふるまいは、日本列島がかろうじてすこやかさを保っていたことを物語るように、実につましく美しい。
 日本人はついこの間まで、経済成長こそ自己の拡大と信じて疑わず、ひた走りに走ってきた。だが、バブル経済の崩壊で元も子もなくし、日本人の胸にはいま、虚ろな空洞だけが広がっている。それだけに2人が歩いた日本の村々の急速な解体と、大衆と呼ばれるようになった庶民のたしなみの目をおおいたくなるような劣化に思いをいたすとき、いまも、ふいに胸をえぐられるような思いにとらわれてならない。
 本書は『別冊文藝春秋』の215号(1996年春)から217号(1996年秋)まで3回にわたって連載した「三代の過客−宮本常一と渋沢敬三」を、新たに章だてしなおし、一部改稿して加筆したものである。
 雑誌連載中は、重松卓、明円一郎両編集長に、また単行本化にあたっては、出版部の立林昭彦氏にお世話になった。長文の一挙掲載をあれこれやりくりして可能にしてくれた重松、明円両氏には感謝の言葉もない。
 また、取材の便宜をはかってくれた文藝春秋の白石一文、プレジデント社の樺島弘文、中田英明、日経ビジネスの酒井弘樹、資料収集の一部を手伝ってくれたフリーライターの佐藤斎、さらに離島取材のため各方面に連絡をとってくれた日本離島センターの大矢内生気と佐渡テレビの大坂三郎、車の運転をして佐渡の各所を案内してくれた同テレビの迎町圭子、同じく対馬の隅々まで2日問にわたり車で走り回ってくれた厳原町役場の橘厚志ら各氏の厚意に深く感謝申しあげたい。
 最後に、宮本常一の生前の手紙を快く貸してくれたアサ子夫人と、渋沢敬三の弱さを含めたありのままの姿を率直に語ってくれた長男の雅英氏にあらためて御礼述べたい。
 連載終了後、アサ子夫人から、宮本からの私信をおみせすることには随分ためらいがありましたが、今は、あの世こいる宮本もきっと私を許してくれていると思っています、という手紙をもらった。 涙ながらに書いたに違いないその文面に、私はしばし胸つまらせながら、自分の仕事の罪深さに思いをめぐらせた。しかしその一方で、やはり、この仕事をやりとげててよかったという思いが、あらためて強くわいてきた。
 もし、本書が読者になにがしの感動を残すことができるとするならば、それはひとえに、正しい歴史を後世に残すためには包み隠すことはしないといわれた、お二人の雅量の賜物である。
   1996年11月1日                       佐野眞一

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4. 著者紹介
 1947(昭和22)年東京に生まれる。69年早稲田大学文学部卒業。出版社勤務を経てノンフィクション作家に。セックスを視点に不思議の国・日本を捉えた『性の王国』、バブル時代を跳梁跋扈した怪物たちの力の秘密に迫った『昭和虚人伝』、新聞の片隅に掲載される三行広告から世紀末の世相をあぶりだした『紙の中の黙示録』、「山びこ学校」の教師・無着成恭と教え子たち43人のその後40年の人生をたどった『遠い「山びこ」』、今日の読売王国の礎を築いた正力松太郎を描いた評伝『巨怪伝』(いずれも文藝春秋刊)等がある。

5. この本を読んで
 この本を読むまでは、宮本常一さんのことは殆ど知りませんでした。一般にも宮本常一さんのことは、この本が出るまで、あまり知られていなかったようです。本では宮本常一さんの生涯と渋沢敬三さんとの交流を描いています。山口県周防(すおう)大島で生まれた宮本さんは、日本全国を歩き、素晴らしい聞き取りの技術によって、多くの人々から話を聞き、多くの著書や写真を残しました。次の司馬遼太郎の宮本常一に対する評価は、よく氏のことを表しています。「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人は少ないと思います」
 この本と関連したいくつかの本を読むことによって、民俗学の輪郭がわかってきました。

6. 参考図書
 「旅する巨人宮本常一−にっぽんの記憶」 読売新聞西部本社編 みずのわ出版 2006.7.1
 宮本常一さんは著書だけでなく、多くの写真を残しています。この本は、生まれ故郷の山口県周防大島町以西の九州各地を歩いた宮本常一の足跡を、宮本が撮影した写真を持って再訪したルポです。写真の中の関係者を新聞記者が探し歩いて、その地域に流れた30年から50年の時間をあらためてたどり直し、日本人が忘れてしまった記憶を蘇らせようとする企画です。
(同書 「解説 『時空を越えたエネルギー』 佐野真一」より抜粋)

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[Last updated 12/31/2008]