談山神社(だんざんじんじゃ)


 桜井駅から多武峰(とうのみね)行のバスに乗ると約25分で終点に着く。杉木立が目前に迫り、すっかり深山(みやま)に来た感がする。関西の日光と言われるように、夏も涼しく秋は紅葉が美しい。シーズン中は観光客や修学旅行で大変賑いをみるが、普段はとっても、もの静かな山峡(さんきょう)である。
 談山神社は藤原鎌足の墓所で、彼を祭神とする神社である。鎌足は現・高市郡明日香村で614年に生まれ、中臣(なかとみ)と称した。皇極(こうぎょく)4年(645)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を助けて、蘇我入鹿(そがのいるか)を飛鳥板蓋宮大極殿(あすかいたぶきのみやたいごくでん)で誅殺(ちゅうさつ)し、大化改新を断行する。死の直前、天智18年(669)に大織冠(たいしょくかん)内大臣という人臣最高の位と藤原の姓を授けられた。同年薨(こう)じ、摂津阿威山(せっつあいやま)に葬られるが、後、長子定慧(じょうえ)により多武峰に改葬された。
 屋形橋を渡り、長い参道をよって行くと、杉林の中に苔むした石垣が残っている。勢いが盛んだった頃の僧坊の跡で、江戸時代には42の塔頭があったという。鳥居をくぐり階段を上ると朱塗りの本殿、拝殿があり、周囲の緑と建物の朱の対比が調和している。
 本殿は三間社春日造(さんげんしゃかすがづくり)で極彩色が施されており、桃山美術の粋を極めた豪華絢爛な建物で、日光(にっこう)東照宮はここをモデルにしたと言われている。
 拝殿は南面を舞台にして崖(がけ)にかけ出された舞台造(ぶたいづくり)になっており、内部は千畳敷と言われる大広間になっている。中央の天井には唐から渡来したという伽羅木(きゃらぼく 香木[こうぼく])が用いられ、吊燈籠(つりどうろう)が並んだ廻縁(かいえん)からは南の山々が眺望できる。
 また本殿の西方、石段を少し下った所に十三重塔(神廟[しんびょう])が建っており、柱の下には鎌足の遺骨が納められている。高さ約17m、木造十三重塔としては日本唯一のものである。屋根の勾配(こうばい)は緩やかで、各層が低く重なっており、調和のとれた安定感のある塔である。
 この塔の下の広場で、毎年11月の第2日曜日に『蹴鞠祭(けまりまつり)』が行われる。紅葉のいちばん美しい時期とも重なり、遠くから見学者が大勢集まってくる。『蹴鞠祭』は、皇極3年(644)正月、法興寺(ほうこうじ 現飛鳥寺[あすかでら])の槻(つき)の樹の下で蹴鞠をしていた中大兄皇子の皮鞋(くつ)を鎌足が拾い取って奉ったという故事により、御神霊を慰めるため、昭和2年から古式床しく始められた。16人の奉仕者(京都の蹴鞠保存会の方)が共に鳥帽子(えぼし)、狩袴(かりばかま)という古風な装束で、前後2回、8人ずつで鞠を落とさないように掛け声を入れながら、次々と蹴り渡していく優稚な祭事である。
 その他の特殊祭事として嘉吉祭(かきつさい 10月11日)がある。永享(えいきょう)10年(1434)8月に多武峰一山が兵火にあったので、御神像を橘(たちばな)寺に移した。3年後の嘉吉元年(1441)8月元の地に遷座(せんざ)し、同年9月中旬に『百味の御食』と袮する神饌を供したことがこの祭事の始まりである。米をを5色に染め、絵紋(えもん)型に積み重ねたものや柿、栗、銀杏(ぎんなん)、山梨(やまなし)など野山の果物を見事に盛ったもののお供えは珍しく美しい。
 この多武峰には神異(しんい)現象があり、国家に一大事が起こる前触れに神社の裏手の山御破裂山(ごはれつやま)が鳴動し、本堂の神像にひびが入ったという。これも鎌足を神格化し、藤原氏の繁栄を図るために生まれたものであろう。
 談山神社の西大門から西を眺めると見晴らしが良く、畝傍山(うねびやま)、二上山(にじょう)が美しい。西に下ると石舞台に出る。
 南に旧道をとると、冬野(ふゆの)を経て竜在峠(りゅうざいとうげ)、吉野へと続く。冬野は現在4戸の寒村である。村の石田さんの話によると、「この冬野からは、奈良盆地をはじめ大阪平野、神戸まで見渡せるんだよ」とのこと。本当に遠望が素晴らしく、一度足を運ぶに値するだろう。
(出典 「明日香」 (株)編集工房 あゆみ)

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[Last Updated 11/30/2014]