目 次

1. NHK週間ブックレビュー
2. 「人を損なうもの」に抵抗して
  ゆく
3. 自我の殻、抜け出す道模索

4. 「世界の終り」から「始まり」へ
5. ロングインタビュー
6. 読後感
「海辺のカフカ」



村上春樹[著]
新潮社
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1. NHK週間ブックレビュー
2002.10.13放送分 今週の一冊 「浜辺のカフカ」 村上春樹著

本の内容
 発行直後からベストセラーリストのトップを独走。現代日本文学を牽引する著者の存在感を示した、まさに待望の一冊。

 15歳の誕生日、主人公の「僕」は家を出る。夜行バスに乗り込み、向かう先はひとりの知り合いもいない四国・高松。目的は、たった独りで生き抜くこと。「世界で一番タフな15歳の少年」となって。
 一方、同じ街に住み、戦時中に起こった「謎の事件」以降文字が覚えられなくなり、生活保護を受けて暮らす老人「ナカタさん」も、ある幻想的な「出来事」をきっかけに、同じ高松を目指すことに。
 めまぐるしく交互に展開する二つの物語が重なり合う地点とは・・。
 『メタファー』『想像力』『予言』『運命』・・。さまざまなキーワードに導かれつつ、「物語」その成り立ちと意味が、若き魂に問いかけられる。

 『ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。・・』
 『そしてもちろん、君はじっさいにそいつをくぐり抜けることになる。そのはげしい砂嵐を。形而上的で象徴的な砂嵐を。でも形而上的であり象徴的でありながら、同時にそいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君自身もまた血を流すだろう。温かくて赤い血だ。君は両手にその血を受けるだろう。それは君の血であり、ほかの人の血でもある。
 そしてその砂嵐が終わったとき、どうやって自分がそいつをくぐり抜けて生きのびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。いやほんとうにそいつが去ってしまったのかどうかもたしかじゃないはずだ。でもひとつだけはっきりしていることがある。その嵐から出てきた君は、そこに足を踏みいれたときの君じゃないっていうことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ』

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2. 「人を損なうもの」に抵抗してゆく  [評者] 川上弘美
 ずっと心に懸かっている村上春樹の短編がある。「沈黙」という題のそれは、邪悪な級友によって痛めつけられた高校生の話である。彼が「本当に怖いと思う」のは、邪悪な級友その人ではなく、その人の話を「無批判に受け入れて」 「踊らされて」「誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしない」連中だ、と語る言葉を、折にふれて私は思い起こす。自分が「無批判な側」の人間かもしれないという恐れのもとに。
 突風のようにやってきて、暴力的に人を損ない傷つけるもの。それに対して人は何ができるのか。何ができないのか。やってきた暴力がどう人を損なうのか。さまざまな旋律で、このことは近年の村上作品の中に鳴り響いているように思う。
 悲劇的な予言を受けた少年と少年の運命の糸に縒りあわされた人々の織りなす物語を描いた本書の中には、無数の旋律が響いている。むろん響く旋律の主題は「暴力的な悪」についてだけではない。複雑なコード進行や変奏や転調の中に、いくつも主題が隠されている。読者は自由に自分のための主題を聞き分けることだろう。
 私自身はそして、この小説においても「人を損なうもの」の主題を強く耳に聞き取った。魅力的な登場人物「星野青年」「ナカタさん」の中に、「悪」への真摯(しんし)な抵抗の力を見た。同時にこの二人の中に、私は「沈黙」の中では断罪されていた「無批判に踊る者」たちへの、ある種の許しと哀れみの視線をも感じた。星野青年は、決して最初から「悪」を憎むことを知っている者ではなかった。ナカタさんは元々「空っぽ」な存在だった。もしかしたら何も考えず「悪」に染まっていってしまったかもしれない弱い者たちが、善美への確信に満ちていない者たちが、どうやって「人を損なうもの」に対抗してゆくのか……。
 私は弱く、私は時に無批判だ。その私でも何かができるのかもしれない。そんな恩寵(おんちょう)に満ちたメロディーを、私はこの物語の中に聞き取った。もっともっと、生きてゆきたい。物語を読んで、久しぶりにそう思ったのである。     (作家)
(出典 朝日新聞 2002.9.22)

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3.自我の殻、抜け出す道模索
「海辺のカフカ」  村上春樹著

 これほど新作の待たれている小説家はそんなにいまい。『スプートニクの恋人』以来の書き下ろし長編小説である。内容的には著者の代表作『ねじまき鳥クロニクル』の後継、あるいは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の続編ともいえるから、おもいきりメインストリートの作品だ。その期待にふさわしい質量である。
 15歳の誕生日を迎える真夜中、田村カフカという少年が独り家を出て、夜行バスで四国へ向かう。その少年の冒険と並行して、もう一つの物語が同時進行する。ナカタさんという記憶を持たない老人が、不思議な事件を起こしながら、やはり東京から四国へ向かう。かつて戦時中の山梨の山中で奇妙な児童集団失神事件が発生した。ほとんどの子供が通常の意識を取戻した中で、一人だけ最後まで全く記憶が戻らない男の子がいた。それがナカタさんである。
 二人が向かうのは高松。市内の私設図書館の女性館長が、二つの並行する物語を束ねるかなめになっている。
 上巻は読むのを一瞬も休めないほどの、ものすごい凝縮力と牽引力である。下巻になって少し停滞する。その代わり謎が拡がり、また深まる。というのも、個人という枠組みが読み進むうちに境界がなくなっていくのである。複数の人生の、異なる時間軸が共鳴しあい、重なり始める。
 さまざまな象徴的な話題や不思議なキャラクターが出てくる。いかにも意味ありげな格調高いものから、ポップでお茶目なものまで。そんな手がかりをちりばめながら語りに引き込むのが、この作家は実に巧い。
 読み終わってもまだ、いろいろなことが曖昧なまま残されている気がする。壮大な謎が一種のセラピーを受けるように、深層心理の森の中で象徴的に解決されていくのだが、それはむしろ出発点であるようにも読めるのだ。
 人類が抱えてしまった邪悪さと闘う小説とも、孤独な自我の殻を脱け出す道を模索する小説とも言える。そうした議論を生み出すことで、また著者は多くの読者を獲得することだろう。
文芸評論家 清水 良典
(新潮社・各1,600円)
▼むらかみ・はるき 49年京都府生まれ。早大文卒。作家。著書に『ノルウェイの森』『アンダーグラウンド』など。
(出典 日経新聞 2002.9.15)

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4. 「世界の終り」から「始まり」へ

村上春樹氏の新作『海辺のカフカ』 (単眼複眼)

 村上春樹氏の新作『海辺のカフカ』(新潮社)が圧倒的な物語の面白さで読ませる。作風は、謎が絡み合い奇妙な冒険に引き込まれる『羊をめぐる冒険』(82年)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(85年)などの系譜に連なる。94年の『ねじまき鳥クロニクル』以来の大長編だ。
 二つのストーリーが交互に進行する。奇数章は、母・姉と幼時に別れ、「いつか父を殺し、母と姉と交わる」というオイディプス王と同じ予言を受けた15歳の少年が、東京の父の家を出て四国へ旅する冒険譚(たん)。少年が仮住まいの図書館で"母親"と出会って恋をし、異界巡りをする成長物語でもある。
 偶数章は、猫と話ができるナカタさんがジョニー・ウォーカーさんを殺し、イワシとアジとヒルを空から降らせ、若い運転手と共にカーネル・サンダーズさんに助けられながら「入り口の石」を開ける話。と書くと、いかにも荒唐無稽(こうとうむけい)だが、ナカタさんは奇数章の少年の願望を代行し、異界巡りの通路を開く触媒の役割を担っていることが、明らかになっていく。
 興味深いのは、少年が通過儀礼として訪れる異界が、『世界の終り−』で描かれた「終り」の世界を彷彿(ほうふつ)させることだ。
 『世界の終り−』も奇数章と偶数章で別々の筋が進む。前者は意識の核に特殊な回路を埋め込まれた「私」が情報戦争に巻き込まれる冒険譚。後者は一角獣が人々の自我をコントロールする街で、「僕」が図書館で夢読みをするという叙情的な世界。2作は構造自体が似ているだけでなく、その街が「本のない図書館や風力発電所があり、時の流れのない場所」などと描かれた点も符合する。
 村上氏の考えはこうだ。『海辺のカフカ』は『世界の終り−』の続編ではなく独立した作品だが、「世界の終り」として描かれた世界がその背景にあり、少年はその場所へ行き来する。だが、前作とはまったく違う側面からその世界に近接していった。「世界の終り」であると同時に「世界の始まり」でもある場所として。
 『世界の終り−』は、「私」が「終り」の世界をあらかじめ意識の底に宿していたという設定だった。「私」が何者なのかは問われず、すでに終わっている場所から物語られていた。一方、『海辺のカフカ』では、少年が冒険を始めなければならなった内的必然が存分に描かれている。物語の「始まり」に寄り添って書き込み、主人公が「始まり」でもある世界を経て再生へと導かれる結末を用意したあたりに、この間の村上氏の意識の変化がうかがえる。          (伸)
(出典 朝日新聞2002.9.20 夕刊)

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5 ロングインタビュー
村上春樹 ロング・インタビュー 『海辺のカフカ』を語る
聞き手●湯川豊(編集者)小山鉄郎(評論家・共同通信編集委員)

むらかみ・はるき●1949年京都府生れ。早稲田大学文学部演劇学科卒。
1979年、「風の歌を聴け」で群像新人賞を受賞しデビュー。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎賞)、『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)などのほか、多数の優れた短篇がある。レイモンド・カーヴァー、ポール・セロー、ティム・オブライエンなどの翻訳でも高い評価を得ている。

 ――主人公の田村カフカ少年は四国に行くわけです。四国でなくてはならない理由はよくわからないけれど、とにかく、行く先は四国ときめている。それまで一度も行ったことはないが、「本土から海によって隔てられ、気候も温暖」という。そして少年は高松へ向かう。これはもしかしたら上田秋成の『雨月物語』からきているのかと思いました。『雨月物語』の冒頭の一編「白峯」は、四国の白峰の話です。それは讃岐、いまでいうと香川県です。『雨月物語』の話がこの作品の中にも出てくるし、そういうものと関係があるのかなと思って読んでたんですけども。
 村上 二か所に出てきますね。いや、その四国はまったく考えなかったですね。何で四国かというのは、消去法的にいくと四国しかなかったんです。北海道は寒過ぎるし。九州という地域はけっこう独自の風土がありますよね。きついところがあるというか。東北でもないしなあ、関西だとちょっと大き過ぎるし、文化的主張が強いし、という感じでいくと、四国のあたりというのはスポットとしてすごく嵌まるんです、なんか人が逃げて行くという感じで。『平家物語』じゃないけど、あの辺に逃げて行くんじゃないかなという感じが不思議にするんですよ。それで、主人公のカフカ君が四国しかないなあと思ったように、僕も、どこの場所に行くかなというと、四国しかないという感じがしてきたんです。僕は四国は何回か行ったことがあって、わりに気に入っているところなんです。愛媛、徳島、高知、香川とみんな行ったんだけど、香川県というのは一番腰を据えやすいという感じがするんですよ。受け入れてくれそうな感じがするんだなあ。

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 ――受け入れてくれそうな感じというのは、どういうところがですか。
 村上 気候も穏やかだし人あたりも穏やかだし。行ってみると、空気とか光の加減とか風景の色とか、そういうものがちょっと違うんです、ほかの所とは。なんとなく懐かしいという感じがするんです。
 ――『雨月』で四国に行ったわけではない。それはそれとして、少年の話と三人称のナカタさんの話の両方に、『雨月』の話が出てくるんですね。
 村上 ええ、そうですね。
 ――全集の自作解説でも『雨月』が好きだとお書きになっている。『雨月』にはどんな魅力があって両方に入れられたのか。そのへんはどうなんですか。
 村上 日本文学はそんなに熱心に読んでるわけではないんだけれど、個人的に『雨月物語』という本が昔からわりに好きだったんです。『雨月物語』は、漱石以降のいわゆる近代的自我みたいなものが中心に座った日本の文学以前の物語ですよね。そういう物語性、「ナラティブ」という感じに近い文学の成り立ち方みたいなものに、すごく惹かれるんです。あそこには、自我の影みたいなのはあまりない。あったとしても、それは物語の一部として取り込まれてしまっているものだし。自我を中心に物事を表現するというよりは、物語そのものとして、有機的に自我を内部に取り込んで表現するというところにすごく惹かれるんじゃないかな。
 小学校のころ、子供向きにリライトした『雨月物語』を読んだときからもう本当に惹かれてますね。恐かったけど、面白かった。病気になって学校を休んで寝ているときに、布団の中で『夢応の鯉魚』を読んで、熱に浮かされながら奇妙な夢を見たことを覚えてます。大人になって、古典全集みたいなので読み直してみて、全部が全部好きなわけじやないけど、四つか五つの話は好きだなあ。変なお金の神様みたいなの出てきますけど、あれなんかほんとにおかしいですよね。
 ――最後に置かれている「貧福論」。
 村上 そうそう。プラグマティックなユーモアと呪術的なもの、そういうものの組み合わせ、バランスの取り方がとても面白い。

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 ――『海辺のカフカ』で、カーネル・サンダーズが「我今仮に化(かたち)をあらはして語るといへども、神にあらず仏にあらず……」という、あれが、その「貧福論」。その『雨月』の大きな特徴は、現実と非現実の境界が完全に消失していて、現実と非現実が等価というか、同レベルにあって、それで平然と物語が進んでいきます。
『海辺のカフカ』のさまざまな書評の中で、これはパラレル・ワールドであるという指摘があったり、それはすでに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で使われた仕組みであって、既視感があるとか、自己模倣ではないかとか、そういう批評がありました。しかしこれはそういう意味でのパラレル・ワールドではないんじゃないか。現実と非現実が完全に同じレベルにあり、同じような物質感を持ってストーリーが展開されているというところが『海辺のカフカ』の根幹にあるということではないだろうか。パラレル・ワールドといいますと、二つの世界が並行していって最後にパッと結びつくか、あるいは結びつくかのごとく見えて結びつかないとか、そういうことだと思うんです。『世界の終り』はいわゆるパラレル・ワールドだけれども、今度の作品は、かなり違うんではないか。それについてはどうでしょうか。
 村上 僕は、もともとこの小説は『世界の終り』の続編として書こうと思つて企画していたものなんです。ただ、あまりにも昔に書いたものなので、直接的な続編というのは無理だと思ったんです。だから違うもの、ただどこかでゆるく精神的に結びついているものを書こうと。そういうこともあって、最初から二つの話が並行して進んでいくという形式を取ろうと思っていたんですが、『海辺のカフカ』は確かにいわれるようにパラレル・ワールドではないですね。『世界の終り』は完全に違う世界で物事が進行していてそれが一つになるということだったんだけど、今回は同じ地上に起こってることを書いてるわけだから、これをパラレル・ワールドと言うのはちょっと筋違いだと思うんです。『海辺のカフカ』はただ二つの見方から物事が進んでいるというだけのことにすぎないし、これは小説の手法としては昔からいろんな人が使っている。特に自己模倣とかそういうことではなくて、小説のひとつの進め方として、多かれ少なかれ小説手法としてあるものです。ただこれは本歌取りと同じで、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を意識してこういう物語の進行を設定したことは確かです。違いを目立たせるため相似性を取り入れたところはあるかもしれないですね。
 パラレル・ワールドということであれば、それぞれの話に、世界がパラレルにあるということは確かです。三人称でやっているナカタさんの部分にも世界がパラレルに存在するし、カフカ君の話、一人称の部分にも世界がパラレルにあるわけですね。そういう点でこのふたつの作品の構成はかなり違うんです。
 ――違う。カフカ君のほうとナカタさんのほうとそれぞれが現実と非現実の世界を行ったり来たりしている。
 村上 そうです。その四つがクロスするわけです。Aの話の現実と非現実、Bの話の現実と非現実というのがあって、その四つのファクターがそれぞれにクロスするわけです。そういうのは『世界の終り』とはかなり異なっているし、ある意味では深まっていると思うんです。

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■現実と非現実の接点
 ――もちろんこれまでも現実と非現実がクロスするという小説はお書きになっている。『国境の南、太陽の西』がそのひとつだし、『スプートニクの恋人』もそういうふうに読み取ることができます。
 村上 ええ。それはだから、現実と非現実が『雨月』の中でぴたりと接していて、その接点を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来入ってることじやないかと思うんですよ。それをいわゆる近代小説というのが、自然主義リアリズムということで、近代的自我というものの独立に向けてむりやり引っばがしちゃったわけです。個別的なものとして、「精神的総合風景」とでもいうべきものから抜き取ってしまった。そこから話がどんどんややこしくなってきた。戦後はマルキシズム的なものと私小説的なものの対立が大きくなってくるように見えて、でも、その自然主義リアリズムというのは真ん中を接して流れているから、まあ同じというかねえ。
 あるところまでいって、それではやっぱりどうしようもないということで、物語性というのが出てくるわけです。たとえば中上(健次)さんなんかでも『雨月』を範に取ったものを書いていらっしやいますよね。物語の意識というものがあの人の中にはずいぶんあったと思うんです。僕の場合は、物語のダイナミズムというよりは、むしろそういう現実と非現実の接点みたいなところに一番惹かれるわけです。日本の近代というか明治以前の世界ですね。たとえば『海辺のカフカ』にもギリシャ悲劇とかオイディプスの問題が出てくるんだけど、もちろん西洋文化というのは、一つが『聖書』、一つが古代ギリシャというのが二つの大きな源流になっていて、とにかくギリシャ世界においては異界とこの世界というふうに分かれているんですが、日本との違いは二つの世界がかなりはっきり隔てられているんですね。日本の場合は自然にすつと、こっち行ったりあっち行ったり、場合に応じて通り抜けができるんだけど、ギリシャ神話なんかの場合は、本当に自分の考え方とか存在の在り方の組成をガラッと転換させないと向こう側の世界に行けない。そういう違いみたいなものはすごく興味があります。
 ――その異界が遠くない、近いという感じ。たとえば短編の「レキシントンの幽霊」でしたか、あそこでも、異界がすぐそこにあるような、ある近さの中にあるような感じがありましたが、そういうものはずうっと村上さんの中にあるんですか。
 村上 ありますね。何だか知らないけど、ある。たとえば僕が子供のころ、学校の図書館に「ノモンハン戦争」について書かれた本があって、そこで戦車どか飛行機なんかの写真を見ました。そうすると、そこに引きずりこまれて行きそうな感覚があるわけですよ、何か。生まれる以前のことなんだけど、それでもなおかつそこにスゥーツと入っていってしまいそうな感覚なんです。子供時代からそういうところはありましたね。図書館は何か一種の異界みたいな感じが僕にとってはするんです。そのノモンハンの写真を見て、引きずりこまれて行くときの感覚は何十年経っても残っているんです。だからこそたとえば『ねじまき鳥クロニクル』を書くときに、プリンストンの図書館でノモンハンの本をたまたま手に取ると、バァーツとそれが蘇ってくるんです。だからそのことを、つまりむしろ自分自身の体験を書くんだけれど、戦争をただ材料として利用しているとかとられる。別に利用しているわけじやなくて、ただほんとに自分のこととして蘇ってくるんです、そういうものが。

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■「自我とは何か」から逃れて
 ――その異界感覚がもともとあって、それが非常にリアリティーを持っているということが子供のころからあるというのは、小説家になる村上さんを語っているかもしれませんね。
 村上 でも本の好きな子供だったら多かれ少なかれ同じような体験はしていると思うんですよ。本を通して体験したことがありありと蘇ってくることってみんな経験していると思うんだけど、ただ僕はそれを小説というかたちにして書けるからいま書いてるだけであって、これは要するにテクニカルな問題です。書き留めなければ、蘇ってきてもそのままスッと消えちゃいますよね。大人になってもそういう既視感は残ってるんだけど、それを小説みたいな形に創るというのはものすごく難しい。僕だって、たとえばノモンハン事件のことを書くといっても、昔は書けなかったものね。二十年ぐらい書いてて、やっと技術的にそういうのが書けるようになってきたなという感じはする。
 ――しかしながら小説家が小説を書こうとするとき、そういう子供のときの読書体験は切り捨てて、もっと別な手法、小説についての考え方に導かれて書くのだろうと思うんですね。その点では村上さんの小説の在り方は、少年時代ののめり込みが際立って生かされているという気がします。これは不思議なことでもあるけれども。
 村上 僕は一人っ子だったし、小説を読んだり音楽を聴いたりすることで自分を保っていたようなものだから、入り込み方はすごく深いですね。ただし、小説なら物語性の中へどんどん入っていくから、あまりインテレクチュアルな入り方じゃない。とにかく子供のころから物語の世界に入っていって、書かれている人の姿というか肌の温もりみたいなものを感じるということが多かった。それと、僕の教養体験はほとんど十九世紀のヨーロッパ小説なんです。ドストエフスキーから、スタンダールから、バルザックから。その辺はもう本当に物語の世界ですよね。物語があって人が生きていて。ディケンズなんかでもそうだし。そういうものの教養体験はすごく強いですね。後になってたとえばサルトルだとかジョルジュ・バタイユだとか読んだけど、やっばり物語というのが自分の中に一番残っているのかなあ。僕は読書少年、読書青年ではあったけど、文学青年ではなかったんですよ。自分が小説を書きたいと思ったことはほとんどなかったんです。だから十代から二十代にかけて文学的手法とは何かということに対して全然悩まなかったんです。小説を書きたいという人間は、小説はいかに書くべきかというところで読書体験とは別の思考をしますよね。僕にはそれがないんです。僕にとっては読書というのは純粋な悦びでしかなかった。
 小説をいかに書くかみたいなことを考え始めると、「自我とは何か」とかいうところへ行っちゃう人が多いんですよね、どうしても。僕の場合はそうじやなくて、ずうっと本を読んでいたけれど、肉体労働やって店をやって生きてきて、二十九歳になって小説を書こうと思って、ヒョツと書いちゃうわけです。だからいわゆる普通の作家になろうという人とは教養体験が違うんだろうなあという気がすごくするんです。小説的な手法というものについて、いかに書くかということについて考えてないんですね。気がついたら書いてたということだから。

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 ――そうではあるでしょうが、その後、「いかに書くか」ということは、村上さんのかなり意識的な命題になっていくでしょう。
 村上 そうですね。でも出発点が、いわゆる自我を表現するというところから離れてるから、そういう意味では楽なんですね。表現するというよりは、自分の中にある物語的な土壌にどのようにうまく自分を染み込ませていくかということですよね。
 ――先ほどの『雨月物語』のところでうかがったように、江戸時代にはいろんな幽霊が身近にあった、すごく近しいところにあった。村上さんの中にはいまも強くあるということですが、もうちょっと広くいえば、いまの日本の子供たちには強くあるだろうし、大人も何かをパッと剥がしたら広く強くあるはずだ。そういうお考えなんですか。
 村上 人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。それは非常に特殊な扉があって分かりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何かの拍子にフッと中に入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。それは前近代の人々がフィジカルに味わっでいた暗闇――電気がなかったですからね――というものと呼応する暗闇だと僕は思っています。その中に入っでいって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちやったままだと現実に復帰できないです。
 僕は思うんだけど、小説家というのは意識的にそれができる人なんですね。秘密のドアを開けて自分でその暗闇の中に入っていって、見るべきものを見て体験するべきものを体験して、また帰ってきてドアを閉めて現実に復帰するというのが、小説家の本来的な能力だと僕は思う。それは最初から感じていた。ただ最初は怖いから、一歩入ったらすぐ帰ってきちゃうんですね。ところがある種のテクニックを身につけてくると、どんどん、どんどん奥の方にまで入っていけるようになる。そしてそれを物語として記録することができるようになる。
 だからいまいわれたように一皮剥けば暗闇があるんじゃないかというのは、そういうことだと思うんです。その暗闇の深さというものは、慣れてくると、ある程度自分で制御できるんですね。慣れない人はすごく危険だと思うけれど。そういうふうに考えていくと、日本の一種の前近代の物語性というのは、現代の中にもじゅうぶん持ち込めると思ってるんですよ。いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。だからみんな、なるほどなるほどと、読むほうは分かるんです。あ、そういうことなんだなって頭で分かる。そういう思考体系みたいなのができあがっているから。でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは分からないですよね。

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 ――確かに地下におりて行くのは小説家の作業であって、そこで物語が創られるとすれば、現実と非現実がそこで融解するというか、垣根が取り払われるというのは、むしろ手法的にも当然という感じがしますね。
 村上 当然だと思う。もちろん違う小説手法もあるんだけど、僕の場合は、そうせざるを得ないというところがあるんですね。ただ、たとえば地下一階で行なわれている作業を批評してた人が、地下二階に潜っていって同じコンテクストを使って同質的に批評できるかというと、それは無理だろうと僕は思います。
 ――「世界の万物はメタファーだ」というゲーテの言葉を引用されていますが、この作品には「メタファー」という言葉も、またメタファーそのものもたくさん出てきます。その地下二階を測るには、メタファーとメタファーを比較したり、メタファーとメタファーの落差の集積の形やその方向を考えていくことが大事だということでしょうか。
 村上 うん、そうですね、もし僕の考える小説というかそういうものを判断するコンテクストがあるとすれば、それは個別的なメタファーそのものというよりは、たしかにその集合の対比によって語っていくことなんじゃないのかなと思います。つまり僕がこれまでに書いてきた作品はもちろんそれぞれに独立し、自立したものとして存在しているわけですが、それと同時にひとつの作品から別の作品へと移行する連続性の中に、あるいは流動性の中に、わりに意味があると思うんです――僕にとっては大きな意味があるということですが。つまり、メタファーというもの自体が流動的なものですよね。双方の立点が常に推移していくものだから、固定しちゃうとあまり意味がなくなってくる。どうしても落差の中で語らざるを得ない。

■手に触れられる(タンジブル)ものをいかに取り入れるか
 ――少し話を先に進めます。この小説に謎があって、その謎を追っかけていくという読み方がどこかの書評にあったように記憶しています。しかし、実は、読者を引っばっていくような謎、たとえば推理小説が持っているような解決しなければならない謎などは一つもないと思うんです。
 村上 ええ。そうかもしれないです。

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 ――何か事件があって、それがなぜ起こったかということを解明するという意味での謎はない。そのかわりに現実なのか非現実なのか、それがどういうふうに絡み合っているのかよく分からなくて、一方を押さえると一方が押さえきれなくなるというふうな戸惑いはある。押さえきれなくなったこれは何だろう、どういう意味があるんだろう、ということは常に残っていきます。
 読者からすると、その戸惑いみたいなものがむしろ次へ進む動力にもなっている。非現実的なものが語られるとしたら、これは現実とどういうふうに関係していくのだろうとか、常に押さえきれない何かがあって、それが小説を推進していく力になっているような気がしたのですが、それは謎とはちょっと違うのではないか、と思うんです。
 村上 僕はホームページをやっていたんですが、あの小説についてメールをおくつてきてくれた多くの人が、二回三回読んでるんですね。それはものすごく嬉しいことなんですよ。何でそれだけ読むかというと、まず文章が読みやすくて話が面白くて、しかも理解しきれない何かが残る。そしてその何かは、簡単に見過ごすことのできない「何か」だと感じる。だから人は読み返すんだと僕は思う。また物語にある程度の深さというものが欠けてたら、もう「何なんだ、これ、分かんないや」って放り出しちやうと思うんです。でも、何かがあるはずだというものが胸に残るから読み返すと思うんですよ。二回読み返しても、一回目よりは分かるんだけど、まだよく分からないと思って三回目読み返すんですね。そういう人が結構多かったです。それは僕とすれば、ものすごいありがたい読者なんです。というのは、僕の場合、読み返せば読み返すほど、そのある種の謎というか、分からない部分は狭まつていくと思うから。ただ、あるところまでしか狭まらないというふうには思います。それは僕自身が、書いていて、そうだから。初稿から何度も何度も書き直してますよ、ちょうど読者が読み直すのと同じようにね。そして書き直すたびに、僕自身の中でも謎の幅は少しずつ少しずつ狭まっていくんです。焦点が絞られてくる。でも、あるところまで行くと、これ以上は絞れないというポイントがあるんです。それは何かと言われれば、何だろう、うまく言葉では言えないんだけど、それ自体がある種の地下であり、暗闇の中の謎の象徴というのかなあ、ブラックボックスみたいなもの、ここから以上は解析できないという。それは自分自身の中の感触なんですね。だからそれを説明するのは難しいんだけど、ここまでは行けるけど、ここから先はいまのところはできないというものがあるんです。で、そういうものをもつと書きたいから、僕は、次のものを書くわけです。同じかたちで突っ込んでいったら書けないから、また別の物語からそれを突っ込んで書いていこうと思うわけです。

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 ――村上さんが全集の『国境の南、太陽の西』と『スプートニクの恋人』の解説でお書きになっていた言葉で、「手に触れられる感覚、感触のあるもの」という意味で、タンジブルという英語を使ってましたけど、そのタンジブルに近い何かがある。確かに分からない部分とか、押さえきれない部分が、読者の側から言いますと、あります。だけれども、その中で必ずタンジブルなものというかな、ある感触が残るんですね。闇ではあるけれど、タンジブルな闇。その感触をずうっと頼りに読み耽っていくというふうな感じだと思うんです。
 村上 そのタンジブルなものをどれだけ説得的なものとして作品の中に取り込んでいけるか、というのが僕の仕事だと思っているわけです。『ねじまき鳥クロニクル』第一部、第二部を書いて発表して、後で書きたくなって第三部を書いちゃった、それが良い例だと思うんですが、そういうふうにして僕は進んでいくしかないんですよ。僕は、第一部、第二部を書き終えたときは、もうこれで終わりだと思った。ここから先は行けないと思ったけれど、しばらく経つと、もう一回行ってみようと思うんですよね。そうして第三部に行くと、もっと幅は狭まるんです。もちろんそれだけ別の謎が出てくる部分はあるんだけれども、それはそれで納得できるんです。ここがポイントなんだと。
 だから『海辺のカフカ』という作品を書いて、いまは、もうこれしかないと思っているけれど、先になったらまたここから新しい別の物語を発展させていくかもしれない。それは分からないですね。

■『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』をめぐつて
 ――『国境の南、太陽の西』は何か非常に気になる心に残る部分があるのに、その部分をうまくつかみ出せないという思いがありました。しばらくして今度は『スプートニクの恋人』が出たときも、なにかつかめないなというものが残った。これは『国境の南』で言うと、「島本さん」が実在しているのか実在してないのか、『スプートニク』でも「すみれ」は生きてるのか生きてないのかとか。今度の『海辺のカフカ』でいうと、お父さんを殺したのはナカタさんなのか少年なのかということがあって、片側をつかむと片側が余ってしまう。こういう形でしかつかまえられないような世界像のようなものが『国境の南、太陽の西』から、はっきりとというわけじやないかもしれないけれども、色濃く出てきたような感じがするんです。
 村上 うん。そうかもしれないです、確かにね。

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 ――それは逆に言うと、前に書いてきたものとはどんな差があったんですか。
 村上 結局、僕がそれまでに書いてきたものというのは、「僕」という主人公がいて、たとえば「〈鼠〉三部作」でもそうですが、一種の普通に生きている人が巻き込まれていく。それは冥界と現世との何かそういう関わりみたいなものに巻き込まれていって、めぐりめぐつて戻ってくるという話が多かったわけです。
 僕の小説についてよく言われたことでもあるけれど、主人公は普通の人で、しかもパッシブだと。事件が向こうからやつてきて、それをくぐり抜けて帰ってくる、それだけの話であると。主体的に何も選びとつていないと。実をいえば僕も書いているときはそういう話を書きたくて書いていたんです。つまり個人の意思によってではなく、物語の意思によって人が動かされていく話ですね。でもそれがだんだん変わってきて、それよりは主人公という動かされるものの中にある、向こうから来る力に対抗する一種の「動かされる力」みたいなものにすごく興味を持ったんです。その力というのは自我じやないんですね。これが自我と外界の力とのぶつかり合いであれば、話は簡単になるんです、非常に図式的で。そうじゃなくて自分の中にあるものも不分明なものであると、外から来る力が不分明なものであるのと同じぐらい、それに呼応するぐらいに不分明なものであると、無目的で流動的なものであると、そういうふうになってきたんじゃないかな。そういう書き方になってきたんじゃないかなという気はしますね、そう言われてみれば。そういう意味では、進化しているというか、話の筋そのものは深くなってるんじゃないかな。
 確かに『スプートニク』と『国境の南』はそのへんのことを試してみているんですね、中篇小説だから。僕にとつて中篇小説というのは、わりにはっきりした枠組みの中でいろんなものを試してみる実験場みたいなものなんです。だから『国境の南』と『スプートニク』はわりに特殊な成り立ちの本ですね。
 ――試してみて、本格的にやったのが今度の作品ということですか。
 村上 いや、『国境の南』は『ねじまき鳥』の影みたいなものだし、『スプートニク』は『カフカ』の影みたいなものれのかもしれないです。短編があって、中篇があって、長編があるけれど、やっばり僕の主戦場は書き下ろし長編です。中篇というのは、それこそノモンハン事件じゃないけど、局地戦ですよね。短編というのは、もつとワイルドなものだけど。そういう意味では局地戦の怖さみたいなものは結構あるんじゃないかなあ。そして、長篇というのは総力戦ですよね。

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 ――石川淳が『雨月物語』について講演をしている中で、村上さんと似たようなことをいっています。異界がすごく近くにあって、なおかつこつち側と向こう側の中間にある、いわゆる来世とかそういうものじゃないという世界像を提出していて、その世界像を把むには、両端を同時に叩くことによってしか把めないんだというようなことを言っているんです。
 村上 面白いですね。それは。
 ――この考えに村上さんが同じかどうかというんじゃなくて、『カフカ』と『スプートニク』を並べて考えると、やっぱり長編では、両端をほんとに叩いていると思うんです。カフカ少年の話、ナカタさんの話。二つの話の両端を同時に叩いている。叩くという意味は、よく聴くという意味だと思いますが、そのことによって、なにか力強いものが出ているような気がします。
 村上 短篇というのはシチュエーション一本で、一発でできちやうもんですから、これはものすごく実験としては面白いんですよ。ただそこから長編にすぐ持ち込めるかというと、できないです。中篇でそれを叩きまくるんです、あっちにやったりこっちにやったり。そうするとだんだん見えてきて、長篇が書きたくなってくるんです。
『風の歌を聴け』は二百枚弱の話なんだけど、僕はあれを書いたときから、もう何しろ長いものを書きたかったんです。あれは僕にとつては中編小説なんです。だからあれで群像新人賞を貰って、もちろん嬉しかったんだけど、ほんとに書きたかったのはこういうのじゃないんだよなあという気はそのときからあったんですね。生まれて初めてものを書いたわりには生意気なんだけど、こんなんで貰って喜んでちゃしようがないよなと。

■押しつけられてきた「自己表現」
 ――『海辺のカフカ』では十五歳の少年が主人公で、カフカ君がいろんなことを体験していくという一面があるから、これは一種の成長小説(ビルドゥングスロマン)であると指摘した人もいました。たしかに、そういう面がなくはない。しかし、これは純粋無垢な少年が、あるいはそれゆえに初めから何かを喪失している少年が、世界とどうかかわっていくかという物語ではない、と思われます。「無垢」が世界の「汚れ」と向かいあっているのではない。あるいは、世界によって少年があらかじめ何かを喪失していて、それを世界の中でどう回復していくかというのでもない。少年が世界と二元論的に対峙しているのではないんですね。
 それは、オイディプス神話という枠の使われ方を見ても、非常にはっきりしているんじゃないでしょうか。河合隼雄さんがそこを正確に指摘していますが、オイディプスは父を殺し母と交わるという予言を知らない。しかしカフカ君は、予言を知らされていて、その予言をむしろ実現しようとしているわけです。だからカフカ君は二元論的に、無垢なる自分をもって世界とか父とか悪に対しているのではない。運命的に父が自分の中にいることを知っているし、自分も父殺しという悪を犯さなければならないことを知っているわけです。村上さんは、その点をかなり意識して書いたのかどうかということですが。

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 村上 いや、とくに意識はしてないですね。そういうふうにはとくに考えなかったな。ただ、僕自身は、一種の物語という文脈でものを考えるから、意識するしないというのは、そんなに大事なことじやないんです。僕の考える物語という文脈では、すべては自然に起こり得ることなんです。この遠隔的な父殺しみたいなことも、むしろ僕の考える世界にあっては自然主義リアリズムなんです。だからたとえばナカタさんが殺してカフカの手に血がつくというのは、まったく不思議ではないんですよね。なぜかと言われても困るんだけど、当然あり得ることなんです。
 ただ読者でも多くの人は、分からないと言うんです。なぜナカタさんが殺してるのにカフカ君の手に血がつくのかと。それは、あり得ることなんです。なぜあり得ることかというと、普通の文脈では説明できないことを物語は説明を超えた地点で表現しているからなんです。物語は、物語以外の表現とは違う表現をするんですね。それによって人は自己表現という罠から逃げられる。僕はそう思う。
 いま世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇くんです。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとつて不可欠であるということを押しつけているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差違を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。
 僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しょうと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっとも大きな意味があるんです。だからスタティツクな枠みたいなものをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」という罠を脱することができる。でも、そういうのはいまの文学の世界では、正直いってうまく伝わらないんじゃないかなと思うんです。
 僕は、けっしてユングの思想に対して共感を持ってるわけじゃないし、ユングってほとんど読んでない。ただ僕が物語という言葉を出すときに、それを一番正確に受けとめてくれるのは、やっばり河合(隼雄)先生かなという気はするんですよ。僕は、河合さんと難しい話はしないんです、まったく。するとお互い駄目だと思ってるから、会ってもバカ話ばっかりしてるんだけど、ときどきふっと「物語」という言葉が出てきて、あ、この人、僕の考える物語っていうのを知っているんだなというふうには思いますね。そういうのがあんまり分かり過ぎちやうとまずいと思うから、僕はあんまり話さないようにしてるんですが(笑)。

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 ――要するに、無垢対世界という対し方は、やっばり自我というものが世界の中に確固としてあって、自我をどういうふうに表現するかという、あるいは表現できるかできないかという認識法ですね。村上さんの初期の小説でも、もともとそういうものではなくて、物語という原理に導かれていたということでしょうか。
 村上 そうです。
 ――そこのところをいま改めて考える必要があると、話をうかがっていて思いますね。
 村上 僕は、『海辺のカフカ』を書き終えたあと、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳にとりかかって、そのときに思ったんですけど、あれは十六歳の少年が現実の社会とトラブルを起こして、社会は分かってくれない、大人は分かってくれないという文脈でずっととらえられてきたんです。でも、よく読んでみると、あれはそういう話じゃないんですね。結局、彼が自分の中の迷路的な状況とどういうふうに向き合っていくかということを語っている話なんだけど、それもただ語っているんじゃなくて、彼はものすごく能弁なわけです。お喋りというか饒舌というか、能弁さがハイパーなんです。そのハイパーな能弁さという文脈に自我をそっくり乗っけちゃう。そしていろんな地獄めぐりをさせる。そういう小説なんです。だからこそ多くの読者があの小説に惹かれるんです。自分をその物語に同化させることができるんです。そして五十年以上にわたって、リアルタイムの感覚で読み継がれてきたわけです。ただの無垢な少年とすれた社会との対決というような単純で皮相的なものであれば、人は五十年間も熱心に読みやしないです。僕は、それは今回訳してつくづく分かったんです。やっばりサリンジャーはそういうところは偉いなあと思うんだけど、彼の悲劇は、そういうスピードのある流動性を支えきれなかったことですね。だからどうしても東洋思想みたいなものに行っちゃうわけです。それでサリンジャーはだんだん自分を追いつめていったんだなあという気はする。でもあのハイパーな能弁性の中に自我を乗っけるというストーリーテリングは、もう画期的なものです。
 ――ところが最後は、『フラニーとゾーイー』を読むと、すっかり寡黙になってきます。沈黙がある。
 村上 行き詰まってきます。

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■「悪」の部分まで降りてゆく
 ――質問を少し変えます。変なことをお聞きしますが、『カフカ』は一冊にしようと思えば一冊にできた厚さかもしれない。上巻の終わりのところまでくると二つの話が揃ってくるんです。ナカタさんたちも、さあ四国へ行くぞとなって、橋の前まで来るんですね。もう一つのカフカ少年のほうでは、幽霊の話が出てきて、六条御息所とか『雨月』が出てくる。それから佐伯さんによる「海辺のカフカ」の全部の詞が引用してある。これは途中から二巻にするぞという形で書かれているんですか。
 村上 いや、そんなことないです。最後まで一巻でいくか二巻でいくか迷ってたんですよ。ただ僕の読者は、通勤電車で読んでる二十代三十代の若い人が多いんですね。一冊にすると重いから一冊は勘弁してくれと言う人が多くって、それで止むなく二巻にしたんです。偶然です。
 ――そうですか。それはいいんですけど、この小説の中に、河合さんもちょっとおっしゃっているけれど、色濃く橋というものを感じて、たとえば、さあ渡るぞという場面ももちろんそうです。ほかにも何でもないエピソードみたいに、たとえば「あなたは今なにを考えているの?」と佐伯さんが尋ねる、「スペイン戦争に参加する」と、参加して何する、「橋を爆破する」とかですね。ナカタさんが大島さんに会ったときに、「大きな椅を渡ってきました」とか。もうひとつ、これは重要だなと思ったんですが、「海辺のカフカ」は二つの不思議なコードを持ってるというふうに上巻の終わりでは書いてあるんですけど、しばらく進んでいくと、二つのコードはブリッジコードだというふうに書いてあって、これは橋がかかるコードという意味なんですか。
 村上 音楽でブリッジというのは経過部です。メロディーがあってつなぎの転換があって、これがブリッジですね、また元に戻る。何かと何かを繋ぐブリッジですね。
 ――そういう橋のイメージというのは、ずうっと意識して書かれているんですか。
 村上 いや、特に意識して書いているわけじやないんですけれど、でもやっぱり四国に行くというのは橋を越えて行かないと行けないわけですね。その意味というのはずいぶん大きいような気がします、そう言われてみれば。大きい橋を渡って別の世界に行く行為は、やっばり四国なんだなあと。トンネルだと、ちょつと違ってきますよね。

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 ――さきほどの無垢についての話をもう少しおききしたいのですが。現実にはあり得ないにしても、いま言葉の上で無垢というものがあるとして、その中にはすでに悪というものが仕組まれている、あるいは生きていくというエネルギーの中にすでに悪というものがあって、それと戦うから少年が一番タフでなければいけないというふうに受け取ると、悪というのがこの小説のテーマというか、根っ子のところにあるとも思うんです。そして悪はいろんな姿を借りて、現実的な姿、あるいは非現実的な姿を借りて浮かぴ上がってきたという感じがしてるんです。この人間の中の悪ということは、物語のつくりとは別に、あるいは物語の精神の上に乗りながら、村上さんの中で非常に大きく去来していたものですか。
 村上 悪ということについては、僕はずうっと考えていました。僕の小説が深みを持って広がりを持っていくためには、やはり、悪というものは不可欠だろうと、どういうわけかずうっと考えていたんです。どういうふうに悪を描けばいいのかというようなことを考えているんです。そういうふうにはっきり考え始めたのは、『世界の終り』を書いた後ですね。そこから悪というものが常に意識の中にあります。
 たとえば『海辺のカフカ』における悪というものは、やはり、地下二階の部分。彼が父親から遺伝子として血として引き継いできた地下二階の部分、これは引き継ぐものだと僕は思うんですよ。多かれ少なかれ子供というのは親からそういうものを引き継いでいくものです。呪いであれ祝福であれ、それはもう血の中に入ってるものだし、それは古代にまで遡っていけるものだというふうに僕は考えているわけです。たとえば弥生時代ぐらいまで、ずぅーっと血を辿っていけば結局行くわけだし、連綿として繋がっている。そこには古代の闇みたいなものがあり、そこで人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみとかいうものは綿々と続いているものだと思うんです。あるいはそこで待ち受けているものというか。僕はもちろん輪廻とかそういうものは信じないけれど、そういう血の引き継ぎというのは信じますね。信じるというか、当然あると思う。カフカ君が引き継いでいるのもそれなんです。それを引き継ぎたくなくても、彼には選べないんです。それが僕はこの話の一番深い暗い部分だというふうに思うんです。

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 ――しかし、それは解決するとか結論が出るとかいうものではない。物語の結末はあっても、そのこと自体に解決とか結論が出るわけじやない。
 村上 ええ、出るわけじやないですね。僕が言いたいのは、結局、ある一人の人間の自我を、いまそこにあるその人の抱え込んでいる暗闇の中に浸して物語を立ち上げるとして、その作業は、人それぞれ全部違うんだということです。たとえばAという人ならAが持っている自我と、Aの引きずっている暗闇みたいなものは、両方ともA独自のもので、それを組み合わせて物語を抽出するとすれば、そこから出てくるのはAにしかない物語です。ところがたとえば僕がどんどん、どんどん深く掘っていってそこから体験したことを物語にすれば、それは僕の物語でありながら、Aという人の持っているはずの物語と呼応するんですよね。Aには語るべき潜在的な物語があるのに、有効にそれを書けなかった、語ることができなかったと仮定して、そこで僕がある程度深みまで行って物語を立ち上げると、それが呼応するんです。それがシンパシーというか、一種の魂の呼応性だと思う。もし僕がそれである程度、自分が物語を立ち上げたことで癒された部分があるとすれば、それはあるいはAという人を癒すかもしれない――ということがあるわけです。
 そのためには、本当に暗いところ、本当に自分の悪の部分まで行かないと、そういう共感は生まれないと僕は思うんです。もし暗闇の中に入れたとしても、いい加減なところで、少し行ったところで適当に切り上げて帰ってきたとしたら、なかなか人は共感してくれない。そういう意味で、僕は、悪について真剣に考え出したというふうに思うんですよね。ただ人によってはそういうものは見たくないという人がいっばいいるんですね。
 ――いるでしょうね。ただ、それがないと本当の物語が成立しないだろうというのもわかります。
 村上 僕は、近代の文学というのを別に否定しているわけじゃないんですよ。たとえば漱石は漱石の時代、島崎藤村は島崎藤村の時代の一種のリアリティーみたいなのがあって、そこでぎりぎり書いていたと思うし、それは高く評価するべきだと思う。ただ現代の人の心の在り方というのは、僕は、大きく違ってきていると思うんです。

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■『悪霊』そして『坑夫』
 ――『ねじまき鳥クロニクル』が完成したときだったと思うんですが、あるインタビューに答えた中に、自分にはもう手本にするような小説がないように思う、という発言がありました。手本という言葉ではなかったかもしれません。自分が読んで小説の考え方の啓示を得るようなものがなくなって、だから自分で手さぐりに創っていくしかない、という意味のことをおっしゃっていました。
 村上 僕がやろうとしている小説の手本になるというか導きになるような作品はないですね。同時代文学がつまらないとか、そういうことを言っているんじゃないんです。もちろん、同時代文学には優れた作品はたくさんあります。そういうものを読むのは個人的には好きです。ただ僕の書こうとしている小説の直接の導きになるようなものが見あたらないんだ、ということです。ちょっと前まであったんですよ。あっ、そうか、そうかと思って、こういうのがあるんだなあと思って導かれるという部分があったけれど、いまの段階では僕も、もちろん世界中の全部を読んでるわけじやないけれど、読んでいる限りではそうです。それよりもむしろ古いものを読んだほうが、あ、そうかと思って、発見というか、染みるところは多いですねえ。
 この前、久し振りにドストエフスキーの『悪霊』を読み返してみたんです。いやぁ、やっばりいいですねえ。小説としては、そんなに完全な小説ではないというか、『カラマーゾフの兄弟』に比べれば、構成としてはいくぶん落ちる小説だと思うんですが、読んでいて、この振り回され方というのは凄いなあと思いました。それからたとえば漱石の『坑夫』みたいなものも意外にくるんですよね。
 ――『坑夫』が意外にくるというのは、どんなところなんですか。
 村上 やっばり自我というのがまだ発展するべきものというふうに漱石はとらえてないところね。闇の中を回り回って、入ったときと同じ状態で出てくるという、何ていうのかなあ、軽さというかなあ、責任感の無さですね。それ以降の漱石は、一種の責任感みたいなものが出てきます。自我に対する責任感というのが。『坑夫』とか、『虞美人草』もそうですけれど、自我に対する責任感というのはまだそこでは明確にされてないですよね。そういう意味で、僕は『坑夫』は好きですよ、本当に。
 ――現代文学の中に以前はあったというのは、どういう作品ですか。
 村上 たとえばジョン・アーヴイングの物語のワイルドなドライブ感とか、カーヴァーのたとえば日常生活に斬り込んでいく鋭い視点とか、マルケスのものすごい呪術的な世界とか、ありますよね。ただやっばり、そろそろそういうものを自分の中で整理したものを自分で出していく時期だなと思うんです。いま話題になっている小説を読んでも、あ、うまいなとか、確かに面白いなとか思うんだけど、なんか自分の目の前がパッと開けるとか、考え方の組成がパッと変わっちやうとか、そういうものはないですね。

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 ――それは村上さんが一人の作家としてここまで書いてさて、その歩みの中でいま思うことなのか、それとも、もっと広い視野に立って、いま世界の文学がある意味では何かを切り開いてないのか、どっちだと思いますか。
 村上 いや、僕のやってることがあまりにも個人的だからだと思います。あまりにも個人的だから参考にすべきものというのが見当たらなくなってきたんですね。それにだんだん自分のやりたいことというのがある程度道が見えてきたし、あとは自分で考えるしかやっばりないんだなあというふうに思えるんです。
 ――逆に言うと、自分の部分がよく見えてきたというか、見えない部分が見えてくるというか。
 村上 見えないところに入っていかなくちやいけないという道筋が見えてきたというかね。うん、だからもう、人に何かいわれてもしようがないなと思いますよ。というのは、自分が手本にするというか、自分が見定めて、あそこに随いて行こうというようなものがなくなっているんだから、読者から、村上の最近の小説はもうがっかりした、もう読みませんと言われても、しようがないなと思うんですよ、本当に。そういうのはまわりもちみたいなものだから。

■自然治癒力の衰弱とオウム真理教
 ――悪という問題にちょつとまた話を戻します。『世界の終り』のあたりから、悪というものに対する極めて強い意識があったというお話ですが、今度の小説にそれがかなり全面的といいますか、もっとくつきりした形を取って出てくるのは、やっばりその前の『アンダーグラウンド』、それから『約束された場所で』という、ああいう仕事に関係があるのでしょうか。ああいう悪の現れ方、そのことは大きいでしょうか。
 村上 大きいですね。ものすごく大きいと思います。それについてはまだあまり詳しく具体的に語りたくはないんだけれども、やはり、「麻原」という一種の密閉された宇宙の中で何が起こったかというのは、見ていくとものすごく怖いですね。今でも被告の実行犯たちの裁判をできるだけ聞いているけれど、あのときに起こったことというのは、彼らの中ではまだぜんぜん解消されていないですね。それぐらい強烈な体験だったんです。一種の暗闇を全部「麻原」に譲り渡しちゃったというか、暗闇を同化しちゃったというか、一つの暗闇になっちゃったんですね、みんなが。「麻原」という、あの人はかなり巨大な暗闇を抱えた人だと思うけど、そこに吸収合併されたというか、一種の同根状態になってるから、それは本当に語られる話を聞いているだけで怖いですね。そういうことも起こり得るんだと思う。暗闇の中にある悪の力というのが染み出すんですよね。いくら希求するものが善であったとしても、暗闇の同根状態から生まれ出てくるものは、善悪を超えているというか、やはり悪なるものなんです。善悪を超えるということは、現世的にいえば要するに悪であるということだから。そしてそこに生まれる悪というのはものすごく大きなもので、あらゆるものを焼き払うぐらい強烈なものなんです。そういうものを目の前にすると、一種の無力感におそわれるということはあります。本当はそれを解消していくべき外なる世界がどうなっているかというのは、これは難しい問題ですね。

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 日本の戦後から冷戦体制、高度成長期までは、一つの社会の枠組みというのがあったから、自然な治癒力みたいなものが社会にはあったと思うんです。いまではその自然な治癒力というのが社会的混沌の中で揺らいで、衰弱してますよね。そのぶんフラストレーションが深まってきている。だからこそオウム真理教の事件は起こつたというところもあると思うんです。そしてだからこそ小説というか文学というのは、今ここで再編成みたいなことをしなくちやいけないんじゃないかというふうに僕は思っているんです。ベルリンの壁が崩れちゃつた時点で、社会全体のいわゆる二極構造というか、そういうものも崩壊の過程に入ったんですね。
 日本の場合は、それとはちょっと時期的にずれていて、バブルの崩壊があって地価が下落して、95年というのはそれが一番出てきたときですね、地震とサリン事件。それまではそこまで明確ではなかったということです。人はそれまで危機感をあまり実感として抱かなかったんですね。ただ僕の場合、29歳のとき小説を書いて以来、そういう基本的な危機感みたいなものは個人的にずうっと感じていました。それはやっぱり僕自身が70年闘争みたいなものに対して深い絶望感を持ったからじゃないかなという気はするんです。今そこにある言語に対する不信感みたいなもの。
 ――東西の冷戦構造があったときに、このプログラムを一歩でも前に進めたら終わってしまうというような神話があって、それで世界を維持するいろんなシステムを考えたのかもしれないんだけれども、これが壊れてみると、それまでのシステムの延長線上の考えでは自分たちが生きている不安とか、そういうものに向き合えない。そういう感じですか。
 村上 冷戦時代には東西という二つのシステムの戦いでしたよね。それが、今では異種のシステムとシステムとの戦いみたいになっているという気がするんです。それは何かというと、オープン(開放)システムとクローズド(閉鎖)システムの戦いです。オウム真理教というのは完全にクローズドシステムで、外なる社会というのはオープンシステムですね。それはひとつの社会体制と別の社会体制の対立というのではなく、同じ社会体制の中にも閉鎖系があり、開放系がある。そういう点では物事は以前よりずっと内向化しているし、複雑化しているし、見えにくくなっているところがある。で、どっちが優れたシステムで、どっちが善でどっちが悪かというのは、これはものすごく分かりにくい話で、ある場合にはクローズドシステムのほうが非常にうまく機能している部分もあるわけです。ただ僕は、やはり、オープンシステムというものを信じているんです。どれだけ矛盾があろうと、どれだけ混乱があろうと、人が自由に入って自由に出て行けるシステムというものを信頼しているし、深みのある物語というのはそこから生まれてくるものだというふうに僕は感じてるんです。いろいろと矛盾はいっばいあるし、ときどき嫌だなあと思うんだけど、『アンダーグラウンド』を書いてみて僕は、被害を受けた人々、何時間もかけて満員電車で通勤している人々の社会というのを根源的には信じていると思う。いろいろ欠点もあるんだけど、やはり、僕はそういうものを信じたいですね。

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 そういう意味では、こういうことを言うと図式的になるおそれはあるんだけど、『海辺のカフカ』というのは、システムを守ろうとする話じゃないかなという気はするんですけどね、そのオープンなるシステムを。というのは、カフカ君というのは成長していかなくちやいけない人間なんですよね。僕は、彼の自我が成長するということはあまり意識しなかったんです。何が成長するかというと、彼が自分の中のオープンなるものをどのように受け容れて、それをどのように膨らませていくかという経過なんじゃないかなという気がするんです。でも、それを閉じようとする力もどこかにあるわけです。たとえば彼が最後に佐伯さん――お母さんかどうか分からないけど――の世界に入っていきますね。あれも要するに、混沌を排除したところにあるクローズドシステムなんですね。そこに行けば彼は永遠に止まった時間の中で自分が求めるものと一緒に居られるわけです。でも、結局、出てくる。それを出て行かせるのは、佐伯さんが「出て行きなさい」と言うからです。そういう彼の中での一種のシステムを確立させるプロセスというのかな、そういうのが僕にとつてはすごく大事なことだったんです。
 もうひとつ、彼が受け継いだ血というか暗闇というのも、ある意味では閉じているんです、それは自分で選べないものだから。それをどのように自分の中で相対化して、よりオープンなものにしていくかというのも彼のもうひとつの戦いなんですね。いろんな脅威がやってくる。たとえば自分の手が血で濡れている。それも自分で選んだものじゃないですね、自分で殺していないんだから。にもかかわらず、彼はそれを引き受けていかなくてはならない。それが閉じられた輪だからなんですね。

■物語を推進させる二人の「演者」
 ――『アンダーグラウンド』のことを聞いたので、もうひとつ神戸の少年Aの事件はどうですか。あの事件は今度の作品に何か関わりがありますか。
 村上 あの14歳の少年の事件については、ちょっとなぜかはわからないけど、まったく意識していなかった。あの事件については、そんなによく知らないんです。よく覚えてないけど、そのとき日本にいなかったからかな。読んだ人から相似性みたいなものがあるとは言われましたけれど。

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 ――阪神大震災は?
 村上 地震については、『神の子どもたちはみな踊る』の中で、僕の中における地震の震動性みたいなものは書ききったという気持ちはあるから、今回についてはそんなに考えなかったですね。オウム真理教の問題も、オウム真理教の事件そのものがあそこに引っ張られてきているんじゃなくて、あの本を書いたときの心持ちみたいなのが移動してきているという感じだから、それが何かを現実的に象徴しているということではないですね。
 ――短篇集『神の子どもたちはみな踊る』についてこれはホームページにお書きになっていたことでしたが、あの短篇群を書いて一番手応えがあったのは、非常に多様な人間が出てくるけれども、その一人ひとりがそれぞれにキャラクターをそなえて立って歩いてくれたことだ、という意味のことがありました。その手応えが今度の『カフカ』でも、登場する人物が独り歩きしてくれたということにつながっている、ともありましたね。
 村上 これまでに書かなかった人が書けるようになってきたということは確かにありますよね。たとえばホシノ君なんていうのは、ちょっとこれまで書かなかったキャラクターだった。ナカタさんは書けたかもしれないけど、ホシノちやんみたいな人はなかなか書けないですよね。
 ――そのキャラクターのある登場人物かどうかは別にして、多くの読者にとっても衝撃的だったと思うのは、ジョニー・ウォーカーとカーネル・サンダーズです。初め、何だろうこれは、と思う。この二人はどういうふうにして出てきたのかなあと、今でもまあ謎といえば謎なんですが。
 村上 最初にああいうものが出てきたのは、『羊をめぐる冒険』の羊男ですよね。あれは前もつて登場させるつもりはなくて、書いてたらフッと出てくるということだったんだけど、これはやっばり暗闇の世界からのものですよね。冥界に生きてるものですね。ジョニー・ウォーカーもカーネル・サンダーズも、やはり同じで、晴間の中から現れる「演者」なんですね。『ねじまき鳥クロニクル』でも、そういうものはいくつか出てきました。皮剥ポリスなんていうのも、現実的な登場人物で異界的なものではないように見えるけれど、やっばり同じじゃないかなという気はするんですよ。彼がいるから話が転換していくというのがあるわけだし。
 書いているときは自分では何にも考えてないんです。それが善か悪かも分からないんです。羊男だって善か悪かよく分からないし、特にジョニー・ウォーカーなんてそうですよね。やっていることはまさに悪なんだけど、それがどこまで本当のことかというのは分からない。カーネル・サンダーズも何かというのは僕にはぜんぜん分からない。でも、それは物語の流れをキックし、アシストするものなんですね。彼ら自体が善か悪かというよりは、彼らが進める物語がどのような方向に進んで行くかというのがすごく大きな問題だと思うし、考えようによっては、カーネル・サンダーズとジョニー・ウォーカーは同じものが顔を変えて出てきているだけかもしれない。そういう可能性だってありますよね。それは僕にも分からないですね。

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 ――しかし、カーネル・サンダーズには、あの出方、役割にかなり一貫性があって、物語を推進していく精神そのもの、エネルギーそのものというようにも思いましたが。
 村上 あのカーネル・サンダーズとジョニー・ウォーカーという二つのアイコンがなかったらあの物語はうまく進まなかっただろうなあと思います。でも、ああいうものを受け容れない人というのはきっと多いんだろうなというふうにも思いますね。
 ――まあ結構多いと思いますね。いろんな否定的評価は、あるいはこれは分からないというのも含めて、そういうものが出てくるのは、ああいうところにあるのかもしれません。
 村上 うん。分からないものというか、うまく呑み込めないものというのが出てくると、やっばり腹立てる人が多いですよね。
 ――あれがないと、『国境の南』とか、『スプートニク』とか、そういう……。
 村上 中篇小説になっちゃいますね。ああいう異形のものがやっばり長い物語を支えるんですよね、僕の場合は。

■引用と蘊蓄の重要性
 ――これまでも、村上さんの小説の中には結構いろんな作品の引用が出てきましたが、今度の小説ではそれが圧倒的に多いですね。これは意識的にそうしたんでしょうね。
 村上 もちろん意識的です。
 ――そういう引用の役割の担わせ方というのがあるんでしょうか。
 村上 分かんないです(笑)。何だろう。好きだからやったんですね。とにかく理屈とかそういうんじゃなくて、徹底的にやってみようと思って、これはもちろん意識的です。あと蘊蓄ね。引用と蘊蓄というのが、僕にとつて今回の作品にはすごく大事なことでしてね。それはなぜかというと、やっぱり主人公が15歳の少年だからこそいろんなものを通過していくということが大事だった。僕白身が知識をあらゆる方向から詰め込んで育ってきた人間だから、特にあの年代というのは本当に入ってくるんです。乾いた地面に雨が降るみたいな感じで。そういうのは僕はすごく大事なんじゃないかなと思うんです。それを大人、成熟した人間の物語でやると、下手すると嫌みになるかもしれないけど、少年にとつてはそういうのが大事なんですよね。たとえば大島さんが山小屋の中で一人で本を読みあさりますね、徹底的に。ああいうことが起こらないといけないんですね、ある時期には。
 大島さんが車を運転しながらシューベルトのピアノ・ソナタについて蘊蓄を傾ける。あれは知識をひけらかしてるみたいに反感を持つ人もいるかもしれないんだけれど、大島さんはやっばりカフカ君という少年に対して、そういうものを通して何かを与えようとしてるんですよね。「お前、こうしなくちやいけないよ」とか直接的には絶対に言わない人だけど、ある種の彼の中における知識の在り方というものを通して何かを伝えようとしているんだと、僕は思うんです。ああいうのも、嫌みになるのとならないのは、かなり危ういところなんだけど。

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 ――引用作品は、小説もあれば哲学もある。一番目覚ましいのは、今おっしゃった音楽。シューベルトのピアノ・ソナタとベートーヴェンの「大公トリオ」の出てきかただと思うんですね。ホシノちやんみたいな男が「大公トリオ」を聴くという、あるいはそれに引き込まれていくというのは、かなり大胆な発想だけれども、やっばりあの小説の中の、あそこで鳴り響いているんだろうと思うんです。
 村上 やっばり人には何かとくべつな感情の入り口みたいなものが必ずあると思う。たとえばホシノちゃんみたいに肉体労働している人がベートーヴェンなんか聴くわけないと言う人もいるとは思うんだけれど、そうじやなくてそういう入り口はどこかにあると思うんですよ。大事なときにはその入り口が開くんだと、僕は、そういうふうに信じてますけどね、ごく自然に。現実にもそういうことは起こるはずだし。
 その辺は僕も、音楽に関しては、そういう体験をいっばいしてるから。何か本当に心が裏返ってしまうような瞬間というのはあるし、そういうものってすごく大事なんですよね、人生にとつて。そういうのは少しでも書きたいなという気持ちがあるから、つい書いちやうんです。
 ――あそこは面白いですよ。昔の音楽喫茶みたいなところへ行って聴くというのはいい場面だなあと思って。
 村上 面白いのは、あの中では論争をしないんですよね、そういうことに関して。これまでの近代小説だと、「いや、それは違う」とか「それならむしろあれよりこれだ」というふうにだいたい論争が起きるんですよ。芸術論争とかね。僕の場合は、それが起きないんですね。人が何か言うと、みんな感心して「あぁー、そうかあ」と思って聞いちやうわけ。たとえば喫茶店のおやじがハイドンについて滔々と述べますね。それをホシノちゃんは、「ははあ、なるほどなあ」って納得してひとつ得したような気になる。大島さんがシユーベルトのピァノ・ソナタについて論じても、カフカ君は、「なるほど」と思って聞いているわけ。もちろんときどき質問はするけど、黙ってしみ込ませていくわけです。僕は、そういうのって結構好きなんですよ。どうして好きかって言われると困るんだけど。

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■フランツ・カフカをめぐつて
 ――これは「カフカ」というタイトルがついてるから、カフカの作品についてなんですが、『流刑地にて』が出てきますね。あの短篇は処刑の機械を叙述しているだけというか、もちろんそれについていろんなことを少しは思うかもしれないけど、でもそんなに深く思ったりはしない。見て報告するだけ、といっていいと思うんです。当然そこから伝わっでくる何かがあります。その伝わってくる何かは、たとえば村上さんの自分の中にある地下二階にあるものを測るよすがになる、ということになるのでしょうか。
 村上 僕は、カフカの書いていることというのは、悪夢の叙述だと思うんですよ。彼の住んでいた世界では、現実の生活と悪夢が結びついていたと思うんです、ある意味では。あの時代にプラハに住む非常に多感なユダヤ人青年ということで、ある種の特別な状況に置かれてます。彼が小説の中でやったことには、現在の作家が悪夢について叙述するのと違って、ほんとに異様なほどのリアリティーがあって、読んでいて、本当にそのまま悪夢の中に入っていきそうなくらいなんだけれど、彼はその悪夢と自分との精神的な関わり方やら、悪夢の出所について書くよりは、むしろ悪夢そのものについてものすごく細密に語っていくわけですね。そしてそこに立ち上がってくる恐怖の肌触りみたいなものを、僕らはほとんどそのまま、読んで感じることができるわけです。
 ただ、カフカの小説には、不思議だけれど、自我の存在感みたいなものがあまりないんですね。悪夢の中で自我がどうのたうつかということにはそれほど興味を持ってないように見える。たとえば『審判』にしても『城』にしても、確かに一人の主人公が悪夢の中に巻き込まれて振り回される話なんだけれど、それについて主人公がどう考えるかというのは、もちろん書いてはあるけど大した問題じゃないんですね。彼が悪夢に対応してどう具体的に行動していって、その悪夢がどういう内容の具体的実態を持っているかということの方が大事なんです。そういう意味では、カフカという人は本当に大した人だなと思いますね。
 自分のことよりは外界を描写するんですね。たとえばどこかの居酒屋へ入ったら、そこにいる人のことを延々と描写する。そのとき自分がどう思って何を感じてというのは、ものすごくサラッと書いているんですよ。僕はそういうふうに解釈してるんです。

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 ――確かに近代的自我というふうなものは関心の外にあるのかもしれません。
 村上 関心の外にありますね、確かにね。それよりはシステムをどういうふうに描写していこうかということに神経が行くんですね。彼の物語性と、細密さに対するこだわりというのは恐ろしいですよね。
 カフカのエピソードでひとつすごくいいのがあるんです。ベルリン時代の出来事なんですが、カフカが恋人と一緒に散歩していると、公園で小さな女の子が泣いてる。どうしたのかと訊くと、人形が無くなっちやつたという。それでカフカはその子のために人形からの手紙を書いてやるわけです。本物の手紙のふりをして。「私はいつも同じ家族の中で暮らしていると退屈なので、旅行に出ました。でもあなたのことは好きだから、手紙は毎日書きます」みたいなことを。それで実際に彼は、その子のために一生懸命毎日偽の手紙を書くんです。「今日はこんなことをして、こんな人と知り合って、こうなって」と3週間くらいずぅーっと書いていって、子供はそれによってだんだん癒されていく。最後に、人形はとある青年と知り合って、結婚しちやいます。「だからもうあなたにお会いすることはできませんが、あなたのことは一生忘れません」っていうのが最後の手紙になっている。それで女の子もすとんと納得するわけです。
 そんなまめなことって、普通の人にはできないですよね。ぜんぜん見ず知らずの女の子なわけだから。なぜカフカにそんな面倒なことができるかというと、夢の、架空の世界の細密さに対する異常なこだわりが彼の中にあるんですね。だからその具象性を細密に描写することを毎日毎日やっていても飽きない。面倒じゃないんですね。女の子も人形を失った悲しみは、「人形からのお手紙」を受け取り続けることによって消えちやうんです。彼女は人形がなくなったという無秩序から、人形がないという新しい秩序へと移されるわけです。それは本当にすばらしい話だと思うんだけど、でも僕も、そういうのはちょっとできそうな気がする(笑)。
 ――村上さんは、カフカとそういうところは同質性を感じるんですか。
 村上 同質性かどうかはわからないけど、僕だって、公園で人形を無くした小さな女の子が泣いていたら、毎日、人形の手紙を代筆するかもしれない。そうしようと思ったフランツ・カフカの気持ちはよくわかります。そういうことがなぜ楽しいかというと、物事のあり方をとにかく細かく描写できるからなんですよね。説明するんじゃなくて、子供に受け入れられるような言葉で、いちいち具体的に描写するんです。お人形の手紙というかたちをとって、架空の世界をそこにどんどん立ち上げていくんです。僕もそういう立ち上げって大好きですね。
 だから僕が読者に伝えたかったのは、カーネル・サンダーズみたいなものは、実在するんだということなんです。彼は必要に応じて、どこからともなくあなたの前にすっと出てくるんだ、ということ。それこそタンジブルなものとして、そこにあるんです。手を延ばせば届くんです。僕は彼を立ち上げて、彼について描くことを通して、そういう事実を読者に伝えたいわけです。

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■「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
 ――ぐるっと回って、やっばり物語の成立というところへ、村上さんの中で物語、小説を書く一番の原動力のところにまた戻ってきたわけですね。
 村上 僕がこれまで書いたもので一番苦労したのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」のほうのあの壁の中の街をどのように描写するかということでした。僕にとつては大変な問題であって、まず最初に「文学界」で「街と、その不確かな壁」という中篇を書いて、どうしても納得できなくて、それは潰して、何年かかけてもう一度書いたわけです。あれを書く作業は僕にとつては一番大変な作業でした。だからこそ僕はパラレルな形式を持ち込んで、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というまったく違う作品にしたわけだけれど、「息の長い細密な描写力を身につけなくてはならない」というのは、僕にとつての命題として残ったし、僕は以来それなりに努力してちょっとずつではあるけど、身につけていったと思うんです。たとえば今回の甲村記念図書館の描写だって、やっばり『世界の終り』の描写があったから、いま自然にできるんですよね。まあ何だってそうだけど。ああいう立ち上げというのは難しいんですね。どれぐらいリアルに細密に立ち上げられるかというのは。要するに、描写力なんです。
 ――甲村記念図書館の責任者である佐伯さんが、最後に死んだ後、森に入っていって、カフカ君に対して、「もとの場所に戻って、そして生きつづけなさい」と言いますね。『世界の終り』では、「僕」が森の中に入っていく。これはそれと違って「僕」(カフカ)が森から出て来ます。『世界の終り』のあの部分は前の全集の解説でも6回だか7回書き替えたと書かれていた場面ですが、森の中に入っていくところでこれで物語が終われるかというふうに思われたんでしょうけども、こんどの作品では書いていく中で違う形が生まれてきたということでしょう。
 村上 『世界の終り』は結末を、僕も、どうつけていいかよく分からないところがあった。いくつか可能性があるわけです。たとえば「影」と「僕」が一緒に戻る、「僕」と「影」が一緒に残る、「僕」が帰って「影」が残る、「影」が帰って「僕」が残るという、その四種類があるわけです。そのどれにするかで本当に迷いに迷ったんです。で、結局は「僕」が残って「影」が帰っていくという形になりますね。いまそれに関しては僕は別に全然後悔してなくて、それはたぶんそれで良かったんだろうと思っています。「僕」は森に行って住むんだろうと。そのときの僕にとってはそれが一番正直な結論だったんです。
 でもいま書くと違うものになると思うし、カフカ君は影を抱えたまま帰っていきます。現在の僕が物語を書くとしたらそういうふうにしか書けないと思う。それはやっばり僕自身の世界観というか小説観みたいなものがたぶん変わってきたからだと思うんです。責任感というと簡単な話になっちゃうんだけど、物語に対する責任感というのかな。社会的な責任感、人間的な倫理的責任感というよりは、物語性に対する責任感みたいなものがあるのかなというふうには思う。今回の結論に関しては全く悩まなかったですね。『世界の終り』に関しては、「僕」にはまだ帰ってくるだけの力がなかったというのかなあ、物語的にね。あのときは、たぶん「僕」は森の中に入っていきたかったんだと思う、影だけは帰しておいて。そこで影を失ったまま生きてもいいと思っていたんだと思う、個人的に。

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 ――『海辺のカフカ』では、佐伯さんがお礼を言いますね。「僕」に「会いに釆てくれてありがとう」と言われて、「私こそ」みたいな感じでこたえます。この言葉の意味は……。
 村上 それはつまり、カフカ君が佐伯さんを救ったからです。そして佐伯さんも同時に彼を救ったんだと思う。お互いのその身を切るような交換の中で、世界がおさまるべき場所に静かに収斂していくんだというふうに、僕は考えてるんです。
 ――佐伯さんは、亡くなった恋人のことをずっと正確に記憶して生きている。カフカ少年は、「海辺のカフカ」の音楽の魅力が分かる少年らしい。そうすると彼は、「海辺のカフカ」なり佐伯さんの記憶なりを受け継いでいくことができるということですか。
 村上 やっばり彼女が言うように記憶の中でとどまるということだと、僕は思っています。世界の実在というのは、いつかは終わるけれども、その実在したという記憶というか手触りみたいなのはどこかで残っていくわけだから、僕は、そういうものをある程度信じますね。
 物語を書くということもそれと同じなんですよね。僕は齢を取って消えていくわけだけど、僕の書いた物語は何らかの形で残るかもしれないということは、すごく感じる。それは子供をつくつて残すのとある意味で同じなんですね。ただ僕の場合は子供をつくらなかったから、そういう物語性みたいなものにして残していくというのが大事になってくるんですよ。でも物語はある程度責任を持って書き直すことができるけど、子供の場合はなかなかね、難しいですね。マズったなと思っても、ちょっと書き直すってわけにはいかないし(笑)。

■文体とはフィジカルなもの
 ――ひきつづき、少し細かいことをいくつかおうかがいしていきます。大島さんの性同一性障害。大島さんには男と女と、二つのものが一つの中に集まっているような感じがあるわけですが、どうも最近メディアにもよく取り上げられる性同一性障害者をことさら登場させているというふうに読んでしまっている人たちがいるのかもしれません。
 でもプラトンの『饗宴』なんかも引用していますね。「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた」という話。大島さんはこの男女的存在です。

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 村上 やはり、大島さんは異形のものとしてあるわけです。ただ、僕、思うんだけど、たとえいましばしば話題になっているとしても、たとえば20年後に誰もそんな視点からは読まないですよ。小説とか物語というのはある程度長い時間性の中で読まれるべきだと思うし、たまたまそうだったとしても、物語が時代を経て残っていくのであれば、乗り越えていくものでしょうね。
 だから現象としてトピックになっているかどうかはともかく、僕は、あの人の設定はああするしかなかっただろうなと思うんです。大島さんにはある程度「異形的」なものが必要なんだけど、たとえば魚と猫の一緒になった顔というのは、これは異形だけど、そんなことしたら小説にならない。彼は端正な青年という役なんだから、そうすれば内部での異形性しかないでしょう。そうすると、やっばりセクシャルなもの、どうしても性器的なものというふうになっちゃいますよね。僕は、そう思うんだけど。大島さんというのはイノセントというのか、穢(けが)れがないものなんですよ。うまく言えないけど、とにかくそういう両性具有の穢れのなさみたいなものを僕はすごく感じるんだけど。
 自分が何であるかというのは、彼というか彼女には分かってない、まったく。自分がこの世界にピンで繋ぎ止められないという存在なわけです。それに血友病というのは女性には基本的にないんですね。でも、彼は血友病であるという、なんかわけの分からないところにいっているんです。カフカ君を導くというのは、そういう人にしか無理なんじゃないかと僕は思うんだけど。導き手というのは。
 ――この小説の文体についてですが、今までお書きになったものの中で一番中立的というか、ニュートラルな文体という気がしました。どういうふうにでも変身できるという意味をふくめて。
 村上 そうですね。いろんなかたちの物語を書いていくためには、どうしても文章はニュートラルになっていかなくちやならないというところはあると思います。だからそういう風に変わっていくんだと思う。結局、僕の場合、文体修業というのはまったくしなかったんです。物を書こうという気持ちがもともとなかったわけだから。ほとんど誰の文体も追ってないというところがあるから、そういう意味では強いですよね。自分で創ったものだから、いくらでも自分で変えていけるし。
 あれこれ言う前に、やっばり小説というのは文体だと思うんです。僕は文体というのはフィジカルなものだと思うんです。自分の中のフィジカルな流れとか強さみたいなものが文体を規定している。頭で考えた文章というか文体というのはあんまり意味持たないと思うんです。少なくとも小説の場合にはね。僕は、どちらかといえば肉体的にものを創っていくタイプだから。

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 僕は専業の小説家になってから20年くらいになりますが、ずっと一貫して、早寝早起きして、身体を鍛えて、節制して、ということを意識してやってきました。肉体労働者的になるっていうか、僕は思うんだけど、どろどろした闇の領域みたいなところに行き着くためには、フィジカルに鍛えていないとどうしようもないんですよね。あくまで僕白身の小説の世界のことを考えれば、ということだけど、不健康であるためには健康でなくてはならないという、逆説的なテーゼに行き着くわけです。こつちが弱いと、暗闇の中を歩き回るという作業に負けちやうんです。そしてある種のとくべつな非現実的な領域には、日々のルーティンを通してしか辿り着けないんです。毎朝何時に起きて、ハードに身体を動かして、何時間かきちんと机の前に座って、まともな食事を三度三度取って、というような日常をバカみたいに続けていないと見えて来ないものってあるんです。そういうのを延々と続けていくと、理不尽なものというか不定型なもの、とらえきれないものが、あるときやってきます。宗教的な儀式もそうですよね。同じことを、ハードなプラクティスみたいなことを何年も何年もひたすら積み重ねて、そこで何かが来るんですね。
 だからね、オウムの信者がやっている修行みたいなものもある程度理解できるんです。でも僕は徹底した個人主義者だから、誰に何も引き渡さないし、誰とも連帯しない。あくまで自分の小説を書くために、そういうプラクティスを現実的に個人的にやっているだけです。そこが彼らとは違うんです。現実との接点を失ってしまったら、それでおしまいです。

■「日本のことを書くからこそ意味がある」
 ――村上さんは、よく外国に行ったり、外国に住んだり、外国で書いたりしています。そのせいかアメリカ文学の影響を強く受けているとかいわれたりしますが、作品だけを読みつづけてみるとずっと日本にこだわって書いてますね。
 村上 そうですね。よくアメリカの読者とか編集者とかに、「どうして君はアメリカに長く住んでいながらアメリカでのことを書かないんだ」と言われる。でもやっばり僕は日本人のことを書きたいんです。僕はアメリカ文学、外国文学に非常に強い影響を受けているんだけれども、その方法みたいなのを使って日本のことを書くからこそ意味があるんだと自分では思ってるんです。中には僕が外国のほうに目を向けて作品を書いていると言う人もいるようだけれど、そうだとしたら、『雨月』とか『坑夫』を出してこないですよ。そんなこと書いたって分からないんだもの。

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 だからやっばりある程度時間が経つと日本に帰ってきてこういうふうに暮らしているけれど、それは日本回帰ということではなくて、最初からそうなんです。最初から日本人がどういうふうにこの世界で生きているかということに興味があるんですね。
 文章的に言えばたしかに、僕の文章は日本的な文章ではないですね。たとえば川端とか三島みたいに日本語と情緒的に結びついているというか絡み合っているという部分は僕の文章にはないです。はっきり分けているから。にもかかわらず残る日本人的なものというか日本的なものに興味があるんです。べったりと行くんじゃなくて、離れよう離れようと思いながら離れられない部分ということに興味がある。それは何かといえば、やっばり日本における一種独特な前近代性みたいなものじゃないかなあ。ただそこに僕は決して回帰したわけじやなくて、最初からそれには惹かれているんです。日本を出ていたのは、まわりを囲んでいる「制度言語」みたいなものからしばらく離れてみたかったということもありますよね。そういう面では意識的なのかな。
 僕の作品がある程度外国で受け入れられているとしたら、それはやはり、僕が日本人であること、日本の作家であるということに対して意識的だからだと思いますよ。外国に行って、たとえば朗読会なんかやって話をすると、僕の日本的なものというのに対する質問が多いです。僕がグローバルであるということよりは、僕が日本的であるということに対する興味が大きい。これほどニュートラルな文体で物語を書きながら、どうしようもなくその物語の質が日本的であるということに対して外国の人はかなり意識しているみたいな気がする。
 ――具体的にはどういう質問があるんですか。
 村上 やっばり「謎」ですね。「謎が謎として残っていくというのは、それは日本的なことか」という質問が多いです。西洋であれば、謎というのはある程度解き明かされる。意味もなく人がいなくなって意味もなく人が死んでいってわけの分からないのが出てきて結論がはっきりとしないままにその物語が終わるということに対して、彼らは決して苦情を言うわけではなく、非常に面白いが、西欧、あるいはアメリカの文学には見られないものだけど、これは日本の固有のものか、というのが質問のひとつの定型ですね。
 ――ドイツでは『国境の南、太陽の西』がすごく読まれているようだし、ロシアでもたくさん読まれている。新聞の情報を通してしか知らないんですが、自分の感情にすごく共鳴するところがあったということのようです。それは要するに、日本的なものを探っていく中で広がりが当然あるということなんでしょうか。

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 村上 そうですね。結局、いまの世界が経験していることは何かというと、再編成ですよね。冷戦後の世界体制の再編成や経済の再編成、テクノロジーの再編成があって、当然文学というのも再編成されていかざるを得ない。で、そういう再編成におけるいちばん深刻な問題は何かというと、それは整合性の欠如ですね。これまである種の整合性の枠内である程度明白にとらえられたものが、そうじやなくなっている。混沌の中に呑み込まれていって方向が分からなくなっているわけです。その中で、これまでの方向感覚、座標軸ではとらえられなかったものを違う座標軸でとらえなくてはいけないんじゃないかということが出てくるわけです。そこで何が有効になってくるかというと、さっきから言っている物語性なんです。僕に言わせればね。
 物語というのは、世界中にあります。ギリシャ神話の物語性、日本説話文学の物語性、ディケンズの物語性、ドストエフスキーの物語性、いろんなところにいろんな異なった物語性があるんだけど、世界中の神話に共通する部分があるのと同じように、物語性の中にもお互い呼応する共有部分というのが、いっぱいあるわけです。そういうものでいくしかないんじゃないか。そういうものを妙なスーパーナチュラルな形、たとえばオウム真理教みたいな、即効的な、「こうやったらここに行けます」みたいな形で持ち出すんじゃなくて、もっと高められた物語という、芸術という領域に持ち込まれた物語という形ですくい取っていけるんじゃないかというふうに僕は思っているわけです。川端的な日本的情緒というのをエキゾチックな形で外国に示すとか、そういうことではもうなくなってきているんです。交換可能なものとして提出するしかないと思う。こつちから何かを差し出すけど、そつちから何かを差し出してくれと。

■世界の流れ方に耳を澄ませること
 ――この作品の中にも出てくるけれど、資産の流動性とか、情報の流動性とか、さまざまな面で流動性が強まっている。境界が消えているということでもあるのでしょう。
 村上 だからこそ僕は日本のことについて、もっと突っ込んでいきたいし、だからこそと言うんでもないけども、『アンダーグラウンド』の取材なんかでも、やっばり日本人とは何かということが強く意識にありますよね。

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 ――物語という人間の持ったものは言語そのものと密接につながっていて、言語を持った瞬間にまで物語に至る道筋がたどれるとしたら、それは要するに、「非近代」という色が濃くなりますね。
 村上 そうです。僕の場合、物語ということで追求していくと、ある部分そういうところに行くことになるんじゃないのかな。ただその非近代を現代にいま持ち込むというのは、ある意味では危険を伴うことなんですよね。政治的にも危険なことです、もちろん。下手すれば宗教がかってしまうし。
 たとえばヒトラーがやったみたいに古代ゲルマンの神話体系を持ち込んでくるようなことになってしまうと、すごくまずいことになります。だから非近代の中でも、ある程度腑分けしなくちゃいけないわけです。その腑分けを意図的に取り違えてしまう人がいると、これは危険なことになると思う。
 ――そこに経験、技術、フィジカルな強さ、すべて求められるということですね。
 村上 ええ。変な言葉を使うと倫理観ですよね。そういうものを持ち込むことに対する倫理観がなければ、有効な物語というのは成立し得ないと僕は思う。倫理観ということ自体が非近代的なものなのかもしれないけれど。
 ――『海辺のカフカ』の真ん中あたりに一回、最後のほうでもう一回、「風の音を聞くんだ」というのが出てくる。それは大島さんの言葉としても出てくるし、佐伯さんの言葉としても出てきます。村上さんの読者なら、最初の作品――「聞く」という字が違うけれど――が響いているなと思うんですが、これが最後に出てくるから、何か別な形でスタートの場所に戻っていくのかなというのがあるんでしょうか。
 村上 あれは、どつちもカポーティの小説からの引用ですね。「最後のドアを閉じろ」でしたか、あれの最後の文章。『風の歌を聴け』という題をつけたときも、その文章からつけたんだけど。うん、だから気持ちとしてはやっぱり一番最初に戻っていくという気持ちはあるのかもしれない。最初のときどうしてそんなものつけたのか、僕は思い出せないんだけど、やっばり何にもないところで耳を澄ませているというイメージがすごく強かったと思うんです。あれこれと考えたってしようがないじゃないかということもあるのかもしれない。風の音に耳を澄ませるだけでいいんだというのは、世間の在り方というか、世界の流れ方に耳を澄ませることですね。それが一番大事なんじゃないかなという気持ちはあるんです。それを解析したり、あれこれ考えたりするよりも。
 僕にとって大事なのは、いかに人に対して説得力を持つ物語をつかみとつて立ち上げていくかということでしか語れないですよね。その出された物語がどう受け止められるかというのは、やっぱり時間に任せるしかないです。これが10年20年経って、死んでみなきや分からないし、また死んで一回りしてみなきや分からないっていうところがありますよね。だからもうそれは時間に任せるしかないです。だから本当はあんまりこんなふうに喋ってもしようがないというところはあるんだけど、でも、まあ時間ばっかりに任せてるわけにいかないし……(笑)。

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■いま、いかにして深い文学を書くか
 ――ホームページのなかで、読者の評価はべつとして、作家として大きな手応えを感じた、とありました。また、これからは総合小説というのを目指していきたいともありました。そのへんを聞かせてください。いつ、何を書くというのではなくて。
 村上 僕がこれまでやってきたことは、どれだけ物語のドライブというのを引き出してその中に自分を乗っけて、どんどん、どんどん話を進めて、人物がどんなふうに動いていくかというのが、命題だったわけです。それは『羊をめぐる冒険』に始まり、いろんな方法で書いて、たとえば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、観念的なところで話を進めて、『ノルウェイの森』では、完全なリアリズムで話を進めて、まあいろんな方法で試してきた。これから先は、やはり、物語自身を複合化させるしかないかなという気はしてるんですよ。そういうふうに一つの物語で物事をどんどん推し進めていくということだけでは収まらなくなってきたかなあと思う。物語と物語を重層的に重ねて話を創っていくしかないのではないか、それは何だというと、やはり総合小説なんですね、ドストエフスキー的な19世紀的な。ということを『悪霊』を読んでいてちょっと感じたんですよ。『悪霊』というのは不思議な話で、誰が主人公かよく分からないんですね。群像小説とかいうんだけど、そうでもない。何が主人公かといえば、そこにある「物語の意思」なんですね。最初に誰に感情移入していいかもわからないんです。そういう小説というのはすごく惹かれますね。最初の何十ページか延々つまんない文学の家庭教師みたいな人の話になっていて、これが主人公なのかと思うと全然関係ないんですね。
 いま僕の頭の中にあるのは、そういうことができるかできないか、実際にやるかどうかは分からないけれども、複合した物語です。ミクロコスモスみたいなもの。そういうものを書きたいなという気はするんですよ。どんどん物語に乗っけていくというのは、やり尽くしたとは言わないけれど、もうひとつ上にいきたいなという気はするんです。でも、それは時間がかかりそうだなあ。
 そのためには、やっばり人物というもののタイプをいくつもいくつも出していかなくちゃいけなくて、たとえば大きい絵を考えてもらえればいいと思うんですけど、その中にいろんな人の姿を描き込む力がなければ、そういう大きな絵というのはできないですよね。たとえば中世のブリューゲルとかの絵がありますね、そこにはいろんな話が情景として描かれている。その細かいところ、もう一度この細部を見たいという気持ちで何度も読み返してもらえるようなものを書きたいなという気はするんですよ。
 問題は、やはり、いまの社会には、知的階層というのがなくなってきていることです。これは、好むと好まざるとにかかわらず。たとえば19世紀小説は、ブルジョアジーの知的階層によって熱心に読まれ、支持されていたわけですね。
『悪霊』だって雑誌連載でしょう。雑誌を買って熱心に『悪霊』を読む層がいたわけです。ところがいまではそういう層そのものがどんどん薄くなってきて、文化の担い手は完全に大衆化している。その中で深い物語とか深い文学を書くのにはどうすればいいのかということが問題になってくる。僕らは、十九世紀と違ってライバルがすごく多いんですね。テレビゲームがあるし、テレビがあるし、貸しビデオ屋はあるし、インターネットがあるし、もうありとあらゆるものがあるわけです。その中で勝ち残っていくというか、生き残っていくというのはものすごく難しいんですね。

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 ――ケータイ電話をバカバカしいとはいっていられない状況がたしかに切迫してあります。
 村上 そういうふうに教養体系みたいなものがガラガラ変わっていく中で小説というものがどのようにして生き残っていけるのかということを、僕は、やっばり考える。文学というのは別にそういうこと考えなくていいんだと言われればそうなのかもしれないけど、僕が考える物語というのはそうじゃないんです。僕は文芸社会の中で育ってきた人間じゃないから、やっぱりひとりの生活者として、生活の延長線上にあるものとして、文学を考えます。僕の考える物語というのは、まず人に読みたいと思わせ、人が読んで楽しいと感じる形、そういう中でとにかく人を深い暗闇の領域に引きずり込んでいける力を持ったものです。できるだけ簡単な言葉で、できるだけ深いものごとを、小説という形でしか語れないことを語る、というのをしないことには、やはり、負けていくと思う。もちろん、ごく少数の読者に読まれる質の高い小説もあっていいと思います。でも僕が今やりたいのはそういうものじゃない。
 僕はむしろ文学というものを、ほかのものでは代替不可能な、とくべつなメディア・ツールとして、積極的に使って攻めていきたいというふうに考えるんです。物語の力というものがある限り、それはじゅうぶん可能なことだと思います。だって文学っていうのは最古のメディアのひとつですからね。再編成の時期というのは、なんでもできるチャンスに満ちた時期のことでもあるんです。                  (了)
[出典 「文学界」2003.4月号 文芸春秋社]

6. 読後感
 あたらしい小説がまた一つ生まれた。村上春樹氏の長編小説として、独特の物語の世界だと思う。多分氏の小説は好きな人と、嫌いな人が分かれるだろう。私としては未だ作品の半分くらいしか読んでいないと思うが、氏の作品を体系的に読んで、作品の意味するところを理解する必要があるだろう。多分川上さんの書評「人を損なうものに抵抗してゆく」のように、そこから自分としては何を読みとるかということが大切だと感じている。
 2003年7月に追加したロングインタビューは内容の理解に役立つのではないか。特に村上作品に初めて出会う方には、理解しにくい点が多いかと思うので。

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[Last Updated 7/31/2003]