パリ1900年・日本人留学生の交遊
(『パンテオン会雑誌』資料と研究)

  目 次

1. まえおき
2. 刊行に寄せて
3. (本の)目次
4. 書 評
5. 読後感



『パンテオン会雑誌』研究会編
高階秀爾 監修
株式会社ブリュッケ 発行

「本の紹介2」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

1.まえおき
 会社に入って数年後に、フランス政府技術留学生としてパリにいたとき、住んでいたのがオテル・スフローです。留学同期(1961年)の岡部氏、山本氏も同じホテルにいました。宿については二人がそれぞれ想い出を書いています。三人は今でも夫人同伴で年に数度、食事を共にします。三人とも画を描くので、展覧会に出品したときは、互いに鑑賞しあい批評する仲です。右の写真は2002年にパリを訪れたとき、オテル・スフローの建物の前で撮った記念写真です。一昨年(2003年)はSABTECH主催のフランス旅行に、昨年は京都での総会に六人で参加しました。男性達が泊まっていたホテルに因んで、六人の集まりをスフロー会と呼んでいます。
 オテル・スフローには、その昔、日本人画家が泊まっていたことは耳にしており、岡部氏も上記の想い出で触れていますが、この本はその方々の交流の記録です。
 執筆者の一人である今橋映子さんの書かれた論文「1900年日仏文化交差史の新視界」のコピーを、昨年の春、岡部氏から戴き、7月末にこの本が出版される予定であることを知ったのですが、実際には9月末に刊行され、11月末の書評を読んで本を購入しました。

2. 刊行に寄せて        高階秀爾
 『パンテオン会雑誌』というものがあるという話を、本野盛幸大使からうかがったのは、もう何年ぐらい前のことになるだろうか。聞けば、ちょうど世紀の変り目、1900年から数年のあいだ、パリに留学していた日本人仲間によって作られた手づくりの雑誌だという。印刷物ではなく、手書きの文章を集めただけだが、きちんと綴じて表紙までつけたものが三冊、たまたま大使の手に渡ったという話である。
 実際に現物を手にしてみて驚いた。そこには、黒田清輝、和田英作、岡田三郎助、中村不折、浅井忠、竹内棲鳳など、錚々たる名前が並んでいる。もちろん画家ばかりではない。法学者の寺島誠一郎をはじめ、法学、文学、歴史、建築、フランス語など様々の分野の留学生、あるいは陸海軍の関係者たち、さらには、旅の途上での詩作を書きとどめたものであろうか、土井晩翠の詩稿まである。つまり日本近代の若い知性が集っているのである。
 1900年は、フランス政府が威信をかけた大がかりな万国博覧会の開催された年であったため、日本からの来訪者も特に多かった。パリに住みついている留学生たちが一時的な滞在者も加えて「パンテオン会」を結成したのは、1900年11月のことである。故国を遠く離れて、大きな期待といささかの不安を胸に秘めながら、慣れない異郷で暮らしている若者たちにとって、時に同じ日本人同士で集って語り合うことに大きな喜びを見出していた心情はよく理解できる。ジェット機で朝東京を出発すればその日のうちにパリに着く現在と違って、100年前のフランスは、日本人たちにとってまだまだはるかに遠い異国であった。
 私自身、彼らからちょうど半世紀あまり遅れてフランスに留学したのだが、メッサジユリー・マリティム社のフランス船ヴィエトナム号の客となって横浜を出てから、マルセイユに着くまで、1ヵ月以上の船旅であった。マルセイユで1泊して次の日、1日がかりでようやくパリに着く。ずいぶん遠くまで来たというのが実感であった。この道程は、「パンテオン会」の仲間たちの場合とそれほど違わないものであったろう。
 「パンテオン会」という名称も、きわめて納得のゆくものである。パリでの学生生活は、まずこの壮麗な建物との対面から始まった。ソルボンヌ大学がすぐそばにあるからである。フランス文化の栄光を築き上げてきた多くの偉人たちを祀ったこの霊廟は、パリに着いてはじめて眼にするモニュメントであるだけに、特に印象深いものであった。ギリシャ神殿の様式を摸した正面部の三角形のフロントンを支える横梁に、AUX GRANDS HOMMES LA PATRIE RECONNAISSANTE (偉大な人々へ、祖国は感謝の念をこめて)と彫り込まれているのを見た時、私は思わず熱いものがこみあげてくるのを抑えることができなかった。
 大学だけではない。コレージユ・ド・フランスも、サント・ジュヌヴィエーヴ図書館も、すぐ近くにある。私がもっぱら通っていた美術研究所は、リュクサンプール公園を越えた反対側である。もちろん、ルーヴル美術館や国立近代美術館にもしばしば足を運んだが、講義を聴いたり、図書館にこもったりする時には、いつもパンテオンの影がついてまわった。
 学生街にふさわしく、この界隈には安いカフェやレストランが多く集っている。私が留学していた頃、日本料理店はセーヌ河を越えた16区にただ1軒だけあったが、そこはとても留学生が気軽に行けるようなところではない。仲間たちと会食したり、日本からやって来た知人をもてなしたりする時には、パンテオンの近くの店のどこかを選ぶのが普通であった。今でもあるかどうか、私たちがよく行った中華料理店で、日本の沢庵に似た漬物を「おこうこ」と称して売物にしている店があって、そこの主人は、日本人客が来たとみると、冠詞つきの日本語で「ロコーコはどうかね」とすすめて喜んでいた。
 「パンテオン会」の仲間たちも、このすぐ近くのトゥリエ街にあるオテル・スフローを根城としていた。彼らがその青春の記念である『パンテオン会雑誌』をなぜ日本に持ち帰らなかったのか、その間の事情はよくわからないが、それはオテル・スフローの経営者の手によって大切に保存され、二度の大戦の混乱も無事くぐり抜けて再び世に甦ったのである。現在それは、三冊ともパリの日本文化会館図書館に収められている。
 日本近代の歴史の上で一重要な役割を果した多くの日本人の留学生活を生き生きと写し出したこの貴重な資料を公刊する運びとなったことは、私たちにとって大さな喜びである。長年にわたってこの資料を守り抜いてこられたオテル・スフローのシッテル家の方々をはじめ関係者の方々、刊行を許可されたパリ日本文化会館、そしてそのための財政的援助を惜しまれなかった笹川日仏財団とサントリー文化財団に、心より御礼申し上げる。

目次に戻る

3. 本の目次
刊行に寄せて           高階秀爾      5

雑誌本文

 『パンテオン会雑誌』書誌ノート                 ロバート キャンベル  9

 翻 印    11       ロバート キャンペル − 監修
                 青山英正・ロバート キャンベル・合山林太郎・
                 永井久美子−翻字校訂
                 泉美知子・児島由理−翻訳

 解 題    145     青山英正・今橋映子・ロバート キャンベル・
                 合山林太郎・児島薫・手塚恵美子・永井久美子・
                 馬渕明子・三浦篤・安田敏朗・山梨絵美子

影 印     233

論 文     337
  オテル・スフローと『パンテオン会雑誌』            森村悦子      339

  ◇参考資料紹介◇中村不折《巴里の下宿屋》        今橋映子・合山林太郎 349

  『パンテオン会雑誌』の位相−新資料出現の意味      今橋映子      357

 パンテオン会の軌跡−会員たちの記録、日記、回顧録、書簡等より 手塚恵美子   367

 回覧雑誌の時代                           ロバート キャンベル  391

 「絵画」の自立のかたわらで−『パンテオン会雑誌』の表紙、挿図などをめぐつて
                                      山梨絵美子       403

目次に戻る

                            *
 「男性同盟」としてのパンテオン会                 児島薫          411

 明治期在欧日本人留学生・外交官たちの俳句会をめぐつて−白人会・巴会・倫敦俳句会
                                      合山林太郎      429
                            *
 黒田清輝の二度日の渡欧−そしてパンテオン会との関わり  山梨絵美子    447

 「日本画家」久保田米斎の文才−『パンテオン会雑誌』からの新知見を中心に
                                      永井久美子      459

 1900年日仏文化交差史への新視界−ジョルジュ・ヴレルスの日本観
                                      今橋映子       481

謝辞                           493
編集後記            今橋映子      495

研究資料            手塚恵美子−編

  T 「パンテオン会」名簿
   A 「パンテオン会」会員名簿−『パンテオン会雑誌』関連
   B 「パンテオン会」会員名簿−『パンテオン会雑誌』関連外
   C 「パンテオン会」関係者名簿

  U 『パンテオン会雑誌』作者別 記事・作品リスト
    A 本名別リスト
    B 本名不明者ペンネーム別リスト

目次に戻る

  V 『パンテオン会雑誌』・挟み込み資料・付帯資料 目次

   第T号(1901年5月25日) 目次

   第V号(1901年9月21日) 目次

   第V号(1903年3月) 目次

   挟み込み資料目次

   付帯資料一覧

  W 参考資料
    1 年譜
    2 「パンテオン会」会員・関係者プロフィール
     A 「パンテオン会」会員−『パンテオン会雑誌』関連
     B 「パンテオン会」会員−『パンテオン会雑誌』関連外
     C 「パンテオン会」 関係者
    3 「パンテオン会」会員留学時専門分野別リスト
    4 「パンテオン会」会員パリの住所・地図
    5 文献目録

人名索引

執筆者・翻訳者一覧

付録
CD・ROM版『パンテオン会雑誌』

目次に戻る

4. 書 評
パリ1900年・日本人留学生の交遊 『パンテオン会雑誌』資料と研究  『パンテオン会雑誌』研究会[編]
時を超えて聞こえてくる俊英たちの声            [評者] 木下直之 東京大学教授=文化資源学

 今から17年前のこと、パリの日本大使館に一通の手紙が届いた。差出人はシッテルという91歳になる老人で、1900年ごろの日本人留学生たちの回覧雑誌を所有しており、それを寄贈したいという申し出だった。
 老人の両親は、当時、パリでスフローという名の小さなホテルを経営していた。日本からやって来た何人もの留学生が、そこを下宿にした。彼らは仲間を集め、パンテオン会と名乗り、しばしばホテルの食堂や近所の居酒屋で晩餐(ばんさん)会を催した。回覧雑誌はそこから生まれた。
 会員は黒田清輝・浅井忠・和田英作・久保田米斎ら美術家を中心としたが、学者や軍人も交じり多彩だった。美濃部達吉の名も見える。いずれも帰国後は各界で活躍することになるエリートたちだが、大半が30歳前後とまだ若い。お互いに渾名(あだな)で呼び合うことが会則だった。
 会名は、ホテル近くのパンテオンに由来するものの、雑誌を開くと、「パンテオン会義考」という記事が見え、「飜天音」「蛮底音」「反天恩」などの字を当て、自由闊達(かったつ)な暮らしぶりを自らからかっている。かくのごとき戯文のほかにも、俳句、戯曲、漢詩、エッセー、書簡、漫画、絵画と、手作りの雑誌の中身は盛りだくさんだ。
 脈絡の無さこそが特色の、3号しか残されていない、あるいは続かなかったこの雑誌を丹念に紐解(ひもと)く試みが、研究会によって進められてきた。本書はその成果である。翻印、影印、CD-ROMにより、『パンテオン会雑誌』を復刻すると同時に、研究会メンバーによる詳細な解題と論考を収め、会員たちが共有していた演劇への強い関心、俳諧の「座」に通じる連帯、諧謔(かいぎゃく)や風刺といった遊びの精神の横溢(おういつ)など明らかにした。
 シッテル家が大切に守り、今はパリの日本文化会館に収まった3冊の回覧雑誌からは、パリの安宿にたむろした日本人の声が、百年の時を超えてがやがやと聞こえてくる。それは笑い声であったり、つぶやきであったりするが、いずれも、遠い異国での体験を彼ら自身の目と言葉でとらえようとした貴重な記録である。
 ブリユッケ・583n・7980円/監修・高階秀爾。責任編集・今橋映子、ロバート・キャンベル、馬渕明子、山梨絵美子。
(出典 朝日新聞 2004.11.28)

目次に戻る


5. 読後感
 まだ論文の一部を読んだだけなので、全体としての感想ではありませんが、オテル・スフローを舞台に、このような交流があったこと、回覧雑誌が奇跡的に保存されており、日本大使に返還され、実際にその後をたどれることに、驚きました。
 我々が泊まっていたときと比べながら、まず論文を読み、続いて本文を読むつもりです。

「本の紹介2」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

[Last updated 1/31/2005]