「風の歌を聴け」


(株)講談社

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             目 次

1. ハートフィールド、再び…… (あとがきにかえて)
2. 〈象〉を語る言葉
3. 梗 概


1. ハートフィールド、再び…… (あとがきにかえて)
 もしデレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう、とまで言うつもりはない。けれど、僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだと思う。
 高校生の頃、神戸の古本屋で外国船員の置いていったらしいハートフィールドのペーパー・バックスを何冊かまとめて買ったことがある。一冊が50円だった。もしそこが本屋でなけれはそれはとても書物とは思えないような代物だった。派手派手しい表紙は殆んど外れかけて、ページはオレンジ色に変色している。恐らくは貨物船か駆逐艦の下級船員のベッドの上に乗ったまま太平洋を渡り、そして時の遥か彼方から僕の机の上にやってきたわけだ。
                                     ★
 何年か後、僕はアメリカに渡った。ハートフィールドの墓を尋ねるだけの短かい旅だ。墓の場所は熱心な(そして唯一の)ハートフィールド研究家であるトマス・マックリュア氏が手紙で教えてくれた。「ハイヒールの踵くらいの小さな墓です。見落とさないようにね。」と彼は書いていた。
 ニューヨークから巨大な棺桶のようなグレイハウソド・バスに乗り、オハイオ州のその小さな町に着いたのほ朝の7時であった。僕以外にその町で下りた客は誰ひとり居なかった。町の外れの草原を越えたところに墓地はあった。町よりも広い墓地だ。僕の頭上では何羽もの雲雀がぐるぐると円を描きながら舞い唄(フライト・ソング)を唄っていた。
 たっぷり一時間かけて僕はハートフィールドの墓を捜し出した。まわりの草原で摘んだ挨っぽい野バラを捧げてから墓にむかって手を合わせ、腰を下ろして煙草を吸った。5月の柔らかな日ざしの下では、生も死も同じくらい安らかなように感じられた。僕は仰向けになって眼を閉じ、何時問も雲雀の唄を聴き続けた。
 この小説はそういった場所から始まった。そして何処に辿り着いたのかは僕にもわからない。
 「宇宙の複雑さに比べれば」とハートフィールドは言っている。「この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。」
 そうであってほしい、と僕も願っている。
                                      ★
 最後になってしまったが、ハートフィールドの記事に関しては前述したマックリュア氏の労作、「不妊の星々の伝説」(Tbomas McClure; The Legend of the Sterile Stars: 1968)から幾つか引用させていただいた。感謝する。
  1979年5月                                村上春樹

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2. 〈象〉を語る言葉 富岡幸一郎
 村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』が発表されたのは1979年のことである。『群像』新人文学賞の受賞作として同誌6月号に掲載されたが、当時の選考委員もこの小説の新鮮さを評価し、支持した。カート・ヴオネガットやブローティガンなどの現代アメリカ小説の影響を指摘しながらも、たとえば丸谷才一はこのようにいっていた。
《とにかくなかなかの才筆で、殊に小説の流れがちっとも淀んでゐないところがすばらしい。29歳の青年がこれだけのものを書くとすれば、今の日本の文学趣味は大きく変化しかけてゐると思はれます。この新人の登場は一つの事件ですが、しかしそれが強い印象を与へるのは、彼の背後にある(と推定される)文学趣味の変革のせいでせう。この作品が5人の選考委員によつて支持されたのも、興味深い現象でした》
 ちなみに5人の選考委員とは、丸谷氏の他に佐々木基一、佐多稲子、島尾敏雄、吉行淳之介といったメンバーであった。丸谷氏以外はすでに物故者となったことを思えば、この20年の歳月の流れを改めて感じざるをえないが、村上春樹という新人の登場が、「一つの事件」であったことは、しかし当時はまだ一般的には十分に認識されていなかった。
 むしろ、日本のいわゆる戦後文学をリードしてきた当時の選考委員たちこそ、『風の歌を聴け』の新しさを、この小説がそれまでの近代日本文学とはあきらかに異質な要素を持ったものであり、文学にとっての変化を示すものであることを直観したように思われる。
 個人的な思い出になるが、私は村上氏が受賞したとき、評論部門の優秀作となったが、私がそのとき応募した評論は埴谷雄高と三島由紀夫についてのエッセイだった。村上氏よりも若い世代の私にとっての関心は、むしろ戦後文学の方であったのにたいして、『風の歌を聴け』という作品は、その戦後文学の流れと明らかに一線を画する″新しさ″を示していた。それは1976年にやはり『群像』新人賞からデビューし、芥川賞となった村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が、戦後文学の流れのなかから出て来た作品であるのにたいしても対照的であった。
 ここで戦後文学というものを少し定義しておく必要があろう。文学史的には、それはもちろん第二次大戦後に登場した、第一次戦後派にはじまるものであるが、三島由紀夫や安部公房、さらには吉行淳之介や安岡章太郎、小島信夫らの「第三の新人」と呼ばれる作家たちも、広義には戦後文学の流れに位置づけることができるだろう。彼らは、各世代それぞれの戦争体験を持ち、その文学的な方法や技法は、明治以来の近代日本文学の蓄積を前提としつつ、それを戦後という時代と状況のなかであらたに展開したものであった。つまり、古典的な私小説風なものであれ、反ロマン風のものであれ、その基底には近代小説のリアリズムがあった。

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 この戦後派の作家たちは、1970年前後に、その代表作をほぼ結実させる。椎名麟三『懲役人の告発』(69年)、堀田善衛『橋上幻像』(70年)、三島由紀夫『豊饒の海』(71年)、野間宏『青年の環』(71年)、武田泰淳『富士』(71年)、福永武彦『死の島』(71年)など、戦後文学の大作が目白押しに並び、その後70年代半ばから、一種の文学的空白が生じる。それはこの時期に、戦後文学は時代的には終焉をむかえたということであろう。
 ところで、中村光夫は『占領下の文学』(1952年)というエッセイで、第一次戦後派に代表される戦後文学というものは、その源流は戦前にあるのであり、本当に戦後の影響が出てくるのは、1940年代後半生れの人が20歳になる頃であると指摘した。いいかえれば、1970年代の半ばには、戦前からの、日本の近代文学の蓄積は、その遺産はほとんど出しつくされたのである。1940年代後半に生れた世代は、その意味では近代文学・戦後文学の遺産の上に立って小説を書くことが、すでに不可能になっていたといってもいい。
 1949年生れの村上春樹の登場は、まさにこの日本近代文学の貯金がゼロになったところ、つまり「小説」を書くこと、フィクションを書くことのあらたな可能性をさぐるところから<始める>ことを意味した。戦後文学の流れをくむ選考委員の作家たちは、したがって鋭敏にこの作家の″新しさ″の質に気づいたのであろう。
 すでに近代小説としてのクラシックになりつつあった戦後文学を批評の対象としようとしていた私にとっても、同じように『風の歌を聴け』はひとつの衝撃であった。
                                        *
『風の歌を聴け』が、だから言葉を書くこと、文章を書くこと、そのことのこだわりから<始め>られているのは偶然ではないだろう。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
 しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
  (中略)
 今、僕は語ろうと思う。
 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
 しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。

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<言葉>を見出すこと、発見すること。この作家が見つけようとしているのは、小説のテーマでも、主題でも、書くための動機でもない。それは端的に<言葉>なのだ。
 もちろん、作家は日本語を母国語としており、とりあえず日本語でこの小説を書いている。しかし、この作家のなかでは母国語はすでに特権的なものではない。近代小説というものが、言文一致運動と国民という想像的共同体(ベネデイクト・アンダーソン)と連動して成立したということはよく指摘されるところであるが、そうした議論をことさら持ち出すまでもなく、『風の歌を聴け』の作者にとって、重要なのは、そこで大きな課題になっているのは明確に語るということである。「完璧な文章」「正直に語ること」「正確な言葉」。これらの言葉が意味するものは何なのだろうか。それは小説の導入部のたんなるレトリックではなく、村上春樹という作家の、<書く>ことにたいする根本的な姿勢をあらわしているのではないか。
 この作家のなかにあるのは、感覚的なもの、感性的なもの、を可能なかぎり正確に<思想>として語ることである。<象>とは、このような意味の<思想>なのではないか。『風の歌を聴け』の先程の引用の続きを写してみる。
 弁解するつもりはない。少くともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
 今この<象>を<思想>といったが、それは決して抽象的な意味ではない。別のいい方をすれば、<思想>とは言葉によって、思考する対象を明確にし、それを自分にそして他者に(読者に)正確に伝えることである。
 哲学者の田中美知太郎は、『ロゴスとイデア』という本の「現実」という章で、次のように書いている。
《……われわれはヨーロッパの哲学語に、ただ訳もなく出来あいの訳語を機械的に当てて行く代りに、われわれの用いるそれらの哲学俗語が、他の言語では何と言われるであろうかを考えてみる必要がある。無論、それらの困難な場合が少なくないであろう。その困難な試みが、われわれに思想の明確ということを教えてくれるのである。ソクラテスの教えに従えば、何かを語りながら、それが何を意味するのか、他人に少しも分らせることの出来ない人は、実際には何も考えていないのであって、その思想はにせ智慧に過ぎないのである。そして他国の言語に当てはめて考えることこそまさにかかる他の人との対話なのである》

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 これはもちろん哲学のことだけでなく、言葉の表現と思考の全体に、その基底に関わることだろう。村上春樹が『風の歌を聴け』の草稿段階で、これを英文に翻訳して、また日本語に翻訳し戻す作業をしたということを聞いたことがあるが、そうした翻訳的作業も、そのこと自体に何か特別な意味があるのではなく、「思想の正確」ということを目ざすときに必要とするひとつのプロセスであり、言葉の回路であるといえよう。
 村上春樹の登場は、アメリカ現代文学の影響を受けて、新しい文体、スタイルをひっさげて小説を書いたということよりも、日本語(母国語)で書かれてきた小説というものを、もう一度、「他の人との対話」として可能な<言葉>の表現、伝達として、<始める>ことであり、そのことの新鮮さであった。
                                      *
 村上春樹のノンフィクションヘの関心も、私にはこのトランスミッションとしての「思想の明確」ということがらに深く関わっていると思われる。
 村上春樹は1996年にマイケル・ギルモアの『心臓を貫かれて』という殺人犯についての大部のノンフィクションを翻訳刊行しているが、その「あとがき」で、事実とフィクションの関係をこう記している。
《……時が経過すればするほど、事実とフィクションという二つのダイナミズムは(もちろんそれらがそれぞれに良質なものであればということだが)、特性の違いを乗り越えて、だんだん近接してくるのではないかというのが、僕の基本的なヴィジョンである。うまく歳月を経ることによって、事実はよりフィクション的な要素を増し、フィクションはより事実的な要素を増していくのではないか、ということだ》
 事実を描くところのノンフィクションも、それを捉える<言葉>によって、いかようにも左右される。事実は真実とは限らない。ノンフィクションの言葉は、そこで事実の底にある真実を捉えるために正確さを要求される。それは根本的には、小説、フィクションと同じことだ。
 97年に刊行された地下鉄サリン事件のノンフィクションは、村上春樹にとって、この事件のひとつの特性に迫ろうとしたものであった。その特性とは、この事件をめぐるさまざまな報道や言論が、結局のところ「何かを語りながら、それが何を意味するのか」をいっこうに明確にしない、つまり事件の本質的な部分については「実際には何も考えていない」ことにたいする作家の戸惑いと違和感に発するものであった。村上春樹は、地下鉄サリン事件という日本中を震撼させた特異な犯罪をめぐる<言葉>が、田中美知太郎のいうところの「にせ智慧」の「思想」にすぎないことに疑問を抱いたのである。
《1995年3月20日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか?/それが私の抱いていた疑問だった。とても単純な疑問だ。/もっと具体的に述べるなら、「そのとき地下鉄の列車の中に居合わせた人々は、そこで何を見て、どのような行動をとり、何を感じ、考えたのか?」、そういうことだ。私はそのことが知りたかった。(中略)でも不思議なことに(あるいはそれほど不思議でもないのだろうか)、私が知りたいことは誰も教えてくれなかった。/それはどうしてだろう?》

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 答えはさほどむずかしくはない。この事件を正確に語り、伝える<言葉>がほとんどなかったからである。マスメディアのなかに、そのようなことがらの「正確さ」を伝える(たんに事実ではない)言葉が全くといっていいほど欠落し、結果的にこの事件の真実にたいして「何も考えていない」状態を露呈する他はなかったからである。
 だからこそ、作家は次のように書く。
《とすれば、私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ−ということになるかもしれない》
 ここでも村上春樹が求めようとしているのは、見出そうとしているのは、事実を(もちろんその事実のうちに潜む「思想」といってもよい)明確に語る<言葉>なのだ。それは実際の出来事をただ客観的に記録するということではなく、「他の人との対話」のなかで、明確にそして正確に語るということである。
 サリン事件という<象>をめぐる夥しい日本語は、文字通り群盲象を評すの呈を示す以外の何物でもない。しかし、<象>について語ることはできないのだろうか? そこでは「おそらく新しい方向からやってきた言葉」を必要としている。「他の人との対話」のなかから、自分自身の無意識のうちに隠されているものを物語化する、自己と他者の真の対話を可能にする「物語」の言葉を不可欠なものとする。
 村上春樹のノンフィクションヘの志向は、ここではっきりと彼の小説世界、フィクションの言葉と交差する。そして、それは、おそらくデビュー作『風の歌を聴け』のなかに、すでにして志向されていた<言葉>であった。
《……そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう》(『風の歌を聴け』) それはくりかえされる「完璧な文章」「正直に語ること」「正確な言葉」への登攀であり、運動である。
 (とみおか こういちろう・文芸評論家)
 [出典 総特集 「村上春樹を読む」 ユリイカ 2000.3]

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3. 梗 概
 東京の大学に行っている「僕」は夏休みを利用して、海と山に囲まれた小さな郷里の街に帰ってくるが、特に何もすることがない。友人の「鼠」とジェイズ・バーで毎日のようにビールを飲んで過ごす。これは、1970年の8月8日から26日までの3週間足らずのあいだの物語で、そこには女の子との関わりがあったりもするが、特にこれといったクライマックスはない。あるのはただ深い孤独感と喪失感だけだ。
 ジェイズ・バーで、「鼠」が「僕」にいろいろとたくさん本を読んだと話すなかで、「優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである」という格言を紹介する。

「誰だい、それは?」
「忘れたね。本当だと思う?」
「嘘だ。」
「何故?」
「夜中の3時に目が覚めて、腹ペコだとする。冷蔵庫を開けても何もない。どうすればいい?」
 鼠はしばらく考えてから大声で笑った。

 当初、フィッツジェラルドとの関連の深い村上春樹ならではの引用だとして、読み流していたが、今になってよく考えてみれば、実はこの格言の持つ意味は大きいのではないかという気がする。それは彼がこの後も一貫して追求し続けているテーマがそこにあるからだ。あちら側とこちら側といった、彼の描く二つの世界は常に表裏一体の関係にあって、決して切り離せるものではない。われわれ自身、こうした二つの面を同時に持ち合わせているわけだが、それらのあいだでどううまく折り合いをつけるかが難しい。でも、それは現実として受け入れなければならいことだ。だが、ここでは「僕」はそれを否定する。そんなのは嘘だという。そして、ジョークを言って笑い飛ばしてしまう。一方、鼠の方は肯定するでもないが、明らかに否定もしていない。もしかしたらそれは真実なのかもしれないという考慮段階にありそうだ。このあと、彼は結局、それは不可能だという結論に達することになり、「僕」はさらにその答えを求めてさまよい続けることになるのだ。そして、心の中は常にフィッツジェラルドの言う「午前3時」であることを思い知らされるのだ。そんな「僕」に今言えることは、「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている」ということだ。
 (宮脇俊文)
 [出典 総特集 「村上春樹を読む」 ユリイカ 2000.3]

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[Last Updated 1/31/2002]