河合隼雄さんを悼む

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ユング心理学と仏教

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    目 次

1. 山折 哲雄氏
2. 梅原 猛氏

1. 河合隼雄さんを悼む 山折 哲雄
『魂の看取りに鋭い洞察』
 昨年八月にお倒れになり、はや一年が経とうというときになって、辛い訃報に接することになった。その間ときどき上京する機会があったが、文化庁の長官室でお目にかかったときの光景が蘇(よみがえ)り、東京のど真ん中にぽっかり穴が開いているような思いにとらわれていた。
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 河合さんに会うといつも自由闊達(かったつ)の空気がただよい、ほとんど1分おきに飛び出すジョークや駄洒落(だじゃれ)のシャワーを浴びる。日本ウソツキクラブの会長を名のって軽妙なコントを創作し、私なども槍(やり)玉にあげられたことがある。笑いの贈答を楽しむことに比類のない才能を発揮する人だった。それだけにフルートを吹いているときの真剣な面差しが普段とは違う雰囲気をかもしだしていて新鮮だった。仲間との合奏を喜び、くだけたトークに打ち興ずる姿が、いつも人とのつながりを大事に考えている人柄を浮き彫りにしていた。
 あからさまにはいわれないことだったけれども、その言葉のはしばしからは心を病む患者さんの看取りという仕事に全精力を傾けていることが伝わってきた。スイスでユング心理学の理論と実践を学ばれ、それを日本の社会に紹介・定着させようとした第一人者として重い責任を感じていたのであろう。そのような研鑽のはてに、いかにも日本人の心に寄りそうような河合流「箱庭療法」を開発することができたのだった。
 河合さんの関心は神話や文学、哲学や宗教、そして詩や童話の世界へとかぎりなく開かれていたが、その本領は含蓄にみちた深みのある科学的認識にあったのではないだろうか。魂の看取りという合理性を超えた困難な課題を、バランスのとれた感性と説得力のある言葉で語るというところにその特色がよくあらわれていたように思う。
 ここ十年ほどのことだっただろうか。河合さんの興味はしだいに仏教や能の世界に傾き、そのことを口にもし文筆にも書くようになっていた。私と対談をする席でのことだった。たまたま話題が、心理療法家と宗教家の仕事を比較した場合、どこが共通しどこが違うかという方向に展開していった。河合さんは心理療法家にとって大切なことは聴いて、聴いて、聴くことに徹することだと思うといった。私もついつられるように宗教家においてもそうですねといっていた。しかしそのように応答しながら何かいい足りないもどかしさがのこり、ややあって言葉をそえた。両者ともにその点では同じかもしれないけれども、もしも宗教家に違うところがあるとすれば、それは最後の段階で方向性を示すことではないかといったのである。河合さんは私のその言葉を黙って聴いていて、うなずくことも否定することもしなかった。今からふり返ってみると、それが私にたいする河合さんの方向指示のサインであったかもしれない、とふと思う。
 河合さんの目は、ときどき鋭く光ることがあった。こちらの心の奥を見透すようなはげしいまなざしだったといってもいい。そのような視線をむけられてたじろぐような気分を味わったことがあるが、心理療法という仕事の困難さがそのようなまなざしに凝縮されていたようにも思う。
 あるとき、こんなことがあった。私が吐血して入院し、しばらくして病室まで見舞いにきていただいた。ドアを開げて入り、花束を両腕に抱えて前に立たれた。私を見下ろしているそのお顔をみて、私は驚いた。満面の笑みがそこに花開いていたのである。快活に冗談をとばしているときの笑顔とはまるで違う微笑だった。むろんあの鋭い目の光もあとかたもなく消えていた。一言二言交わしただけだったように記憶するが、どんな内容のことだったかはすっかり忘れてしまっている。ただ河合さんがドアのかなたに去ってしまったあと、病室にはあの静かな満面の笑みだけが、いつまでもただよっていたのである。

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 河合さんはお目にかかるときはいつも頑健で、食事をともにするときはあきれるほどの健啖(けんたん)ぶりを発揮した。病気で苦しんだり入院したりといったことは私の知るかぎり一度もなかったような気がする。その河合さんが今回入院する運命におかれ、それにもかかわらず病室にお見舞いすることがかなわなかったのは、治療の事情がそれを許さなかったということがあったにしても、私には耐えがたいことだった。
 文化庁の長官になってからのお仕事としては「関西元気文化圏構想」を提唱され、それをみごとに実現されたことが忘れ難い。大阪で、その一環をなす催しの冒頭で挨拶(あいさつ)に立たれたとき、あいかわらずのユーモラスな話で満場がわいたことがあった。−長官になってからいろんな場面で挨拶をさせられているが、いつも一言だけですます一言主命(ひとことぬしのみこと)をやっていますと。その一言主命を演ずるためにどれだけの時間を費しているのだろうかと、つい勘ぐりたくもなる場面であったが、そのような知的なジョークももうきくことができなくなってしまった。
 われわれの社会が毎日のように手痛いほころびをみせている今日、河合さんからはあの洞察と含蓄にみちたお考えをもっともっとおききしたいと思っていた矢先のことだっただけにいっそう悔しい思いがつのるのである。京都は祇園祭も過ぎて、そろそろお盆の季節を迎える。五山の送り火には、心して河合さんのみたまをお送りしたいと思っている。(やまおり・てつお=宗教学者)
(出典 日本経済新聞 2007.7.21)

2. 河合 隼雄さんを悼む 梅原 猛(哲学者)
『「河合心理学」未完が残念』

 80を超えた老人になると、親しい友人の訃報(ふほう)を聞くことが多いが、河合隼雄氏の死ほど悲しい知らせはない。
 フリードリッヒ・ニーチエは「三つのエピソードがあれば、その人間がいかなる人間であるか知ることができる」と言ったが、私も河合隼雄氏について三つの思い出を語ろう。
 40年程前、私がある小料理屋で1人で酒を飲んでいたら、「2階のお客さんから」と言って仲居が、表に「怨霊(おんりょう)様へ」、裏に「丹波の土蜘蛛(つちぐも)兄弟より」とある手紙をとどけた。すぐに私はその差出人がサル学者の雅雄氏と、心理学者の隼雄氏の河合兄弟であることがわかった。河合兄弟は有名な「丹波篠山 山家の猿が 花のお江戸で芝居する」という歌にある丹波篠山の出身であるので、土蜘蛛兄弟と名乗ったのであろう。
 河合兄弟は6人兄弟であるが、いずれも医者か学者で、私は河合兄弟を湯川兄弟に比較したいと思うが、河合家は兄弟が集まれば、みんなで演奏会を行うほど文化的な家庭であり、兄弟は土の臭いと共に都会的で繊細な感覚をもっていた。
 もう一つの思い出は、それから5年後。湯川秀樹氏が主宰している「創造の世界」という雑誌が河合隼雄氏を呼び、氏の研究の一端を聞いたことがあった。湯川氏は大変感心されたが、その帰りのエレベーターの中で私が「栂尾(とがのお)の明恵上人の書物に夢の話が出てくるがわからない。あなたならわかる。明恵をやってくれませんか」と言ったというのである。その言葉が『明恵 夢を生きる』という外国でも翻訳された河合隼雄氏の代表的な名著を生んだのである。

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 河合氏は元々、京大で数学を勉強して、高校の数学教師を務めたが、心理学研究を志しスイスに留学してユング心理学を学んだ。しかし、ユング心理学を研究、紹介しただけでなく、ユング心理学を使って仏教、神話、伝説などを究明し、甚だ独創的な業績を挙げた。
 いま一つ私にとって忘れられないのは、国際日本文化研究センター(日文研)設立が認められた時に河合氏が語った言葉である。「実は日文研ができるとは思っていませんでした」 日文研の設立に私は奮闘したが、京大教授であった河合氏は東大教授であった埴原和郎氏と共に私の両腕となって尽力した人である。その河合氏が日文研の実現を疑っていたとは、私は夢にも思わなかった。「それでは、なぜ河合さんは私を助けたのか」と聞いたら「それは、梅原さんが一生懸命になっているから、それを助けるのが友人としての私の務めだと思った」と河合氏は答えた。
 このような友人たちの助けで、日本でもっとも創造性に富む研究所の一つが設立されたのである。そして、私が初代の所長を務めた後、次期所長を当然、河合氏にやってもらうことにした。一つの研究所には、創業の時と守成の時がある。創業には、多少乱暴な所長が必要であるが、守成の所長には、河合氏のような大変神経の細かい、人との対立を好まない所長がもっとも適当であろう。
 河合氏は2代目日文研所長の職を見事に務められ、その手腕が認められて、文化庁長官にと望まれ、その職にも悠々と楽しく務めていられるようであった。おそらく河合氏は要職を退いたら、仏教や東洋の英知の伝統をひく、ユング心理学に匹敵するような、河合心理学を立てようと思っておられたにちがいない。
 そのような仕事を完成させずに亡くなられたことは、日本の学問のためにも甚だ残念なことだと私は思う。
(出典 朝日新聞 2007.7.21)

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[Last Updated 8/31/2007]