ボクの音楽武者修行
 



小沢征爾
(株)音楽の友社

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目 次

1. まえおき
2. (本の)目次
3. あとがき
4. 解説

1.まえおき
 この本は、最近NMCの友人荒川氏に文庫本を借りて読みました。
 私としては二つの点から面白いと思いました。一つは今や押しも押されもしない世界的な指揮者の小沢征爾の出発点が、興味深く書かれていることです。
 もう一つは、我々がフランスに留学し、たまたま最初の語学研修で送り込まれたのがブザンソンでした。夏に各国の文化祭のようなものがあり、小沢征爾が優勝したホールで有志数名が「箱根の山」と「花」を歌ったからです。
 この本はもとは音楽の友社から出版された単行本なので、表紙はそれを使いました。その他は文庫本(新潮社)から採っています。

2. 本の目次

日本を離れて………………………………………… 7
棒ふりコンクール…………………………………… 35
タングルウッドの音楽祭……………………………105
さらば、ヨーロッパ…………………………………  153
日本へ帰って………………………………………195
 あ と が き…………………………………… 204

                 解 説  萩 元 晴 彦

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3. あとがき
 もしこの本を終わりまで読んでくださった方があったとしたら、ぼくはその方にたいへんお礼を言わなければならないと思うのです。なぜといって、ぼくたち音楽家が字を書いて、本を作りあげるということ自体、すいぷん無理があるし、本来不可能に近いことだからです。
 もちろん、その音楽家が一生音楽をやり通して、死ぬ間際に自分の一生を振り返って本を書くというのなら、またその価値があるでしょうけれども、ぼくのばあいは、まだ音楽家としてはかけ出しなのです。そのぼくが本を書いたというのは、ぼくがこの三年間ばかりのあいだに、自分でもグルグル目が回るほどいろいろなところを動いて回ったということ、そしてそのことを本にしてみないかと、音楽之友社がすすめてくださったということが、この本を書いた理由になるでしょう。
 ところで、もしあなたが今日一日あったこと、あるいは三日間の遠足で起こったことを話しなさいと言われれば、簡単なことだと思うでしょうが、もし、この一年にあったことを書いてみろと言われたとします。一年は三百六十五日あって、その一日一日が着実に自分の目の前に現われて、そして消えていく。それをあとから振り返って書くということは、そのこと自体が、小説家、文筆家の職業に入ってくると思うのです。
 ぼくがこの三年間に起こったことを書けといわれたときに、いちばん困ったのはこのことです。いま振り返ってみると、いろいろ面白いことがあったり、あるいはいい思い出があったり、目新しいことに目がギョロギョロしたり、目が回るほど新しいものを見て感動したことを思い出しますが、その日その日を思い出そうとすると、朝、目が覚めて、どこかで朝御飯を食べて、どこかで体を動かして、時間がたつのに体を任せて、夜寝るときはどこか別な場所で寝ていたという、平凡な一日しか浮かんでこないのです。
 スクーター旅行について言っても、スクーターで走っているときは、その1分1分に、べつに本に書けるような目新しいこと、珍しいことが起こっていたわけではないのてすけれども、あとになって考えると、まったくその前には考えもせず、いま考えても、どうしてあんなことになったのかと思うようなことがいつのまにか起こっていたわけです。
 そんなわけで、365日にきまっている一年を、なんらかの形で一冊の本にまとめなければならないということ自体、ずいぶん戸惑ってしまう。手紙を書くのさえ億劫(おっくう)なぼくには、まったく戸惑ってしまう仕事でした。

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 それをなんとか本にしてくれたのは、まったくまわりの人のおかげで、とくに文中に出てくるポン、これはぼくの弟の幹雄ですが、そのポンが、ぼくが外国から自分の両親、兄弟、友だちに出した手紙をぜんぶとっておいてくれて、それを一冊のノートに書き写してくれたのです。そしてぼくが日本に帰ってきたときに、その大学ノートをぼくの目の前に差し出してくれたので、まったく自分の日記帳みたいにそれを追って、なんとか自分がやってきたことや、そのまわりのことを思い出すことができ、それをダラダラと本にしたというのが、この本をぼくが書けた裏話です。
 ですけれども、この裏話にはまた裏話があって、音楽之友社の中曾根さん、水野さん、このお二人のたいへんな努力がなかったらこの本はとても出来あがらなかったでしょう。まったくぼくが想像するに、彼らが作った本のなかで、これほど世話のやけた著者はいなかっただろうと思います。それでも彼らは我慢してやってくださいましたし、ぼくの文を助けて下さった北さんにも、たいへん感謝をしております。
 それからまた、原稿がだんだんできあがってくるにしたがって、さっき出てきたポンや、それからぼくのうちの人たちみんなが、ここは長すぎるとか、言葉がおかしいとか、いろいろ意見を言ってくれたり、めんどうな校正をやってくれたりして、そのなかで、ぼくがオロオロしながら本ができあがったというわけです。
 ぼくはこの本を読み直していると、そこから出てくる思い出、あるいはそのときの風景が目の前に浮かんできて、たいへん楽しいのですが、ぼく以外の他人が読んでも、目に浮かぶわけではないでしょうから、この本はあるいは、ぼくだけのための本と言えるかもしれません。その点にっいても、読んで下さった方にはたいへん申しわけなく思っております。
 日本から外国に行くということは、将来は変わるでしょうけれども、いまは非常にむずかしいことの一つとされています。ぼくはそのなかで、非常に幸運だった者の一人ですけれども、これから先きそのむずかしい問題を通り抜けて外国に行く日本の若い音楽学生、ぼくたちの仲間の音楽家たちのために、いい点にしろ、悪い点にしろ、少しでも参考になれば、幸いだと思っています。                     (昭和37年2月)

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4.解   説

萩 元 晴 彦
『ボクの音楽武者修行』は、1961年、当時26歳だった小澤征爾によって書かれ、翌年音楽之友社から初版が刊行された。まことに比類のない、みずみずしい青春の書である。
 音楽家白身が書いた本は数多い。そのほとんどが素晴らしいものだ。だがその大部分は、巨匠といわれる大家たちの回想録であり、人間的にも年輪を加え、円熟の境地に達した人びとのものだ。いわばゴールに到達した長距離ランナーが、激しかったレースを振り返って語っている感がある。
 一方、回想録の対極に立つものとして、後世の史家・研究家が、資料を蒐集(しゅうしゅう)して編んだものもある。好個の例がモーツァルトの書翰集(しょかんしゅう)だろう。
 35歳で世を去った天才は、自身の手紙が公開されることなどはまったく予期せず、父や母や友人に宛てて、まるで小鳥の囀りのように自由に書き綴った。まさしくそれは、モーツァルトの貴重なドキュメントである。
『ボクの音楽武者修行』は、そのいずれのカテゴリーにも属さない、異色の著書である。著者はまだ26歳。いくつかの国際コンクールで優勝し、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任したばかりだ。当時の日本の音楽界では、それはニュースと形容するにたる事件ではあったが、国際的な基準で見るなら、何ほどのものでもない。
 小澤征爾は、<音楽>という、ゴールの地点すら見定めることもできない、涯(はて)しないレースのスタートを切ったばかりだった。彼は生涯つづく長距離レースの、ほんの最初の数キロを、まるで百メートルランナーのように疾走していた。
 本書を読めば、疾走している人間の、鼓動や吐息が聞えてこよう。そればかりか私たち読者は、あたかも小澤征爾とともに、レースを疾走しているかのような気持に捉えられるのである。
 耳なれぬものだが、彼は<共生感>という言葉をしばしば用いる。いい音楽を作ることができたときに感じる「共に生きているのだ」という実感を表現したものだが、すベての読者は彼にこの<共生感>を感じるにちがいない。
 比類のない、みずみずしい青春の書だと私が規定するのは、当時の小澤征爾が青春期を生きていたからではなく、本書が読者の胸に熱い青春の鼓動を打たせるからである。青春とは年齢の謂(いい)ではない。
 初版のあとがきに彼自身も書いているように、本書の底本はヨーロッパ、アメリカから、彼が家族に書き送った手紙である。引用されたものばかりでなく、大切に保存されていたすべての手紙を通読して、私が何よりも心打たれたのは、彼の家族に対する優しい思いやりだ。優しさは小澤征爾を理解する、重要な手がかりである。

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今回、ぼくの準備は完璧(かんぺき)そのもので、考えようによっては大名旅行だから、うちで心配することはないでしょう。それより、うちの方こそ健全財政になるよう気をつけるべきで、その日財政は気分がくたびれます。(59.2.20 淡路山丸船上にて)

 多少の解説が必要かも知れない。当時の小澤家は裕福ではなかった。
 本書にもあるように父親の開作氏は、満州国建設に情熱を燃やした、国士のような人物であった。引き揚げたのちも本業の歯科医に戻ろうとはせず、裕福はおろか一家は貧窮のなかにいた。
 だが小澤征爾の回想によれば、「家中大陸育ちのためか、一日食べるものがあれば幸福だった」苺(いちご)を一箱買うことができても、一家6人では一人あたりせいぜい三粒。花林糖一袋買っても五つか六つ渡るだけだったが「こんなに美味(おい)しいものが世の中にあったのか」と感謝したという。いまでも花林糖は小澤征爾の好物である。
 こんな経済状態で、子供たちは成城学園という「坊ちゃん学校」へ入学し、小澤征爾はピアノの勉強も始める。師は豊増昇氏。町のピアノ教室の先生とは訳がちがう。
 また、学期末には「右の者学費未納につき……」と掲示板に貼(は)り出される常連だったが、兄弟全員が少しも卑屈にならず、のびのびと個性を生かして育ったことも見落してはならない。つまり小澤家は、のちに桐朋学園(とうほう)に進んだ小澤征爾が、指揮の<天才少年>として認められたからヨーロッパ留学に送り出したのではなく、経済状態がどうあれ、家族全員が個性的に生きるのが当然だという<家風>があったのだ。だいいち小澤征爾は、<天才少年>などではなかった。
 私は<家風>という古めかしい言葉を使った。だが本書が執筆されて二十年、現在小澤征爾が音楽監督であるボストン交響楽団の<家風>もこれと同じであると言いたいのだ。指揮者が絶対君主として存在するのではなく、百人の楽員が個性的であること−それはここ数年リハーサルにおいて、彼がオーケストラに希望する言葉からも、うかがい知ることができる。
「室内楽のように弾いて下さい!」

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 室内楽奏者とは、機械のように、歯車のように与えられた楽譜を演奏するのではない。個性的なソリストの集合体が、個性を発揮して自己の音楽を披瀝(ひれき)し、たがいに「聞き合って」音楽を創造する。小澤征爾はオーケストラの理想とは、室内楽奏者の集合体だと考え、その理想はボストン交響楽団で、次第に実現しっつあるといって過言ではない。
 だから意識したか否かはともかく、彼が書き送った手紙で示されている家族への優しい思いやりは、ようやく開作氏が歯科医を開業したとはいえ、まだその日財政だった家から、自分だけが留学することの引目からではなく、個性的な室内楽奏者が、ほかのメンバーの奏でる音楽に、心を配って聞き入っていることを意味する。感傷的な優しさではなく、いわば同志への明るい励ましと呼びかけなのだ。

 おふくろの誕生日おめでとう。ボクはおやじの誕生日の12月25日とボンの誕生日の10月24日だけは覚えている。ボンの誕生日を知っているのは、ボンが小さい時、よく10月24日を待ちどおしがっていたのを覚えているからだ。兄貴たちの誕生日を教えてくれ。つい忘れてしまって申しわけない。というのは誕生日がわかれば、その日に間に合うように何かを送りたいと思う。安い物でも、パリじゅうをスクーターで回れば、何か珍しい物が手に入るはずだ。(弟宛て 60.2.16 パリにて)

 新年おめでとう、寄せ書きありがとう。
 うちの台所で酒が飲みたい。どんな立派なキャバレーで飲んだ酒よりも、うちの狭い台所で飲んだ酒の味が忘れられない。
 おふくろさんが腰を打ったとかいうことだが、大丈夫? 大の息子を四人(今は三人だけど)持ってるんだから、軽々しく高い所へ上がったりしないでください。野郎どもを大いに使うべしだ。(中略)スキーから帰って来たら、ニューヨーク・フィルの副指揮者に任命されていた。実に嬉しくて、飛び上がってあわててブドー酒を飲んだ。(61.1.6 パリにて)

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 ベルリンに来ている。ベルリンも今年はこれが最後かもしれないので、挨拶やらなにやら雑用が多くてまいる。田中(路子)さんは夫婦そろって親切なので感謝している。田中さんは長年ヨーロッパにいた人に似合わず、非常に日本的、また家庭的だ。ボクのところへ来た江戸さんやおふくろさんからの手紙を読んでは、自分のことのように喜んでくれるんだよ。
 昨年の9月、この写真のテレビ塔の下にあるベルリンの放送スタジオで、ニューヨーク・フィルのバーンスタインに初めて会ったんだ。(61.1.13 ベルリンにて 絵葉書)

 引用をつづければ際限がない。文章は短いが、真率で心がこもっている。小澤征爾はいまでは多忙なスケデュールであまり手紙は書かぬようだが、日本を離れて一人で海外にいるとき東京の家族へ国際電話を欠かさない。世界中で、個人払いの電話料金を最も多額に支払っているのが彼ではないか。
 ところで最後の手紙の田中路子さんとは、もちろん本書に登場するソプラノ歌手で、小澤征爾ばかりではなく、多くの日本人音楽家の世話をされたことでも知られている。
 私は79年から80年にかけて、ラジオ番組「小澤征爾の世界」取材のため、本書に登場する彼と重要な出会いを持った人物の大部分を訪れた。そして驚くべきことを発見した。
田中路子さんは語っている。初めて無名の小澤征爾が彼女の家を訪ねたとき、夫君のデ・コーバ氏(ドイツ人俳優・演出家)は、「彼は日本人として初めて国際的指揮者となる」と断言してはばからなかったという。ブザンソンで優勝する以前のことだ。
 また、そのブザンソンのコンクールを受験するにあたり、協力を惜しまなかったパリのアメリカ大使館員マダム・ド・カツサ−ある意味では彼女の存在がなければ、小澤征爾の現在はちがったものになっていたかも知れない−は、部下に「この青年はコンクールで優勝するでしょう」と予言している。
 このようなエピソードは、伝説としてスターにつきものである。だが私が取材した限り、あらゆる人物が初対面の小澤征爾に、同じような印象を持ったのは、やはり特記するにたる出来事ではないだろうか。
『ボクの音楽武者修行』は、彼がニューヨーク・フィルと共に、日本に錦を飾るところで幕が閉じられている。前述したように、この程度のキャリアはとるに足らない。以後、小澤征爾はさまざまな辛酸をなめるのだが、例えば本書が書かれたのち、彼にとって飛躍の契機となったのは、シカゴのラヴィニア音楽祭の音楽監督のポストを手に入れたことだった。

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 会長のラドキン氏は、小澤征爾のマネージャーに「日本人指揮者だけは困る」とくり返した。
彼はジョルジュ・プレートルの事故で代役を探していたのだった。
 けれどもほかには代役はいなかった。二日後に現われた小澤徒爾のリハーサルを聞いて、ラドキン氏はこう言った。
「この音楽祭を君にあげよう」
 79年冬、私がシカゴを訪れて出会ったラドキン氏は、80歳を過ぎた老人だった。そしてこのエビソードだけではなく、私にとってはさらに驚くべき事実を知ったのである。
 それは小澤徒爾がサンフランシスコ響やボストン響の音楽監督に就任したとき、そのオープニングコンサートに、ラドキン氏ばかりでなく、例えば本書でしきりに叱言(こごと)を言われていたとあるニューヨーク・フィルの女性秘書であったヘレン・コーツさんなど、何人もの人びとを招いたというのだ。航空運賃もホテル代も彼自身が負担して。
 これは当り前のことだ、わざわざ書くまでもないことだと読者は思うかも知れない。彼自身もそう思うにちがいない。彼の羞じらいにみちた笑顔を私は思い浮べる。けれども当り前のことができる人間を私は尊敬するのだ。そして彼はそれを自分の利害を計算してではなく、心からの感謝の気持を表現するために行なったのである。
「こういう人はほんとに少ないわよ」と田中路子さんは呟(つぶや)いた。
 最後につけ加えたい。私は優しさが小澤征爾を理解する手がかりと書いた。<優しさ>とはまた当節若者の流行語ですらある。優しい人間はどこにもいる。だが小澤征爾がアメリカ、ヨーロッパの真に実力だけが問われる音楽界という競争社会のなかで、その優しさを失わなかったばかりか、勁(つよ)さを兼ね備えて成長したことを読者は知らねばならない。
 本書が書かれた直前、小澤征爾が契約したコロムビア・アーチストの担当マネージャーはロナルド・ウィルフォードという人物だ。彼は小澤征爾と共に成長し、現在同社の代表だが、もっとも印象に残る出来事はという私の質問に答えてこう言った。
 「All makes me cry」
 どれもが泣けてくるようなこと−。
『ボクの音楽武者修行』から20年。その後の物語は、いずれ小澤征爾自身か、或いは誰かによって書かれるだろう。
 私たち読者はそれを切望しないわけにはいかないのである。                  (昭和55年6月)

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[Last updated 12/31/2002]