「リチャード三世」

    目 次

1. 演出家からのメッセージ
2. 悪の楽しさ
3. スタッフとキャスト
4. 感 想

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1. 演出家からのメッセージ  レオン・ルービン
『リチャード三世』はシェイクスピア劇の中で最も有名な作品の一つですが、それほど頻繁には上演されていません。おそらくこの劇が、作品全体を支配するリチャードという強烈な主人公のドラマだからでしょう。上演しようとしてもプロデューサーはあきらめざるを得ません。リチャードのような役柄を演じることのできる並外れた俳優をそう簡単に見つけることはできないのです。しかし幸いにも、文学座には江守徹(とおる)という素晴らしい俳優がいます。彼ならこの複雑で危険、何をしでかすかわからない、そして暗さの中にユーモアもある男に命を吹き込んでくれることでしょう。私は江守さんとこれまで2回ほど一緒に仕事をさせてもらいました。今回、日本でこの劇の演出を引き受けたのも、彼の優れた才能をよく知っているからにほかありません。
 本当に江守さんの才能あってこその劇なのです。というのは、多くのシェイクスピア劇と異なり、この劇が描こうとしているのは一つのことに絞られています。それはリチャードが何を考え、どう行動したかということです。たとえば、『リア王』や『ハムレット』にも中心に主人公がいますが、複数の筋やテーマがあり、非常に多くの様々な人物が描かれています。もちろん『リチャード三世』にも、他に魅力的で興味深い役柄もありますが、劇全体として見た場合、この作品の面白いところは、リチャードが権力をどのように手に入れ、一人でこの権力をどう用いていくかにあるのです。この劇は独裁者の行動と心理を詳細に追った作品であり、われわれ観客の興味も、リチャードが権力を手にするために陰謀を企み、周囲の人物を操って権力を強固なものにしていくところにあります。彼は道徳に反するというより、道徳などを超えた存在として、権力の道を突き進んでいくのです。
 とは言っても、シェイクスピアはリチャードを非常に明るく描いており、意外にも暗い性格ではなく、溌刺としたユーモア溢れる、好感のもてる人物なのです。彼の観客との絆は強く、策略の世界で一緒になって楽しんでいいのかと、見ていながら罪の意識を感じてしまうほどですが、それでいて彼の生命力と楽しさには親近感を持ってしまいます。この矛盾こそがこの劇の核心に触れるものなのです。
 20世紀に私たちは多くの独裁者が荒廃をもたらす様を目にしてきました。スターリン、ヒトラー、ポル・ポト、毛沢東などを見ればわかるように、独裁者がどれほど思うがままに自己の欲望を充足させようとするものなのかは、今や明らかです。新世紀の夜明けを迎えた今日でも、同じような道を歩み出している人物が存在することは確かです。たとえばサダム・フセインもそうですし、金正日(キム・ジョンイル)もその一人でしょう。権力を渇望する男を見事に描いているシェイクスピアは、過去の作家でありながら、現代の作家でもあるのです。今回の舞台を通じて、過去と現在が、そしてヨーロッパとアジアか一つとなり、一方で観客の皆様が、困惑しながらも、リチャードの権力への道を楽しんで観劇していただければ幸いです。

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2. 悪の楽しさ   阿刀田高(小説家)
『リチャード三世』は、薔薇戦争の最後のころ、ヨーク家の三兄弟が(実際の系図はもっと複雑だが、あえて簡略化して三兄弟としておこう)ランカスター家から権力を奪った直後の政争をテーマとしたものである。
 三兄弟の長兄はエドワード四世王となったが、もう長い命ではあるまい。次兄のクラレンス公ジョージは有力な後継者候補。もちろんエドワード四世王の幼い王子たちも有力な候補者だ。三兄弟の最後にひかえるのが、このドラマの主人公たるグロスター公リチャードで、彼は虎視眈々、小さな可能性を陰謀によって膨らませて、やがて王位に即く。だが天網恢々疎にして漏らさずのたとえ通り、最後に粛清され、これを機に貴族たちの和合が見え始めてくる。
 そのグロスター公はドラマが始まったとたん、身の不遇を嘆き、悪の権化となって王位を狙うことを告白する。あとは一直線、まことにわかりやすい。
 勧善懲悪は庶民に共通の倫理感ではあるけれど、いつもそれぞはつまらない。現実感も乏しい。文芸の歴史をたどってみると、揺藍期には典型的な善玉が登場して、ひたすら悪を倒し善を布くストーリーが繁く創られたが、すぐに変種が登場する。逆に極悪非道が現われて大暴れ、ストーリーの最後に取ってつけたように悪が制裁されて収まる、という構成が見られるようになり、これが結構大衆の好みに適った。つまり悪の楽しさが賞味されるようになる。
『リチヤード三世』がその典型であり、この傾向をみごとに昇華させたものであることは論をまたない。グロスター公は醜い。同情されてよい境遇にあるのも本当だ。彼は、それを拠りどころとして果敢に悪を実行する。この心情も庶民に納得できないものではない。ためらうことのない悪業は、それがフィクションに留まる限り痛快である。りっぱなエンターテインメントとなりうる。加えてグロスター公は明晰であり、黒いユーモアを備えている。第一幕第一場でロンドン塔へ幽閉される(やがて殺害される)次兄クラレンス公を見送りながら、「さ、二度とは帰らん路を歩いておいで、真正直な、お心よしのクラレンス! 俺はお前さんが可愛いから、一日も早く天国へ霊魂(たましい)を送り届けてあげたいと思っている、天の方で受取ってさえ下さりやぁ。」
 と、ほざくあたりは面目躍如、俳優の演技とあいまって観客を黒い笑いに誘うにちがいない。こんなシーンがドラマのあちこちに散って、大人の鑑賞にたえる昧を醸し出している。悪い奴だが、徹底しているぶんだけ憎めない。極限を極めているがゆえに観客は驚き、その驚きは「こんなこと、常人にはできないぞ」と微妙な尊敬さえ覚えてしまう。
 もちろん良識の人シェイクスピアはドラマの最後で悪人が悪夢にさいなまれ、善玉のリッチモンド伯に征伐される場面を置き、庶民をして「よかった、よかった」と安らかに家路につけるよう方策を残している。両面サービスにも抜かりがない。これもまたシェイクスピアの優れたドラマツルギーだろう。

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 そして、もう一つ『リチヤード三世』における悪の楽しさは、女性に対する口説きの巧みさとしらじらしさ。グロスター公は醜いくせに、立場をかさに着て高貴な美女をなぶり、動揺させ、籠絡する。たとえば第一幕第二場のアンとのやりとり。事情は省略するが、アンから見てグロスター公はこの世でもっとも憎らしい男だ。なのにグロスター公はぬけぬけと言いわけを並べ、あまつさえ「私のあやまちは、あなたの美貌のせい」と殺し文句を掲げて言い寄る。アンはこのあと口説き落とされてグロスターの妻となり、さんざ利用されたあげく殺されるのだが、この成行きも観客に十分予測がつくところ。これは口舌によるサディズム、もう一つの悪の楽しさと称する所以である。
 シェイクスピアは、さまさまな悪の楽しさをふんだんにほかのドラマの中にも示しているけれど、それをみごとに際立たせている点において『リチャード三世』に如くものはない。シェイクスピアの戯曲の中で、もっとも現代の文芸に近い作品だ。私は真の名作を三つ選べと言われれば、ためらいなくその一つにこの作品を挙げるだろう。

3. スタッフとキャスト
[スタッフ]
作      ウイリアム・シェークスピア(坪内逍遥 訳)
演出    レオン・ルービン
装置    石井強司
舞台監督 寺田 修

[キャスト]
江守徹   グロスター公リチャード(のちにリチャード三世)
林 秀樹  市長/ノーフォク公
田村勝彦  負傷兵/クラレンス公ジョージ/枢機卿/リチャード軍兵士
外山誠二  バッキンガム公/リッチモンド軍兵士
石川 武  死体/ヘースティングス卿/リッチモンド軍兵士
岡本正巳  エドワード四世/イーリー
押切英希  リバース伯/リチャード軍兵士
清水明彦  スタンリー卿
藤堂陽子  ヨーク公爵夫人
征矢かおる アン/市民
山本深紅  エリザベス

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4. 感 想
 シェークスピアのハムレットなどは映画や芝居で見ていますが、「リチャード三世」を見るのは、これが初めてです。簡潔な舞台装置で、映像により現代との類似性を暗示しているようです。江守徹他の力演で面白く見ることができました。
 前に見た「ドン・ジュアン」でも活躍した、清水明彦さんに注目している自分に驚きました。
 観劇のあと、三軒茶屋・渋谷間の地下鉄内で、高橋広司君と「太公望のひとりごと」を翻訳した吉原 豊司氏に、偶然お目に掛かりました。

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[Last Updated 1/31/2004]