オンフルール


セーヌ河はイギリス海峡に注がれます。
右岸の町がル・アーブル、左岸の町がこのオンフルールです。
旧港に面して写真のような家並みが続きます。
印象派の画家達が描き、ブーダンの生まれた町です。

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絵になる街
その名もやさしい響きのオンフルール(Honfleur)は、その昔港町として栄えたが、19世紀からはむしろ芸術の町として知られるようになった。ルーアンの町が「美術館」だとすると、オンフルールは町全体が「絵」だといってもいいだろう。小じんまりとした旧港には、ヨットや漁船がひしめき合う。海を背に左側が石造りの古い邸宅が並ぶサンテチエンヌ岸壁、右側がスレート屋根の縦長の家が軒を連ねるサント・カトリーヌ岸壁。夏のように暑くなった陽気のせいか色とりどりの軽装をした人たちがレストランやカフェに溢れ、岸壁を散歩している。
 街はずれにある、キャンピングカーでオンフルールを訪れる人たちのためのような空き地を過ぎ、舗装のない道をゆくと、川べりに出た。建築中のノルマンデイー橋が右手に見え、ル・アーヴル港が霞んで見えた。英仏海峡に流れこむセーヌ河口は芭洋としていた。

印象派発祥の地
 日は暮れ始めていたが、印象派発祥の地といわれるコート・ド・グラスの高台にあるサン・シメオン農場跡に行ってみることにした。
 このサン・シメオン農場は、今回の旅で重要なポイントの一つなのだが、少し残念なのは30年前に豪華なホテルに改装されたこと。ホテル側も、絵画の歴史に深い関係がある場所ということは充分に承知しながらも、改装後の贅沢な造りはどうも雰囲気が冷たいものになってしまっている。受付の女性たちは美人揃い、ボーイたちも制服で威儀を正している。私たちが行った時間が夕食前だったせいもあって、出入りしている逗留客も正装していた。取材姿の私たちは場違いといった感じがして、多少気が引けてしまった。

 今から130年あまり前のサン・シメオン農場は、マダム・トウタンが娘と経営する開放的な宿だった。海に面した崖上の広い農場にはリンゴの木が散在し、牛が草を食んでいた。宿は17世紀のしっかりしたノルマンデイー風田舎家で、コロー、ドービニー、クールベ、ブーダン、ヨンキント、モネ、バジールなど多くの画家たちが逗留した。サン・シメオン農場での画家たちの生活はブーダンが描いた絵に残されている。農園のリンゴの木の下に、粗末なテーブルと椅子が置かれ、リンゴ酒を飲みながら、ドミノに興ずる画家たちは陽気で楽し気だ。仕事の合間に一杯飲みに来る漁師やその女房たちは草の上に座っていたり、寝そべっていたり、飲み放題のリンゴ酒の素焼きのかめはいたる所に置いてあり、空になったものはころがしてある。
 ここに集まったブーダンやヨーハン・バルトルト・ヨンキント(1819〜91)に代表されるサン・シメオン派の画家たちは、絶えず変化する自然をとらえるために、今までの画家のように戸外でデッサンしたものをアトリエで仕上げる方法をとらず、戸外にイーゼルを立て、キャンバスに直接に素描し油彩した。クールベは「私は天使が見えないから描かない」という有名な言葉を残しているが、この″目に見えるものだけを描く″という写実派クールベの確固たる主張から印象派は生まれた。
 1864年の夏、モネはバジールとオンフルールヘ来た。その時、バジールが母親へ書いた手紙には、当時のオンフルールの感じがよく出ているから引用しょう。
 「友人のモネとパリを発ってルーアンに立ち寄り、蒸気船でセーヌ河をくだってオンフルールヘ来ました。着いてすぐモチーフになる風景を探しましたが、楽園のようなここで、それを探すのは簡単です。広い野原、立派な森、馬は自由に走り回り、牛もたくさんいます。海というよりセーヌ河なのですが、河口は広く草原のような流れが素晴らしい視野となっています。私たちはオンフルールのパン屋の二部屋を借りて、食事はオンフルールより少し先の崖上のサン・シメオン農場でしています。そこが私たちの仕事場であり、一日をそこで過しています」
 モネはここを気に入ったらしく、このあともたびたびサン・シメオン農場に滞在している。
 農場の納屋を描いた絵がある。この「荷馬車、オンフルールの雪道」(1867年頃)は、「庭の女たち」(1866年作)の大作を描いた時に借金して債権者から逃れるためにオンフルールに滞在していた時のものと思われる。この納屋は現存し、ホテル側はモネの絵の中にある納屋として保存しておきたい意向をもっている。
 ホテルの玄関の左二階がコローの部屋で、海に面したほうにモネの部屋があるとか。真偽のほどは別として、部屋のテラスから眺める海景は素晴らしいだろう。立派な庭は古さを演出して、大きな石でできたリンゴ圧搾機を置いたり、海辺近くの古い小屋はそのまま保存したりして、雰囲気づくりには努力してはいるようだった。

 わたしたちは、モネが逗留した湾側のホテルに泊まり、朝出かけようとロビーにおりて行くと、受付にいたホテルの主人が、客が発ったからと言って二階のモネが泊った部屋を見せてくれた。窓からオンフルールの港がよく見える。さほど広い部屋ではないが、モネは天気が悪い日はこの部屋の窓からの景色を描き、雨や風で視野がきかない日は、階下の広いサロンでブーダンやヨンキントたちとリンゴ酒を飲みながらドミノに興じたという。

ブーダン美術館
 モネの部屋を見たあとで、歩いて10分ほどのブーダン美術館へ行った。古い女子修道院を改造し新しく近代的な建物を増築したこの美術館は、入口は狭いが内部へ入ると意外と広い。19世紀の画家ではイザベイ、クールベ、ヨンキント、ブーダン、20世紀の画家ではデュフィやマルケなどの作品があり、オンフルールのような小さな町の美術館にしては所蔵する絵の豊富さに驚かされる。
もちろんのことブーダンの作品は多く、パステルで描いた空と海のエチュードを見ると、大気の中に流動する水と雲を追い求めた努力がよくわかる。詩人で評論家のボードレールはオンフルールのブーダンのアトリエを訪門した時、膨大なエチュードの余白に、日付と時間と風向きまでメモしてあったと1857年のサロン評に書いている。

聖力トリーヌ教会
 美術館を出たら大雨。こんな降り方だと、多分晴れるのも早いだろうと、聖カトリーヌ教会前の広場へ行く。モネは1867年に教会前にある鐘楼を描いた。教会も鐘楼も西ヨーロッパでは珍しい木造建築である。14世紀の百年戦争後、オンフルールの造船所の棟梁たちは戦争が終った感謝のしるしに教会を奉献しようと、建築技師や石工が不足がちながら、自分たちの力でできる教会を造ったのが、この珍しい木造建のいわれである。
 教会前の広場では週一回土曜日の午前中だけの市場が開かれ、雨だというのに大賑わいであった。豊富な食料品が屋台に並び、売り手のかけ声も勇ましい。ノルマンデイー名産のチーズもたくさんの種類を所狭しと並べてある。そのほか、野菜を売る人、豚肉製品を売る人、フランスの市場はどこでも活気があって見て歩くだけでも楽しい。

石畳の街
 午後から予想どおり晴れた。
 オンフルールはのんびりと歩く町。旧市街は石畳に情緒がある。
 モンマルトルのボヘミアン作曲家、エリック・サティ(1866〜1925)の生家はオート通り88番地。彼は音楽関係出版社の社長の息子だったともいわれているが、それにしては貧しい生家だ。修復して近年中には記念館として開館される予定である。
 サティの生家から少し南のデュ・ピュイ通り23番地にはヨンキントが1863年から数年住んでいた。ブーダンが若いモネにとって直接の師であったとすれば、ヨンキントは視覚の師としてモネに影響を与えた。ヨンキントもパリの快楽の町モンマルトルに住みアルコール中毒に悩まされるようになって、この小さな港町オンフルールで癒されたのだった。
オンフルール生まれのブーダンの生家は旧港から少し南へ行ったブールデ通り27番地にあり、「空と海の画家、ウージエーヌ・ブーダンの生家」と書いたプレートがある。
サンテチエンヌ波止場通りには画廊や骨董品店があって楽しい。一軒の店に入ってみた。長方形の小さなテーブル形の中央がえぐられて真真鍮りになっている植木鉢置きがあった。ホテル・シュヴァル・ブランの廊下にも、これと同じものがあって欲しいと思っていたが、車のトランクは荷物でいっぱいなのを思って諦める。小さなもので何か記念になるものはないかと、店内を見て回ったが、これぞと思うものがなく少し残念な思いがした。
(出典 モネの風景紀行 佐々木三雄・綾子共著 写真 山口高志 求龍堂)

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[Last Updated 10/31/2002]