水落遺跡


飛鳥の里人に時刻を知らせた水落遺跡
 昭和56年12月、小字(こあざ)ミゾオチを掘り進めると、一辺22・5mの四角く回(めぐ)らした石敷溝(いしじきこう)と建物跡がみつかった。これが『日本書紀』斉明(さいめい)6年(660)に「皇太子中大兄(なかのおおえ)が初めて漏刻(ろうこく 水時計)を作り、人々に時を知らしむ」という、水時計の場所すなわち水落遺跡である。
 ちょうど甘樫丘(あまかしのおか)の東、飛鳥(あすか)川が北流から西流しようとする位置にあたる。
 このすぐ北東では、今、飛鳥資料館に展示されている須弥山石(しゅみせんいし)や石人像(せきじんぞう)が明治時代に掘り出されている。これらの石造物は、いずれも石の内部を巧みに杖分かれした孔があけられており、庭園の噴水施設と想像され、石神(いしがみ)遺跡と名付けられている。
 この両遺跡とも水に関係している。また、この場所は飛鳥寺域の北西に接していることから、斉明3年(657)、須弥山像を作り外国人などの響宴(きょうえん)の場とも重なると言われる。須弥山像、石人像などがたち槻(つき)の木の広場で外国人をもてなしていた当時の朝廷の人々や飛鳥の里人に正しい時刻を知らせた所と考えると、当時の都の重要な場所であったことがうかがえる。
 水落遺跡の調査では、地中で相互に固定された礎石(そせき)や、漆塗(うるしぬり)木箱(きばこ)、木樋暗渠(きといあんきょ)、細い銅管(どうかん)など他の遺跡では見られない漏刻独特の遺物が出土した。階段式の箱の中の水をサイフォンを通して落ちていく水の量で、正確に時を刻む仕組みである。時を司(つかさ)どり民に知らす……、まさしく律令国家を目指して先進文化を吸収し、国づくりを進めていくのに大きな役割を担ったことであろう。
(出典 「明日香」 (株)編集工房 あゆみ)

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[Last Updated 10/31/2005]