ビル・エヴアンス


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ビル・エヴァンズ(1929〜1980)
 ニュージャージー州生まれ。ピアニストとして、初期はバド・パウエルの影響を感じさせたが、次第に独自の白人的なスタイルを確立する。58年、マイルズ・デイヴィス6重奏団への参加を経て、59年にベーシストのスコット・ラファロを加えたトリオを結成。デリケートで内省的なタッチと緊密なインタープレイでピアノ・トリオの新しい方向を示し、歴史的傑作を残すが、61年に自動車事故でラファロを失う。

 ピアニスト、ビル・エヴァンズの有する資質の最良の部分が、ピアノ・トリオというフォーマットの中に出てきたことは、衆目の一致するところである。それも、より範囲を限定するなら、スコット・ラファロをベーシストに迎えたピアノ・トリオということになる。アルバムでいえば、『ポートレイト・イン・ジャズ』『ワルツ・フォー・デビー』『サンデー・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード』『エクスプロレーションズ』の4枚だ。これらのアルバムを録音し、制作した事実だけとつても、リヴァーサイドというレーベルは人々に記憶されるべきだろう。
 これらのアルバムにおけるエヴァンズの演奏は、文句なく素晴らしい。人間の自我が(それもかなりの問題を抱えていたであろう自我が)、才能という濾過(ろか)装置を通過することによって、類まれな美しい宝石となってぼろぼろと地面にこぼれおちていく様を、僕らはありありと目撃することができる。その複雑精緻な濾過装置をぴたりとスタビライズ(安定化)し、またその内向性を相対化し、活性化しているのが、スコット・ラファロの春のようにみずみずしく、また森のように深いベース・プレイである。その新鮮な息吹は、僕らのまわりを囲んでいる世俗的なバリアを静かに解き、奥にある魂を震わせる。この時点ではエヴアンズなくしてラファロなく、ラファロなくしてエヴアンズなし − まさに一世一代、奇跡的な邂逅(かいこう)といってもさしつかえないだろう。
 それまでのエヴァンズを基本的に定義してきたバップ・イディオムがここで実にあっけなく解体され、新しい地平線が彼の前に − そして僕らの前に − 現出する。僕らは解き放たれ、古い衣服は脱ぎ捨てられる。僕らの皮膚は新しい色を獲得し、僕らの意識は新しい細胞を獲得する。そこには理不尽なばかりの発熱がある。世界を熱く恋する心がある。世界を鋭く切り裂く心がある。
 残念ながらスコット・ラファロの早すぎる死(1961)によって、二人のこの見事なインタープレイはほんの数年しか続かなかったし、エヴァンズの完全主義が結果的に災いして、わずかな数の録音しかあとに残されなかった。ラファロの死後、エヴァンズは何人かのレギュラー・ベーシストを迎えたが、ラファロとのあいだに生み出されたような真に自発約なオリジナリティーは、二度と出現しなかった。もちろんエヴァンズはそれからあともいくつかの優れた演奏を残しはしたが、ラファロ以降、「自我の相対化」のより新しいパースペクティヴをジャズ・ファンの前に示すことはできなかった。繊細で内向的な資質は常に高い水準で保たれていたが、かつてそこにあった発熱は消えていた。失われてしまったたった一度の宿命の恋のように。
 アルバム『ワルツ・フォー・デビー』はCDではなく、やはり昔ながらに体を使ってLPで聴くのが好きだ。このアルバムは片面三曲でひと区切りをつけて、針をあげて、物理的にほっとひとつ息をついて、それで本来の『ワルツ・フォー・デビー』という作品になるのだと僕は考えている。どのトラックも素晴らしいけれど、僕か好きなのは「マイ・フーリッシユ・ハート」。甘い曲、たしかにそうだ。しかしここまで肉体に食い込まれると、もう何も言えないというところはある。世界に恋をするというのは、つまりはそういうことではないか。
(出典 ポートレイト・イン・ジャズ 和田誠 村上春樹 新潮社 1997.12.20)

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[Last Updated 3/31/2002]