本の紹介 ジャズと生きる

  目 次

1. 本との出会い      
2. 本の概要
3. 本の目次
4. 著者紹介
5. あとがき
6. 読後感
7. 私のジャズ物語


秋吉敏子著

岩波新書

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1. 本との出会い
 秋吉さんの演奏した曲や作曲した曲は、テレビやラジオで聴いていました。図書館からCDも借りて何曲か聴きました。
 何年か前に、この本を本屋で見つけ、一気に読みました。自分の戦後のジャズとの触れ合いと重なる部分があり、日本にもこういう素晴らしいジャズ・ピアニストがいるのだと誇らしく思いました。
 今年(2004年)の6・7月とNHK人間講座で「ロング・イエロー・ロード 私のジャズ物語」が放映され、毎週欠かさず視聴しました。ニューヨークのバードランドなどでピアノを背景にジャズについて語り、それが契機でこの本を採り上げることにしました。

2.本の概要(本のカバーより)
 満州からの引揚げ後、ジャズ・ピアニストの道を歩み出した少女は、才能と幸運に恵まれて、1956年、憧れの米国留学を果たし、本場ニューヨークで注目を浴びる。だが、立ちはだかる人種や性の壁、そして出産・離婚…。作曲・編曲家、ビッグバンド・リーダーとしても国際的に活躍する在米の著者が、波瀾に満ちた過去を初めてつづる自伝。

3. 本の目次

1 満州に生まれて……………………………………………………1
2 戦争、そして引揚げ………………………………………………17
3 ジャズ・ピアノの世界へ−福岡で………………………………  45
4 東京暮らしの楽しさ、淋しさ………………………………………59
5 シックス・レモンズ、コージー・カルテットの時代…………………79
6 実現した渡米の夢………………………………………………  97
7 パークリー音楽院に学びながら………………………………   119
8 結婚、帰国、出産……………………………………………… 143
9 権力と芸術−ウィーン氏のこと…………………………………151
10 離婚−音楽を捨てるか、娘を手放すか………………………167
11 タバキンとの出会い、そしてロスヘ…………………………  189
12 ビッグバンド誕生−再びニューヨークヘ………………………205
 あとがき
 音楽用語解説

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4. 著者紹介 穐吉(秋吉)敏子
 1929年、中国東北部(旧満州)の遼陽に生まれる。46年、家族とともに大分県別府市に引揚げた後、ジャズ・ピアニストに。48年に単身上京し、ブルー・コーツ、シックス・レモンズ等を経てコージー・カルテットを結成。56年、米国のパークリー音楽院に留学。59年、卒業。同年、チャーリー・マリアーノと結婚、一女をもうける。のち離婚。69年、現夫君ルー・タバキンと再婚。72年、ニューヨークからロスアンゼルス近郊に移住、翌73年、アキヨシ−タバキン・ビッグバンド発足。82年、ニューヨークに戻り、翌83年、トシコ・アキヨシ・ジャズ・オーケストラを結成、今日に至る。82年、『ダウンビート』誌の国際批評家投票で作曲、編曲、ビッグバンド3部門で第1位。またグラミー賞候補に15回のぼっている。代表作に「ロング・イエロー・ロード」「すみ絵」「孤軍」「ミナマタ」「花魁澤」などがある。

5. あとがき
 今から17年前、岩波新書編集部から自伝の執筆を申し込まれた。書いてもよいかな、と思ったので承知したが、5年ぐらいはかかってもよいだろうなどと思っているうちに、こんなに歳月がたってしまった。
 今年(1996年)はちょうど私の音楽生活50周年、渡米40周年にあたるため、この機会に約束を果たそうと決心したが、まず私がどうしても見つけなければならなかったのが、誰にも干渉されない部屋であった。家には主人(ルー・タバキン)がおり、彼の練習(テナー・サックス、フルート)や、またいろいろな事務の電話などに煩わされるため、家で執筆するのは不可能だと思ったからである。幸い知人の米国人が、五番街にアパートを構えているがほとんど留守だということで、私の使用を快く許して下さった。結果的には、主人が旅行している間は自宅にいることができて、予期したほど必要ではなかったが、それでもたいへん助かった。
 執筆は200字詰原稿用紙で一日10枚をめざし、朝八時から、朝昼兼用食事に費やす40分ほどを除いて午後三時半まで続け、その後はピアノの練習に移った。10枚までいかない日のほうが多かったが、ピアノの練習は欠かせないので、遅くも四時には書くのを中止しなければならなかった。そんなわけで、執筆し始めてから脱稿に至るまで、結局六か月近くかかってしまった。
 なお、この本を書くにあたって、私はジャズ・ファン以外の読者の方たちにも何か得るもののある内容を主にしたいと思い、私の苦しく厳しかった時代の経験を中心にした。
 執筆に際し、諸先生方、友人たちからいろいろご指導を受けたが、とくに油井正一先生、児山紀芳氏に厚くお礼を申し上げたい。
  1996年7月、ニューヨークの自宅で  穐 吉 敏 子

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6. 読後感
 前に小沢征爾(おざわせいじ)さんの「ボクの音楽武者修行」を採り上げましたが、今回はジャズ・ピアニストの有吉さんの自伝です。絵画の場合は日本画の伝統があったせいか、明治の開国後比較的短期間で、わが国に洋画が定着したように思います。それに対して音楽の場合、邦楽が有ったわけですが、クラシックもジャズも、戦後になってやっと定着してきたように思います。最近でこそ日本人のジャズ・ピアニストも層が厚くなってきましたが、日本のジャズの黎明期に、男性でも大変な経験を積んで行くバイタリティーには感心させられます。
 昨年、ビッグバンドを解散し、ピアニストとして改めて再出発を宣言したそのファイトには、ただ脱帽するばかりです。

7. 私のジャズ物語
 2004年6〜7月にNHKの人間講座として秋吉さんが体験的なジャズ論を話されました。ここではテキストに載った「はじめに」と目次に当たる「放送予定」だけを掲載します。本の目次と比較すれば大まかな内容の違いが理解できると思います。
[はじめに]              秋吉敏子(あきよし としこ)
 人間講座でジャズの講座を、と頼まれた時、私は自分には向いていないと思いました。私は「ジャズの歴史」というサブジエクトをアカデミックに研究する人間ではないからです。しかし考えてみると、ジャズに実際に60年近く携わってきたプレイヤーは少ないのではないか。そのうえ、日本人ジャズ・プレイヤーとして、初めてアメリカに呼ばれて行ったことじたい、生きた歴史ではないか。アカデミックな、観念的なジャズ論より、もしかすると、こちらのほうに意義があるかもしれないと思いました。
「ジャズ」という言葉は誕生してまだ80年余ほどの短い歴史しかなく、アメリカの黒人社会から生まれた音楽であり、しかもクラシック音楽と違い、ポピュラー・ソングと密接な関係にあったため、今でも、特に日本では、ジャズはライト・ミュージック(軽音楽)などと呼ばれます。
 ジャズに対する認識が一般的には少ないのではないか、実際、ジャズをお聞きになっている方たちがどれだけいらっしやるのか、私にはよくわかりません。しかし、ジャズをよく知らない方も、また、お聞きになっていらっしやる方たちでも、私の実際の体験を通した考えや感想をお伝えすることで、より深くジャズに対する親近感を持って下さるのではないかと思いました。
 偉大なデューク・エリントンやディジー・ガレスピーのような、ジャズの歴史を実際に創っていったミュージシャンたちとの体験談も、私でなければお話しできないようなことでしょう。また、私は日本の文化をジャズと融合させた音楽を創り、ジャズ界に位置付けようと努力してきました。それは、どんなことが動機で、そのような考えに到達したのだろうか。そんなことももしかすると、皆さんのジャズに対する認識を新たにしたり、また、深めて下さるということのお役に立つのではないかと思い、この原稿を書くことにしました。
 ジャズがいまやユニバーサルな音楽になった今日、日本でもより多くの方に正しく理解していただき、身近に楽しんでいただきたい。また、この講座を通して、何かしらジャズの将来性を感じ取っていただければ幸甚に存じます。

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[放送予定] NHK人間講座
第1回 ジャズに魅せられて 6月7日放送−−−−−− 7
第2回 ジャズとは何か 6月14日放送−−−−−−−25
第3回 バド・パウエルとの出会い 6月21日放送−−  43
第4回 わが心の師デューク 6月28日放送−−−−−59
第5回 巨人たちの思い出 7月5日放送−−−−−− 76
第6回 私を支えてくれた二人 7月12日放送−−−− 93
第7回 ジャズを愛する人々 7月19日放送−−−−−111
第8回 ジャズの心、日本の心 7月26日放送−−−−124

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[Last updated 8/31/2004]